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【重要なお知らせ】再・ノンノンのブログ増設のお知らせ [雑感]

ノンノンのブログ、日頃愛読いただき誠にありがとうございます。


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つい最近、ブログを増設したと思っていたのですが、なんと、またしても写真データの格納容量が満杯になってしまいました。(笑)2021年に増設したばかりですので、まだ2年しか経過していないのです。それなのに、もう満杯とは!最初のブログは、2012年~2021年ですので、9年かかってます。


今回は、たった2年で写真容量限界です。


このブログの仕様は、最大10GBですので、まっふつうの人は日記ひとつに写真1枚か2枚くらいなのでしょうが、ご存じのように私の場合膨大ですので・・・(笑)


しかし、最初は9年かけて満杯なのに、今回は2年で満杯とはなにが原因なのでしょう?最初の頃に比べて、ますます日記ひとつに掲載する写真の枚数が多くなったのか。それともデジカメの撮像素子の性能アップにより、撮影した画像データのデータ容量が大きくなり、それが負担なのでしょうか・・・。


もう驚くしかないです。つい最近ブログ増設したかばかり、と思っていたので、思わず目を疑いました。


・・・ということでございまして、大変恐縮なのですが、再度ブログを増設させていただきたく存じます。


今後はこちら(新)のほうのブログに日記をアップしていきます。

ぜひブックマークのほどをお願いします。


(新) ノンノンのブログ



(旧) ノンノンのブログ アーカイブ 2021~2023



(旧) ノンノンのブログ アーカイブ 2012~2021



いままで投稿してきた、みなさんが閲覧してきた”ノンノンのブログ”は、ブログタイトルを、”ノンノンのブログ アーカイブ 2021~2023”と変更し、そのまま存続させます。


さらに1番最初に作成していた”ノンノンのブログ アーカイブ 2012~2021”もそのまま存続させます。


それとは別に新しいブログ”ノンノンのブログ”をスタートさせます。

タイトル、画面のデザインなど、三者とも完璧に同じです。(笑)

変わり映えしなくてスミマセン・・・


ブログのタイトルが違うだけです。


この新しく増設したほうのブログのブックマークをよろしくお願いします。


旧のほうのブログもそのままにして残しておきますので、閲覧なさって、アクセスを踏めることはいままで通りまったく変わりません。


私も、この旧のほうのブログのアクセスも毎日確認します。



2つの旧のほうは、日記は投稿できなくなりますが、アクセス解析の機能は、未来永劫に続くものと思います。


新のブログのほうは、新たにこちらに日記を投稿するようになり、その新しい日記のアクセス解析は、新しいほうで確認します。


みなさんにおかれましては、2つの旧と新の両方の”ノンノンのブログ”を活用いただければ、と存じます。


また新のノンノンのブログのほうですが、まだ新設したばかりですので、ネット検索で”ノンノンのブログ”と入力検索してもヒットしないと思います。ある程度の投稿やアクセスが増えていく、ある程度の期間、アクセス履歴が蓄積していかないと学習しないというかネットに表示されませんね。前回の経験でわかりました。



ご面倒ですが、上記のURLアドレスのほうで検索、登録をお願いします。自然とネット検索で表示されるようになります。


ノンノンのブログを開設したのは、2012年11月13日です。

ブログ歴12年です。投稿記事数 1047


まだまだ若輩ですね。

書くことが好きなので、結構マメにアップしているほうだと思います。



もともとブログを開設しようと思ったのは、海外音楽鑑賞旅行で、お世話になった旅行会社のコンシェルジェ・スタッフの方々に現地の写真、日記をぜひ見てもらいたいという目的で開設しました。


ブログなら、SNSと違って、誰もがアクセス、閲覧できるメディアですからね。それで準備いただいたご苦労をねぎらおう、一緒に感動を分かち合いたい、また今後の業務に活かしてもらえれば、という目的でした。


それがいつのまにやら、プライベート一直線のなんでもありの雑種日記となってしまいました。(笑)


もうやりたい放題、言いたい放題、書きたい放題、好き勝手という感じですね。


自分の好きを追求しています。

自分の周りを自分の好きで固めると、ほんとうに幸せになります。

自分の好きを、思いっきり掃き出したいので、書いているようなものです。

好きな気持ちを、誰にも言わないで、自分の中で溜めておくのは精神の健康上よくないと思います。


もともとは、mixiでオーディオ、クラシック、コンサートレビュー、ディスクレビュー、海外・国内旅行をメインに書いていました。ところが近年はどんどんジャンルがいろんな分野に渡り、もう雑種としかいいようがない状態になっております。(笑)自分の興味の範囲がどんどん広がって行っているので、それを抑えることができないです。


興味を持ったこと、人、音楽、すべてのものを書いていきたいと思っております。


この日記を読んでいただければ、ノンノンさんという人がどういう人なのか、どういう考え方を持っている人なのか、その人間像がいっさいがっさい全部盛り込まれていると思います。



昨今は、mixiでの投稿もやめましたし、Facebook/Twitter/InstagramはもともとROMオンリー(読んでいるだけ)ですので、今後は、このノンノンのブログ1本に絞ってやっていきたいと思っております。


まぁ、こんな人間ですが、今後ともよろしくお願い申し上げます。



このつぎの日記投稿から、新しいブログのほうに掲載していきます。







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足が壊れてしまいました。 [街歩き]

