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国際音楽祭NIPPON [国内クラシックコンサート・レビュー]

「長く活動して来て、どこかの時点で音楽界に恩返しをしたいと思って始めたのがこの音楽祭」


「音楽を届けるべきところに継続的な支援をしたい」


第一線の指揮者やオーケストラと共演を重ねながらも、「長く活動を続けるには演奏がうまいだけでは足りない。総合的な力がなくては」との思いを常に抱いてきた。


ただ単に自分が演奏がうまく弾けるだけではなく、演奏家人生として、若い世代に伝えていく、音楽業界のマネジメント・企画を通して自分でモノを造っていく。。。そんな諏訪内晶子さんの新しい人生のチャレンジ。


自分のクラシック人生の中で、これはどうしても避けて通ることができないと思っていたのが、国際音楽祭NIPPON。


諏訪内晶子さんが芸術監督を務める音楽祭だ。


いつかこの音楽祭の公演に行ってみたいとずっと思っていたのだが、なかなかチャンスがなく、ようやく今年行くことができた。


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地方開催中心のこの音楽祭であったが、今年は東京オペラシティで開催され、諏訪内晶子さんのバッハ無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ全曲を2夜にかけて、そして尾高忠明さん&N響とのコンチェルトを1夜、計3夜のチケットを確保し、この音楽祭への初めての参加ということで、意気揚々と乗り込んでいった。


非常に寒い夜が続き健康維持が大変であったが、なんとか無事3夜とも完遂できたのは、責任を全うした、なんともホッと胸をなでおろした限りである。


この国際音楽祭NIPPONを開催する上で、音楽評論家舩木篤也さんナビゲーターのもとスペシャル・インタビューを拝見した。


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ソナタとパルティータはその曲順にやっていく。


ドルフィンとデル・ジェズの倍音の処理の仕方は全然違う。1人で空間で弾いているときは感じないのだけれど、教会で天井が高く、マイクでその音を拾う空間ですとあっこんなに地響きがする倍音を、どうやってそのポリフォニーの中に納めていけばいいのか、そこを結構苦労しました。


バッハ無伴奏はキャリアの浅いうちにやるものではない。熟してから取り組むものだ。


自分と対峙する時間が増えた(コロナ禍)ときに、こういう作品(バッハ無伴奏)に向き合えたのは意味があったのではないか。周りになんと言われようと、あまり気にしないで、まずは入れてみよう。


バッハ無伴奏は、課題曲としては小さいときから接していたが、作品として作り上げたのははじめて。


演奏会のソロのプログラムとしては、何回かあったのだけれど、全曲を作品として完成させるというのは初めてである。


チクルス性


1人の作曲家に焦点をあてて、というのは非常に意味のあることだと思う。ブラームスの室内楽マラソンコンサートもそう。バッハとかブラームスなど、本当に細かいところまでメッセージが込められている。ドイツの作曲家、バッハ、ブラームス、ベートーヴェン、本当にひとつひとつの楽曲で、これも取り上げたい、あれも取り上げたい、というメッセージがたくさん散りばめられているので、なるべく漏れないように、大事に伝えていきたいな、と思いながら取り組んだ。


ソナタ、パルティータの交互の順番になっている。


なにかしらの調性。


バッハの自筆譜。印刷譜とは違う曲風、曲線がある。バッハの息遣い、うねり、手書き譜からよくわかる。印刷譜にはない曲風、雰囲気がある。諏訪内さんのCDからそういうものを感じる。


教会でふたつ並べて演奏していた。自分で用意した印刷譜と、自筆譜。いままでたくさんの人がピリオドアプローチ。奏法だけ取り入れる人もいるし。いろんな演奏のタイプの人が増えてきて、モダン楽器ですべてやるというのはまた別の世界。ピリオドはパキパキと語る、喋る音楽、バッハのなにかが浮かび上がってくる。


モダン楽器をつかった昔からある巨匠達のある種の荘厳さ、パキパキ喋っていくというよりは、なにか厳かな感じ。諏訪内さんはちょうどその間。歌がある。ポリフォニーがすごい豊かで、雄弁になる、その歌謡性は、自筆譜を思い浮かべる。


筆というのは、その人の心臓がよくでる、大体自分の持っているイメージと相反することは少ないけれど、大体予想通りの自筆譜であった。


バッハの場合は、意外に自分が思っているより人間味溢れる曲。バッハを弾き込めば、弾き込むほどそのような曲であることがしてくる。バッハはすごく厳かなんだけれど、それとは別にとても人間味あふれるところを焦点に当てたかった。


グルーブ感、諏訪内さん独特のノリ。


ソナタとパルティータの違い


1曲1曲弾いているときは、そんなに感じなかったけれど、全曲を通してソナタは、そのきっちりとした構成力をかなり意識して、演奏することによってよりその良さが出てくる。


それは3曲を通して2曲目にフーガが入っている。1番のフーガと3番のフーガでは長さが全然違う。やっぱり鏡のように3番は作曲されている。ある中央の地点からカウンターポイントが反転になっている。テーマのところが反対になっている。テーマのところがすべて鏡状になっている。


調性もそうなんだけれど、やはりその辺を演奏者のほうできっちり捉えて演奏すること。3曲のソナタのしっかりしたところを聴かせる。その間に入っているパルティータは舞曲なんだけれど、本当の本当の舞曲というよりは、いろいろなキャラクターが入った舞曲。あまり実際に踊るというよりは、いろんな要素が入った曲だと思う。割と自由に作曲された曲。1番のほうはルーヴルと言って、1曲目の変奏、また2曲目の変奏、という形で自由に作曲されている。その辺を意識して、ソナタとパルティータは別に作曲された曲、という形でまとめた。


パルティータのほうは装飾音を入れることのほうが多かった。1回目のほうには、すべてに繰り返し(リピート)が入っているので、1回目のところにはあまり入れていないが、2回目になったときに当時の演奏法というか、装飾音というのはヴィブラートに近いところもあって、強調するところであったりとか、やはり同じになってしまっても面白くないので、ソナタのほうは最終楽章が繰り返し、演奏されることはあっても、フーガが繰り返されるときに、そういうのはないし、やはりその辺も区別をした、自分の中で。


それなので、装飾音は2回目のリピートしたところに、少しづつ封じながら変えたりとか、あとはアーテキュレーションもそう。


割と自由に演奏しました。


フレージングの作り方、ヴィブラートを少し抑制したり、そういうところは取り入れているけれど、実際のところガット弦などで演奏している訳ではないし、ただし練習の段階でクラシカルボウでかなり練習したので、バッハ自身の中でどう描いていたのかを自分の中で理解はしつつ、自分が演奏しているスタイルからまったく外すということは難しいし、どうしても中途半端になってしまう。それだったら、現代の奏法でまとめたほうがいいのかな、という形で今回まとめました。




ナビゲーターの舩木篤也さんの専門的な内容の誘いも素晴らしかったせいか、諏訪内さんはかなり演奏をする上での細かい事情について、詳しく語ってくれた。非常に参考になった。これは演奏家当事者でないとなかなかわからない貴重な内容だと思う。この情報を元に、そして本番当日自分が感じたことを、述べていきたいと思う。



まず、2/16(水)、2/18(金)の無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ全曲。


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座席は2夜とも、後方席、中央。ホールの響きがよく堪能できる座席である。今回は、初日と二日目、ソナタとパルティータはそのままの順番で演奏された。なので、やはりパルティータ2番、シャコンヌを頂点として、後半二日目のほうが聴き映えするというか、魅せ処が多かったせいか、二日目のほうがお客さんの入りも満員に近く、人気があった。また二日目は週末ウィークエンドということもあったのだろう。