外見は極めて健康人そのものなんですが、後遺症はやはりあって、内なる違和感というか、体内がいつもビリビリ痺れているし、顔面がツル感じだし、退院した頃のほうがまだ軽くてよかったんですが、月日が経つにつれてどんどん重くなっていく感じで、これってやはり後遺症なんですかね。後遺症って、すぐには出なくて、月日が経つにつれて、あとになって徐々に現れてくるというか。脳疾患になると、もとのクリーンな状態に戻るということはないんですよね。


救いなのは、頭脳明晰であること、仕事にまったく影響がないこと、食欲旺盛、味覚・臭覚正常、歩くのも正常そのもので、歩いている姿は、外観から見ると、健康人となんら変わらないです。


脳疾患になると、本当に脳に重い障害が残ったり、歩けなくなったりで半身不随、重い後遺症で人生変わったりしてしまうことが大半なので、自分の場合は本当に軽くてよかったです。ほんとうに恐ろしい病気です。再発だけは避けたいです。血液を綺麗にするべく健康な生活を心がけています。


とくに食生活!


入院してから、体重激減!血糖値HbA1cもみるみる良くなっていって、いまや正常値!

この病気、闘病生活23年の自分が信じられないです。(笑)


血液的には、極めて健康なのですが、歩行に難があるというか、やはり昔みたいにたくさん歩けないですね。

体力が昔みたいにない。


もともと旅でも詰め込みに詰め込んで、むちゃくちゃな旅程で歩き回る人だったので、その全盛期に比べて、という意味ではありますが。(笑)正常範囲に収まったのかもしれません。


とくにこれはやばいな、と思うのは、ずっと同じ姿勢を長時間続けて、そこからなにか動き出そうとするとき。かなりヤバいです。在宅勤務でずっと8時間パソコンに向かって仕事をしていたり、あるいはテレビを見ながら音楽を聴きながら椅子に長時間座っているとき、そこから立ち上がったり、なんか動こうとするとき、体が動きませんね。ある維持状態から状態遷移するときですね。


外を歩くのも、歩き出しの最初はかなりキツイ状態ですが、しばらく歩いていると、慣れてきて正常状態になり問題ありません。やはり状態遷移に弱いんですね。


月日が経つにつれて、後遺症は現れてきて、どんどん重くなってくるので、やっぱりリハビリが重要ですね。リハビリは毎日やることが大切です。


体幹トレーニング重要です。猫のバランスポーズやってます。

そして自分の場合、やはり歩くことですね。ウォーキングです。


後遺症がどんどん重くなっていって、10年後になったら杖や歩行器がないと歩けなくなるともう終わりですね。自分の場合、アウトドア派で出歩くことが大好きなので、ふつうに歩けないともう人生終わっちゃう感じで悲しすぎますね。


とにかく歩いて歩いて歩きまくる。襲ってくる老化現象と後遺症に打ち勝つには、もう毎日歩きまくることです。鍛えないとダメです。鍛えないとどんどん衰えていきます。


ウォーキングは毎日やるのがいいですが、夏は暑すぎますね。(笑)

とくに今年は記録的な猛暑だったので。


あと、ウォーキングは毎日同じコースで同じ景色を見ながらだとやはり飽きが来ますね。


オーディオなどの物欲だったり、海外旅行に行ったりすると、確かに気分的にスカッとしますが、やはり予算体力的にキツクて大変ですね。もっとお金をかけないで、人生楽しめたり、気分的に高揚したりすることができないか。


それが自分の最近のテーマでした。


読書もいいけど、もともとアウトドア派の自分にとって、その中で考えたのが街歩きでした。東京に40年間住んでいても、じつは自宅から会社に通勤することに大半を費やしていて、意外や東京の街を知らないことに気づきました。


東京には無数のたくさんの街がありますが、意外やほとんど知らない。こんなに長く暮らしていても、ほとんど知らない街が圧倒的。


街をなにげなく歩いて、その街の景観だったり、雰囲気を知るだけでも楽しいと思うようになりました。いままでは海外の街を体験することで同じように特別な快感を得ていましたが、べつに海外でなくても東京の街でもぜんぜん楽しいです。


なにせお金がかからない。電車賃とときたまするその地のグルメくらい。そしてなによりも知的欲求を満たされる。前日にネットでちょっと予習して、頭に中にその街のイメージを膨らませて、ターゲットを絞ったりすると、ほんとうに当日は楽しさ倍増。新鮮で驚きがあって楽しいです。


街歩きって楽しいですよ。


テレ東のアド街(アド街ック天国)は大変好きな番組なのですが、あれを地で行く感じです。

お金のかからない新しい趣味を見つけた感じです。


そしてこうやって歩きまくることが、自分にとってはリハビリにもなって、健康にはすごくいいのです。ウォーキングだと毎日同じコースで飽きますが、街歩きだったら、いつも新鮮でフレッシュな驚きで楽しくウォーキングできます。


8月の猛暑の時から、横浜を徹底的に歩こう、横浜の観光スポットを徹底的に網羅しようと進めています。8月11日~8月19日は夏休みだったので、もううだるような酷暑の中、もう毎日、横浜の街を歩き続けました。


平日になったら、土日だけになりますが、横浜ウォーキング進めています。横浜はすごい観光スポットが膨大にあるので、まだongoingです。


今日も行ってきました。


今日は、日本大通りの横浜三塔(キングの塔、クイーンの塔、ジャックの塔)と元町ショッピングストリートに行ってきました。


横浜三塔の愛称は、昭和初期に外国船員がトランプのカードに見立てて呼んだことが由来と言われています。


「キング」の神奈川県庁は、五重塔をイメージさせるスタイルで、昭和初期に流行した帝冠様式のはしりといわれています。「クイーン」の横浜税関は、イスラム寺院風のエキゾチックなドームが特徴です。「ジャック」の横浜市開港記念会館は、東南隅に時計塔、西南隅に八角ドーム、西北隅に角ドームを配しています。


横浜三塔は、戦争等をくぐり抜け建ち続けてきました。いつしか船員達が航海の安全を祈り、これを目印に入港したと言われています。


今日、拝見してきましたが、すごい歴史的な建造物という感じで素敵ですね。神奈川県庁は最新のビルもあって、この旧校舎のキングの神奈川県庁との間を渡り廊下で結ばれていました。


この三塔ですが、実は一度に見ることができる場所は限られています。要は同一のフレーム画面の中に、キングの塔、クイーンの塔、ジャックの塔を納めて同時に見ることができる、という意味です。


「①赤レンガパーク」

「②日本大通り」

「③大さん橋」


この3か所でそれが可能なのだそうです。


この3つのスポットを1日で巡ると、願いが叶うという伝説があるのだそうです。これが「横浜三塔物語」です。


カップルで巡ると結ばれるという噂もあります。

この3つのスポットには、ビューポイント、目印(地図)が設けられています。


上の①、②、③はすでに取材のために行っていたところだったので、土地勘がありました。地図上のビューポイントの場所を見て、あ~大体あそこだな~という風にすぐにわかりました。


その中で、たとえば③の大さん橋のビューポイント。こんな感じです。


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この足跡のところに立って眺めてみると、キングの塔、クイーンの塔、ジャックの塔が同時に同じフレームの中に存在して見えるのです。


結局この日、1日で①、②、③のすべてのビューポイントを制覇できました。

きっと願い事が叶いますね。(笑)


本番は、後日のI LOVE YOKOHAMAの日記で詳しく書きます。


クイーンの塔の横浜税関では、横浜税関資料展示室というのが無料で公開されています。


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ここは大変興味深かったです。自分の知的欲求をかなり刺激されたです。輸出、輸入、通関、税関に関するお仕事紹介みたいな感じで、いろいろなパネルで解説されていました。これは刺激的でしたね。個人的に興味のある分野なので。



キングの塔の神奈川県庁は、日本大通りにあるのですが、日本大通りってほんとうに素敵なストリートですね。すごいお洒落な雰囲気いっぱいです。道幅がすごく広くて、両側に植樹がされていて緑が豊富ですごいお洒落です。


その日本大通りに、旧横浜英国総領事館があります。


ここはかねてのネットでの予習で、ここはぜひ行くべき、という意見がすごい多かったスポットでした。本当に国宝的な重要文化財で非常に貴重な建物なので、絶対行くべき・・・という・・


いまは、横浜開港資料館になっています。


隣にある玉楠の木の下で日米和親条約が結ばれたという土地に建つこの建物は、昭和47年までイギリス領事館として使われていました。設計も英国工務省らしく18世紀のジョージアンスタイルの都市邸宅をほうふつとさせるデザインで、玄関周りが特徴的。


横浜開港資料館は、まさに横浜の開港の歴史が解説パネルになっていろいろ展示されていました。みなとみらいにも横浜みなと博物館というのがあって、そこもすでに取材済みなのですが、そこも横浜開港の歴史の展示がされているところでした。


日本大通りの横浜開港資料館は、みなとみらいの博物館をちょっと小振りにした感じで、歴史的にはこっちのほうが古いというか時代を感じました。


自分はなんといっても、この日で一番感動したのが、この旧横浜英国総領事館(横浜開港資料館)でした。ここは最高でした。


これも本番は、後日のI LOVE YOKOHAMAの日記で詳しく書きます。


じつは、この旧横浜英国総領事館でいちばんツボだったのは、そこに併設されているカフェなんですよね。


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これはツボでした。なんか自分は、ライプツィヒの聖トーマス教会の横に併設されているトーマスショップを思わず思い出してしまいました。まさにあんな感じです。中は一面ホワイト塗装で、まさにトーマスショップを思い起こさせる、いわゆる横浜開港グッズに囲まれているのです。そこにこじんまりとカフェがあるのです。そこで元町ブレンドという紅茶とお菓子をいただきました。




元町ショッピングストリートは、横浜開港当時、外国人御用達の店が集まって発達した商店街です。自分は、最初元町商店街と理解していましたが、そうじゃありません。それじゃ怒られます。(笑)やはり元町ショッピングストリートと言わないといけません。


自分は初めて行きましたが、とても素敵ですね。西洋風のお洒落で洗練された雰囲気が漂ってます。600mぐらいずっと続く商店街です。


ブティック、小売店、カフェやレストランなど、日本中からの来訪者を魅了する店が並んでいます。国内最大の中華街からすぐ近くのこの地区は1970年代から80年代の流行「ハマトラ」の発祥地で国際的な雰囲気をたたえた街として有名なんだそうです。ミハマ、キタムラ、フクゾーがその流行を代表する三大ブランドで、今日も高い人気を誇っているんだそう。