初日に自分が感じたことは、録音とはまったく違う、録音の基準にはまったくあてはまらないライブならではの演奏である、ということであった。録音はやはり未来永劫ユーザーの手元に残るものであり、永久保存版としてユーザーに楽しんでもらうためには、教科書のような模範演奏、襟を正した演奏である必要がある。


そこには均等な規則正しいリズム、インテンポな感じ。完成度という点では、究極の完成度なるべく、文句のつけようのないものに仕上げる必要がある。


でも実際の実演は、そういう録音の作品をずっと聴き込んで臨んだわけだが、ある意味ちょっと意表をつかれたというか、戸惑いがあった。


演奏の完成度としては、やはり録音に勝ることはなく、それと比べると、そういう型にはまることのない、もっと自由に演奏されているという印象があって、どちらかというと少し粘着型のメロディの奏で方であるとか、抑揚の出し方であるとか、かなり自由に弾かれている印象が自分にはした。


録音のような模範演技を聴いてきた者からすると、表現の悪い言い方をするならば、ちょっと雑というか、まとまり感をあまり感じない、演奏パフォーマンスからすると、もうちょっと自由に弾いている、そんな印象である。


でも、ヴァイオリン一挺で、まさに裸一貫という感じで誰も守ってくれる人はいない。自分1人、自分の弾く音と延々と長時間対峙しながら、物語を作っていかないといけない。そういう緊張感の持続、ギリギリの線で続く精神状態。


それをいやというほど自分は感じ取ってしまう。聴衆との間のそういう張りつめた緊張感、空気感を、ステージ上でたった1人ですべてを受け止めて、物語を進めていく、そういう点では、かなり一種独特の異質な雰囲気をもった演奏会であった。


それは二日目のときに頂点に達する。初日は初日で感動したのだけれど、二日目はさらにその上を軽く飛び越えていった。


初日は、どちらかというと演奏の完成度という点では、録音に劣るという印象があったのだけれど、二日目は、その録音を遥かに超える、これこそいい意味での来てみなきゃわからない1発勝負のライブならではの醍醐味があった。


教科書通りの、均等・インテンポな録音をはるかに凌駕する、我々聴衆を一気に高みに持って行ってくれる、いい意味での高い次元での意外性である。


そこには演奏家の息遣い、躍動感があって、ドラマ性のある抑揚感、うねりのある旋律の運び、ゴムまりのように弾む聴衆に対するインパクト、まさに圧倒される感じであった。ボディブローからカウンターを受け、見事なストレートを食らう、我々はそんなサンドバック状態であった。


初日を遥かに圧倒している内容だと自分は感じた。


これこそ録音を超えるライブの真骨頂なのだと思った。


じつは、そう思う伏線があった。

それはヴァイオリンの音である。音が全然初日と違っていた。


自分は、二日目のとき、あくまで初日のときの印象をそのまま継続して構えていたのだが、最初に出てくる1発目の出音がおもわず、オッと思ってしまうほどすごい音で、これは全然初日と違うではないか!という感じであった。


倍音豊かな非常に分厚い音。いろいろな周波数成分の音が幾重にも重なっていて潤いがある分厚い音。そして音像が非常に明晰で、音が立っている。音量も大きい。ヴァイオリンとして申し分のない音である。


ホール空間を空間描写するその色彩感あふれる空間表現力。


こりゃあいい音だな~と自分は惚れ惚れ。

初日と全然違うじゃん!なぜ?


座席の位置はほとんど変わっていないし、二日目のほうが満員で吸音効果が大きいはずだ。自分は理由を解析することができなかった。


やはりこれだけ音がいいと演奏も全然映えてくる度合いが違ってくる。我々に対する説得力が全然違うのだ。


最初の1発目の出音で素晴らしいと感じた印象は、終演まで変わることはまずない。そのままの印象で終えるものである。


二日目の演奏が自分にとって素晴らしいと感じたのは、諏訪内さんの演奏もさることながら、このヴァイオリンの音の空間表現力に他ならないとも思っている。


デル・ジェズは、奏者にとっては、音を引き出してあげることが難しい楽器と仰っていたが、観ている分にはそれほどそのような感じはしないほど、すでに自分の楽器とされている印象があった。


二日目でこれだけ倍音が豊かに出るのだから、それは教会空間で録音する場合は、その倍音をポリフォニーの中にどうやって納めていくのかその処理に苦心するのはわかるような気がした。




バッハの天才が最も力強く発揮され、壮大にして深遠、華麗にして神秘といわれる曲。

ヴァイオリン1挺で広大な宇宙を描いていく曲。


バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ全曲。



この曲は、長い間、練習曲、あるいは伴奏を欠いた不完全な曲とみなされてきた。


バッハを19世紀によみがえらせたメンデルスゾーンでさえ、この曲に伴奏をつけ、出版までしている。メンデルスゾーンのヴァイオリン・コンチェルトを初演したヴァイオリニスト、フェルディナント・ダーフィトも、この曲を親友メンデルスゾーンの伴奏つきで演奏し、その演奏を聴いたシューマンも”それによってこの曲は楽しく聞けるものになった”と評している。


この曲が、無伴奏だからこそ価値がある、ということに気づいたのは、そのダーフィトの弟子、ブラームスの親友だった名ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムだったそうだ。(彼はブラームスのヴァイオリン協奏曲のカデンツアで有名ですね。)


彼は、バッハの自筆譜と向き合い、頑としてこの曲を無伴奏で弾き、その素晴らしさを示すとともに、自筆譜の校訂、出版を行ったのである。以後、この曲に余計な伴奏がつけられることはなくなり、その真価が正しく世に伝えられたのだそうだ。



メロディラインしか弾けないはずの1台のヴァイオリンで、ハーモニーが奏でられるこの曲は、奇跡なのであろう。


諏訪内さんの演奏を聴いていて、シャコンヌやフーガは、本当に重音奏法だらけだと思った。本当は4人で弾いてもよい曲を1人で弾くので、頭の中は大変なのではないか、と思う。


ストイックなまでに求道的で芸術的な音楽



そういう意味で、このバッハ無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲は、ヴァイオリニストにとって、聖なる領域で、いつかは必ず通らないといけない登竜門でもあり、それもキャリア的に十分熟した時期である必要がある、というのはそういうところに起因するのだろう。


イザベル・ファウスト、ヒラリー・ハーン・・・いろいろなヴァイオリニストのバッハ無伴奏の演奏を聴いてきたが、諏訪内晶子さんのバッハ無伴奏は、それらとはまたまったく違ったタイプの諏訪内さんらしいバッハ無伴奏であったと思う。


自分のクラシック鑑賞の金字塔のひとつに堂々とランクインするものである。



そして本日の尾高忠明さん&N響とのコンチェルト。いま帰宅したばかりである。興奮ホッカホッカの茹でタコ状態である。凄かった~~~。


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シベリウスの「ペレアスとメリザンド」組曲は、北欧らしい、シベリウスらしい寒色系、透明感あふれる美しい組曲で、開演の曲としてはとてもいい選曲だと感じた。


続くデュティユーのコンチェルト、ヴァイオリンと管弦楽のための夜想曲「同じ和音の上で」。これはなかなか聴く機会のない素晴らしい曲、かなり自分のアンテナに敏感に反応する曲だった。


アンリ・デュティユーは20世紀後半から21世紀初めにかけてのフランスを代表する作曲家で、2013年までご生存であった新しい世代の作曲家である。


自分は、よく知らなかった。もちろん彼の作品は聴いたことがないと思うが、ジョナサン・ノットがデュティユー好きで、東響の名曲全集で頻繁に取り上げていたような記憶があるので、ひょっとしたらそれで聴いているかもしれない。