横浜が開港した150年以上前に元町の歴史は遡ります。1860年1月、当時の横浜村の住民90戸が、隣接する本村に強制移転させられ、後に本村が横浜元町に地名変更したのが元町の始まりです。元々は静かな農漁業の町でしたが、元町を望む山手の高台が外国人居留地となって変わっていきました。


ここで前日に自分はすごい運命的なことを知ってしまいます。


ここにカフェ・ラミルがあるんですよね。


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自分が自由が丘で通いまくっていた、あのモンブランの美味しいカフェ・ラミルです。カフェ・ラミル横浜元町だそうです。店内の内装は、自由が丘店とかなり違っていましたが、狙っている雰囲気とかは共通のテイストがありました。縦に細長いフロアでした。


ここのメニューにモンブランありました!

自分がカフェ・ラミル自由が丘店で愛し続けたあのモンブランとはちょっと違いました。あのままの姿ではありませんでした。


でもあの当時のあのモンブランをもっと進化させた感じでした。そしてあのアーモンド味のクリームいっぱいなところ、そしてその味は、まさに自分が愛したあのモンブランとまったく同じです。


自分は思いました。間違いない!あの頃のモンブランと同じ。あの頃のモンブランを進化させたものだ!ということを確信しました。


カフェ・ラミルに入れるとも思ってもいませんでしたが、まさかカフェ・ラミルでモンブランを食せるとも思っていませんでした。それも横浜元町で。。。


いい想い出になりました。


元町ショッピングストリートでは、2月と9月に「チャーミングセール」といういわゆるバーゲンセールですね。それを毎年開催します。


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とくに秋の連休に開催されるほうは、9日間で50万人近くの集客があるビッグイベントになっています。洋服、アクセサリー、バッグ、靴など、元町自慢のファッションアイテムはもちろん、食器、家具、輸入雑貨、輸入食品などお値打ちプライスで販売。


今年2023は、9/16~9/24だそうで、9/24の最後の日にぎりぎり駆け込みました。日本大通りの横浜三塔の上にさらに元町ショッピングストリートを強行追加したのも、このチャーミングセールにかけこもうという魂胆で無理やり押し込みました。強行スケジュールです。


元町ショッピングストリートは、じつはふたつの通りがあるんですね。

元町通りと元町仲通りです。


もちろんメインのショッピングモールは、元町通りなのですが、じつは元町仲通りもかなりイケてます。もちろん道幅もすごい狭い細路なのですが、じつはカフェや飲食店はこちらのほうがすごく存在しています。それもすごいお洒落なんですよね。通り自体は一見地味な感じなのですが、その両側にこうなんか埋め込まれているという感じでオシャレなカフェや飲食店が存在しているんですね。


ほんとうに埋め込まられている、という感じです。(笑)


この元町仲通りのほうでは、前日にチェックしていたパスタ屋さんに入りました。とても素敵な店内装でオシャレでした。パスタも美味しかったです。


元町ショッピングストリートのほうも、本番は後日のI LOVE YOKOHAMAの日記で詳しく書きます。


なにせ、すごい長編の連載になりそうで、今日行った横浜三塔、元町ショッピングストリートは相当後になりそうなので、この興奮を抑えきれず、自分へのメモ書き、予告編として書いておきました。


とにかくこの日はもう大感動の1日でした。


そして、この日もよく歩き回ったこと。横浜シリーズは、毎回すごく歩くのですが、この日は、いままでの記録を超える最大の距離を歩いたのではないでしょうか・・・。


とくに日本大通りの横浜三塔が相当歩きました。ビューポイントの3か所が結構お互い距離がかなりあって、いったん撮影終了したのに、あっあそこも撮っておいた方がよかったといって、また戻ったり、行ったり来たりして、相当歩きました。


8月の頃のような猛暑じゃなかったので、助かりましたが、家に帰ったら、かなり具合が悪くなりました。足がもうジンジン病む感じで、もうすごい腫れています。もうそのまま起きていられないので、いったんベッドに入って短時間眠りました。もうその間も足はジンジン。


とうとう足が壊れてしまいましたね。(笑)


横浜シリーズを始めて、こんなことは初めてのことです。


でも毎回これくらい歩いたほうがいいですね。

この足が壊れるくらいのウォーキング、これからも続ける予定です。


来週も歩く予定の横浜のスポットは決まっています。(笑)








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I LOVE YOKOHAMA [街歩き]

横浜というのは、日本一エリアが広い市なので、自分も横浜市民なのであるが、いわゆる世間一般のイメージにあるようなお洒落なハマ、YOKOHAMAという風情とはまたちょっと違うんだな。横浜ってほんとうにいろんな顔をもつ都市なので。


1995年から、いまのおらが街に住み始めて30年。東横線ユーザーなのだが、それで灯台元暗しというか、渋谷方面にはよく行くんだけど、意外や横浜方面、そしてみなとみらい方面にはほとんどいかないんですよね。


東横線は、渋谷駅や横浜駅がまだ地上にあったとき、そして終点が桜木町だった頃。その後、横浜~桜木町間の東横線が廃止になり、みなとみらい線が開通した。終点は元町・中華街になった。


その変遷もリアルタイムで体験した。


でもこれまた意外や、みなとみらい線って普段あまり使わない。せいぜい行っても東横線の横浜駅まで。香川名物の骨付き鶏 一鶴の横浜店に行くときくらいだ。(笑)