ヴァイオリンと管弦楽のための夜想曲「同じ和音の上で」は、アンネ=ゾフィー・ムターによる委嘱作品なのだそうだ。もちろん自分は初めて聴く。


一聴すると現代音楽のような切り口で、非常に鋭利的で、尖った前衛的な曲であった。ヴァイオリンには、こういう現代音楽のようなエッジの効いた音のトランジェントの急峻な曲というのはとても似合うのである。そういう曲調の雰囲気を醸し出すには、ヴァイオリンはとても合っている楽器なのである。諏訪内さんがこういう前衛的な曲を演奏するのは、自分は初めて聴く、体験したかもしれない。


そして休憩を挟んで、メインディッシュのブラームスのヴァイオリン協奏曲。


自分は数あるヴァイオリン・コンチェルトの中でブラームスが1,2位を争う3本の指に入るほど、いやおそらく1番好きであろう、この曲が大好きである。


ブラームス特有の美しさがあるんですよね。重厚で、重さを感じる中の美しさというか。。秋の季節が似合う。。。なんともいえない切なさ、哀愁感が漂う、妖艶、・・・そんなブラームス音楽特有の美しさがある。


モーツァルトやベートーヴェンじゃ出せないんだよね、この美しさは。うまく表現できないけれど、ブラームスの音楽が好きな人であれば、このブラームス音楽に共通している美しさって感覚的にわかってもらえると思う。


蒼々たるヴァイオリン・コンチェルトの中でもメンデルスゾーン、チャイコフスキー、シベリウス、モーツァルト、そしてベートーヴェン・・・美しいドラマティックな曲は数多あれど、このブラームスのコンチェルトほど哀愁漂う美しい曲には敵わないと思う。


そして、このブラームスのコンチェルトを演奏して様になるのは、ある程度の年輪を重ねた円熟期のヴァイオリニストでないと、あの妖艶な色気って出せないと思う。


若い奏者でも、もちろん音、音楽として奏でることはできるかもしれないけれど、それが似合うかどうか、様になっているか、ブラームス固有のあの妖艶な美しさをきちんと表現できているか、となると、やはり難しいと思うんですよね。


あの色気を醸し出すには、そしてそれを演奏していて似合うにはある程度の年輪が必要だと思う。


自分はブラームスのコンチェルトを聴くたびに、いつもそんなことを考えるのである。


諏訪内さんのブラームスは、自分の経験の中で聴いたことがあったけな?という感じで記憶にないのだが、もう言うことのない完璧な演奏だった。


こうして、自分の国際音楽祭NIPPON 2022の鑑賞はすべて終了した。




諏訪内晶子さんの公演は、いままで数知れず足を運んできたが、デビュー25周年、満を持しての、そしていまが円熟の境地というまさにこの瞬間に、国際音楽祭NIPPONで、その晴れ姿を拝見できたことは、自分のクラシック人生での大きな財産であり、これからもずっとこの想い出を大事にしまって生きていこうと思った次第である。





国際音楽祭NIPPON 2022

芸術監督:諏訪内晶子


諏訪内晶子ヴァイオリン・リサイタル

2022/2/16(水)19:00~

東京オペラシティ・コンサートホール


プログラム1

J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番 ト短調 BWV1001

J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第1番 ロ短調 BWV1002

J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第2番 イ短調 BWV1003


アンコール

J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番 ハ長調 BWV1005より Ⅲ. Largo


諏訪内晶子ヴァイオリン・リサイタル

2022/2/18(金)19:00~

東京オペラシティ・コンサートホール


プログラム2

J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 ニ短調 BWV1004

J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番 ハ長調 BWV1005

J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番 ホ長調 BWV1006


アンコール

イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 Op.27-2より Ⅰ. Obsession

J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第2番 イ短調 BWV1003より Ⅲ. Andante



尾高忠明指揮NHK交響楽団、諏訪内晶子

2022/2/21(月) 19:00~

東京オペラシティ・コンサートホール


シベリウス:「ペレアスとメリザンド」組曲 Op.46

デュティーユ:ヴァイオリンと管弦楽のための夜想曲「同じ和音の上で」

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77





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