横浜、YOKOHAMAはほんとうにおしゃれな観光都市で、デートスポットがいっぱいある魅力的な都市。おそらくいまではどこに行っても外国人でいっぱい。そんな素敵なエリアばかりである。


そんな横浜を紹介したいと思った。自分も若かりし頃に行ったきり、横浜エリアってずいぶんご無沙汰しているな~と思い決行することにした。


横浜は、おらが街もそうだけど、お洒落なハマ、YOKOHAMAのイメージだけではない。いろいろな顔をもつ。呑兵衛の聖地、野毛なんかもそうだ。横浜の別の顔だ。それこそ、横浜市民にしかわからないとっておきのスポットもあるであろう。


でも今回はそこまでやらない。大変だから。


本当に観光ガイドブックに載っているような、いわゆる横浜のポピュラーで代表的な観光スポットに焦点をあてていきたいと思う。


Facebookで横浜関係のコミュニティ、I LOVE YOKOHAMA、ぶらり横浜とかいろいろ入会している。結構毎日、刺激的なんだよね。その投稿写真が。(笑)かなりドキッとする感じで超刺激的。これは、ちょっと自分もリアルにその場所に行かないとダメだな、という気持ちにさせられた。


この刺激的な投稿が原因で、これは今やすっかり灯台元暗し状態の横浜にスポットをあてよう!という気持ちにさせてくれたのである。


今回の日記の連載のタイトルを、そのコミュニティの”I LOVE YOKOHAMA”とさせていただいた。


横浜は、やはり港、船なんだよね。ハマのイメージはやはりこの港、船から由来するところが多いと思う。自分は、生まれ育ったときから陸内地の出身だから、海とか船は慣れていなくて、どちらかというと怖い、というか恐怖感を抱く。とくにあの巨大な船の姿を見ると、すごい怖い。そういう恐怖感をまず抱く。


横浜は、江戸時代、開港に始まって、海外の文化がいち早く流れ込んできた街で、和洋折衷。海外からいろいろな文化が入り込んできたと同時に、日本の文化もこの横浜から海外へと輸出された。そんな文化交流のブリッジ、真っ盛りの街だったのだ。それ以来、商取引、人、モノ、情報の交流はここ横浜を通して行われるようになり、横浜こそが文明開化の象徴的な街となっていったのである。


横浜が、なにかこう異国情緒な雰囲気に溢れているのも、こういう歴史を辿ってきたのがその要因だと思う。横浜にお洒落な雰囲気が漂っているのはここに由来するのかなと自分は思っている。


いまの栄えている横浜のエリアというのは、昔は海だったところなのだ。その海を埋め立て地して整備して、その上にいまの横浜が成立しているんですよね。


横浜には西洋館がたくさんあり、どれも歴史ある素敵な建物ばかり。しかも、神戸や長崎の西洋館と違い、観覧するのにお金が掛らないというのも魅力の一つである。こういう海外異国情緒な点なところが横浜の一番の魅力のように思う。横浜で西洋館巡りはなかなか素敵だと思う。


今や横浜は国内有数の国際都市と言っても過言ではないであろう。


横浜のコンサートホールといえば、みなとみらいコンサートホールである。


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みなとみらい駅に直結していてアクセスもよく、新しいホールで、なかなか素敵なホールである。ワインヤードというよりは、拡張型シューボックスという趣で、ホールの響きもなかなかのホールである。


横浜のホールでしかも東横線のみなとみらい駅で、自分の家からは東横線1本直通ではるかに近いのだが、首都圏のホールに行く頻度に比べるとあまり通っていないかな。(笑)すみません。


ヤノフスキ&ベルリン放送響と河村尚子さん、そしてインバル・都響の「新」マーラー・ツィクルスでみなとみらいホールは通ったことあります。


ヤノフスキ&ベルリン放送響のときは、河村尚子さんピアノ独奏で、ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」。(あれ、4番だったっけ?)このみなとみらいホールって、ピアノの音がすごく綺麗に響くんですよね。クリスタルのように透明感ある透き通った響きで、自分はこのホール、ピアノの響きが綺麗だな~と大感動しました。河村尚子さんを初めて生で鑑賞できた日でした。ヤノフスキは、まだ東京春祭のリングをやる前だったので、日本での知名度もいまひとつでお客さんの入りもイマイチだったかな。(笑)


インバル・都響は、マーラー・ツィクルスをやっているときで、「新」マーラー・ツィクルスというタイトルで、前期は東京芸術劇場、後期は横浜みなとみらいホールでやる、というものでした。自分はこのマーラーツィクルスは前期・後期とも全部チケットを購入して全曲通いましたよ。そのとき後期はみなとみらいホールなので、このホールにせっせせっせと通いました。ほんとうに懐かしいです。マーラー人生だった自分のマーラー生体験の貴重な体験のひとつです。




横浜市は、市町村別で全国最多の人口(2019年7月現在、約374万人)を抱える大都市であり、神奈川県では最大面積を誇る市町村でもある。


しかし、元来の「横浜」はごく限られた地域を指す地名で、現在の山下町(横浜市中区)付近を指していた。久良岐郡横浜村の周辺は入海になっており、現在の関内駅周辺や山下公園などは、関東大震災(1923年)後に埋立事業が行われるまでは海だったほどなのだ。かつての横浜村は入江の先端に突き出た小さな漁村で、1800年代の前半まで、わずか80数戸ほどの漁師小屋が並ぶにすぎなかった。


もともと神奈川県域では、鎌倉幕府の玄関港としての歴史をもつ六浦湊(むつらみなと)(横浜市金沢区)や神奈川湊(横浜市神奈川区)のほうが重要度は高かった。とくに神奈川湊は、港町が東海道の宿場町になったことで、陸路でも重要視された。


神奈川宿の位置関係を見れば一目瞭然、横浜村は東海道から外れた寒村であったが、そんな横浜村が国際港になったのには理由がある。


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1858(安政5)年、江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を締結。それまで幕府は長崎 (出島)で限られた相手とのみ貿易を行ってきたが、黒船の圧力に屈してアメリカと条約を結び、さらにはオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも修好通商条約を結ぶことになった(安政五カ国条約)。


そして幕府は、貿易を前提とする開港場として、函館、新潟、神戸、長崎、そして横浜の5港を指定したのである。


アメリカ総領事のハリスは、当初は神奈川宿の開港を求めた。当時の港の規模を考えれば、当然の要求でしょう。


しかし、幕府としては、外国人と日本人の接触は避けたかったのである。人の往来が多い東海道筋で開港するのを得策ではないと判断し、約9万両もの巨費を投じて横浜港を整備した。それ以前から横浜村に住んでいた住民を元村(現在の元町)へと移住させ、確保した用地に港湾施設を建設したのである。


日本人が外国人と交流をもつことに難色示した幕府は、横浜港に外国人居留地を設置し、その周囲に関所を置いた。このため、外国人居留地は「関内(かんない)(関所の内側)」と呼ばれるようになった。


そして1859(安政6)年6月2日(新暦7月1日)に横浜港は開港し、現在でも6月2日は開港記念日に定められているのである。



開港後の横浜は、西洋文化をいち早く取り入れる場であるとともに、日本文化を海外へ発信する場でもあった。来日外国人が洋画や写真技術を伝え、陶磁器や漆器など、日本の伝統工芸品が海外へ輸出されている。また、幕末には横浜の街や外国人を題材とした浮世絵が数多く制作され、異国情緒あふれる横浜の様子が紹介された。さらに、戊辰戦争を経て成立した新政権は、新橋―横浜間に鉄道を開通させるなどの欧化政策を推し進め、工業国家を目指す。その一方で、民権思想に触れた者たちは、藩閥色の強い新政権への反発を強め、県下に数多くの民権結社が組織された。


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「鎖国」下においてオランダ、中国、朝鮮、琉球との交流は限定的であった。18世紀半ば以降、工業化を進めた西洋諸国の船舶が日本近海へその姿を頻繁に現し、また1840年に隣国中国で始まったアヘン戦争情報は、「鎖国」日本を揺るがすものであった。


そして、1853年ペリー率いる蒸気船は、当時の最先端技術の象徴であり、新たな時代の幕開けを予兆させるものだったのである。かながわを舞台として、日本の近代は始まりを告げたのである。


世界へ開かれたみなとYOKOHAMA・文明開化の音


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安政5ヵ国条約の規定により、のちにYOKOHAMAとして知られるようになる神奈川は1859年7月1日(安政6年6月2日)に開港する。人家もまばらな砂州であった横浜は埋め立てられ、外国人が居住することが許された外国人居留地、日本人商人が店を構える日本人町、そしてその中間に官庁街がつくられ、商取引を行うことができる区域である開港場として整備される。人、モノ、情報の交流はここ横浜を通して行われるようになったのである。


明治政府はまた、新橋-横浜間にわが国初の鉄道を敷設するなど、西洋文明を採り入れた近代化政策を進めていく。横浜と神奈川県域は外国文化摂取の最前線として機能したのだ。


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情報引用元


横浜がなぜ開港の地になったのか?寒村にすぎなかった地が大都市へ~神奈川県の歴史~



【テーマ4】近代「横浜開港と近代化」(神奈川県立歴史博物館)




外国人居留地だった関内。関内もなかなか縁のある街。いまでは毎年の会社の定期健康診断で自分が通う中央診療所がある街だ。かならず1年に1回は顔を出す。ここには横浜スタジアムがある。そして宮崎の居酒屋さん、いっちゃが関内も。。。関内にあったラーメン二郎もなかなか自分の好みに合った美味しい二郎を食べさせてくれるお店だった。


またなによりも、みなとみらい線ができる前までは、横浜中華街には、関内・石川町からアクセスしていたのだ。関内は中華街にいくための街というイメージが強い。いまやみなとみらい線で、元町・中華街駅からそのまま地下通路でダイレクトアクセスですよね。便利な時代になったものです。


江戸時代の鎖国から横浜開港による明治時代の文明開化の象徴的な街であった横浜。


そんな明治時代の横浜の風景も、いまや令和の時代の横浜。

こんなに風景が変わっている。時代の変遷というものです。


インスタグラムで、そういう昔の横浜の風景と、いまの横浜の風景を比較して懐かしむ。。そういうとても粋なアカウントがある。@yokohama_meiji_romanticさんなのだが、ここは数枚のお写真をお借りして、その横浜の変貌をご紹介したいと思う。


みなとみらい21


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赤レンガ倉庫


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横浜中華街


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馬車道


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大さん橋


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さて、


I LOVE YOKOHAMA


これから横浜の素敵な魅力をいろいろ紹介していきたいと思う。紹介と言っても、べつにそんなにかしこまったことではなく、自分が直接その横浜の観光スポットに出向いて、自分のカメラで写真を撮って、自分の肌でその感動を実感し、その感想を述べる。そしてその場所に纏わる歴史やいろいろなうんちく、そしてもしあるならば自分のその地に対する想い出や想い入れ。そして特産物、ぜひここに来たら通うべきレストラン、食事処などのグルメ情報。。。そういうのをノンノン・スタイルでご紹介できれば、と思う。


なんてことはない。いつもやっている街歩き日記の横浜編と考えてもらえればいい。


ただ、横浜は大変大きな都市なので、観光スポットも膨大にあり、この連載、かなり長編の大作となりそうだ。今年春に決行したDX時代のコンサートホールのときの連載を、はるかに上回る連載となりそうである。ぜひ楽しみにお付き合いください。


この横浜エリアの散策は、猛暑だった8月からスタートした。まだ全候補地、完遂していなくて、いまだにongoingの状態である。



東京2023 酷暑日連続 23日 記録更新中!

毎日36度の灼熱地獄。


顔、腕、足真っ黒に日焼け。全日程とも快晴・酷暑。 皮むけてきた。体重激痩せてきた。血糖値(HbA1c)極めて良好!毎日グルメ爆食いだったにも関わらず。たぶん運動のせいだ。運動療法も効果あるんだな。


毎日、午前9:00~午後15:00のもっとも暑いときに実行した。夕方遅く涼しくなってからというのは性格的に待ってられない。


横浜を散策と言えば、イコール灼熱の太陽ギンギラの真夏の日というメモリアルが一生脳の中に埋め込まれることになるだろう。


汗びっしょり。帰宅したらもうグッタリ。帰宅したら、冷や水のシャワーを全身に浴び、それでも体は火照っていて、クールダウンするのに、4~5時間かかった。それを毎日やっていた。


1日のペットボトルの消費量 6~7本。カバンの中に常時詰め込んでいた。歩きながらカバン重かった。(笑)灼熱の太陽の中、汗ダクダクになりながら、熱中症、脱水症状に陥らないように、歩きながら水分補給をこまめに取ることを心掛けた。


まさに苦行、修行と言ってよかった。(笑)

こんな爆暑いときに、わざわざ外を歩くか、というところだが・・・


目的地に大体一発では辿り着かないので、必ず迷うので、迷いに迷って、人に聞きながら、さらに迷って・・・もう1日のトータル歩く量はスゴイ。


1日平均、膨大な距離を歩いた。この灼熱の太陽地獄の中で。


自分にとって、「横浜、YOKOHAMA=灼熱の真夏の太陽」。


これはずっと自分の脳裏の中の深いところに刻まれることであろう。


何十年ぶり、いや何世紀ぶり?とも言われた今年夏の記録的な猛暑続き。秋はやはり芸術の秋で気候的にも過ごしやすいし、精神、食欲、芸術、すべてにおいて快適なシーズンだけど、自分は夏が大好き。夏男なので、夏が終わってしまうとなんか寂しく感じてしまう。秋になると急に時が進むのが早く感じる。


自分にとって、この記録的な猛暑続きの灼熱の太陽の夏。

まさに最高の夏であった。(笑)



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目黒のさんま [グルメ]

記録的な酷暑続きの夏でしたが、ようやくなんとなく秋の気配になってきましたね。秋の訪れは、なにも芸術の秋、クラシックだけではないです。食欲の秋。そう、やっぱり秋は”さんま”なんですよね~。


さんまが食卓に上がってくると、急激に秋を感じます。


秋は、さまざまな食材が旬を迎える季節ですが、その中でも「秋といえばさんま(秋刀魚)」なのです。秋刀魚と書いて”さんま”。まさに秋の魚です。脂の乗ったさんまの塩焼きは、ぜひ食べておきたい、秋の到来を告げる旬のひと皿と言っていいと思います。


一時は、さんま不漁で値段も高かった年もありますが、今年もニュースで見ていると、漁師さんのインタビューでは”今年もダメだね~。すごい痩せてる。細くてガリガリに痩せたさんまだ。”ってな不漁のようです。


漁獲量自体はそんなにダメージはないみたいですが、肝心のさんま自体が痩せた質・レベルの低いさんまみたいです。


う~む、残念。


秋になると、自分はかならずある儀式をやります。

それは大戸屋で、生さんまの炭火焼き定食を食すことです。

大戸屋では、かならず秋になるとこのメニューを出します。


おらが街のとなりにある街の大戸屋(いつもとなりの街まで行きます。。笑笑)でこのメニューを食すことで、秋の到来を実感します。これが1年のうちでほんとうに楽しみ!


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自分は、やはりこちらのダブル、2匹のほうをかならず注文します。


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大戸屋で、この生さんまの炭火焼き定食が出されるのが、10月中旬からだそうです。楽しみです。

ほんとうに美味しいです。


さんま大好き!


ところで、さんまの食べ方って知ってますか?


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ふつうにそのままガッツいたら汚くなって、上手に身を解せないし、食べた気もしないです。さんまってもともと身が細い魚で食べ応えもあまりない魚ですから、上手に食べないと、ふつうにガッツいちゃうとぐちゃぐちゃに汚くなり、うまくいきません。食べた気もしません。



1人で食べるときは、まだいいですが、みんなといっしょに食べるときは、けっこう食べ方を知らないで汚く食べると恥ずかしいです。(笑)さんまの食べ方は知っていたほうがいいです。


自分は大昔にテレビでやっているのを見て初めて知りました。へ~そうやって食べるのか・・・


さんまの食べ方は、これです!

この順番通り食べれば完璧です。難しくありません。誰でもできます。


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この①の前に、テレビでは、箸でさんまの背中とお腹を挟むようにぐっぐっと挟み押すと身が解れ、骨からもほぐれやすいようです。


1.中骨に沿って箸を入れる


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2.上側の身から食べる


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3.下側の身を食べる


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4.中骨を取る


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5.裏側の身を食べる


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もうここまで来たら猫ですね。(笑)

知らなかった方は、ぜひお試しになってみてください。



さて、さんまといえば、自分は10年前からずっと行ってみたいと思っていた行事があります。それは、この10月、秋のさんまの季節になると東京都目黒区でやる”目黒のさんま祭り”です。


これはほんとうにむかしからずっと行きたいと思っていました。いつも気づいたらすでに終わっていたとか、じつは目黒区民しか、さんまを食べられないとか、あと最近ではコロナ禍で中止になったりとかでぜひ一度行ってみたいとずっと思っていたのですが、いまだ実現できていないのです。


なぜ目黒でさんま祭りなのか?


それは目黒とさんまは昔から、すごい縁があるというかつながりが深い関係柄なのです。


いわゆる”目黒のさんま”です。


江戸時代からずっと語り継がれてきた逸話で、このネタはそのまま落語になっています。古典落語で”目黒のさんま”という小話がちゃんと存在するのです。落語界の定番のお話です。


さんまと目黒ってどうして関係あるの?


さんまってお魚だから、港町とか水揚げされるそういう町ならわかるけど、陸内地である目黒がなぜ、さんまと関係あるのか?


そこに、この”目黒のさんま”の面白さがあるんですね~。


●目黒のさんま


時は江戸時代、将軍様が鷹狩りに目黒へやってきました。

その時立ち寄った茶屋でさんまを食べることになりました。

焼いただけの素朴な料理、でも脂ののった旬のさんまは、普段手の込んだ料理しか食べていない将軍様にとって大変おいしく感じられました。


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お城に帰った将軍様、目黒で食べたさんまの味が忘れられず、家来にさんまを出すよう命じます。

ところが、お城の料理方、庶民が食するさんまなど将軍様に出したことがありません。

でも気を利かし、さんまを油抜き・骨抜きにして蒸し、食べやすいようにしてお出ししました。

それを食べた将軍様、何だかちっともおいしく感じられません。


そこで一言、「さんまは目黒に限る」と言ったとか。


こういった話から、「めぐろのさんま」が有名になったようです。



●目黒のさんまの話の舞台


江戸時代、坂の上に茶屋があったことに由来する「茶屋坂」からは富士の眺めが良く、茶屋も大いに繁盛していたようです。目黒に鷹狩にやってきた将軍がよく利用してたといわれ、「爺々(じじ)が茶屋」と呼ばれていました。


上記の落語「目黒のさんま」にでてくる茶屋もこの「爺々(じじ)が茶屋」が舞台となっているようです。


茶屋坂がこのお話の舞台なんですね。


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そして、この茶屋坂のすぐ近くで、”目黒のさんま祭り”が開催されているのです。このお話が誕生した所縁の土地に合わせて、その近くでとのことなんでしょうね。


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「いかん、さんまは目黒に限る」と殿様が口にした――というオチで知られる古典落語「目黒のさんま」。でも、海がない目黒で、どうして”さんま”なのだろう。


目黒へ紅葉狩りに出かけた殿様が、農家で食べた庶民の味・さんまを気に入り、帰った後もさんまを所望したが、台所は「骨や脂がお体に障ったら大変」と大騒ぎ。脂を抜き、小骨を取ったパサパサのさんまを出し、一流の魚河岸で仕入れたと説明したところ、冒頭の発言「いかん、さんまは目黒に限る」が返ってきた――。これが「目黒のさんま」の物語である。


●『目黒のさんま』の発祥の地。


JR目黒駅から徒歩15分のマンションが立ち並ぶ住宅街。「茶屋坂」という坂があり、この近くにあった「 爺じじ ヶ茶屋」に、かつて殿様が立ち寄ったというのだ。



農民の彦四郎が農業の片手間に開いた茶屋だったが、目黒に 鷹たか狩りに訪れた徳川将軍が、たびたび休憩で訪れていた。将軍らが親しみを込め、彦四郎を「爺、爺」と呼んでいたという。


彦四郎の子孫に伝わる文書には、3代目家光や8代目吉宗、10代目家治らが数年に1度のペースで茶屋を訪れた、との記録が残る。当初は湯茶を出すだけだったが、家治の代から団子や田楽なども振る舞うようになったという。


ただ、焼いたさんまを提供したという記録は見つからない。殿様は、どうして食べたはずのないさんまを食べたことになったのか。


約40年間、「目黒のさんま」を”おはこ”として演じ続ける落語家の三遊亭吉窓さん(64)は、「目黒ではさんまが新鮮とは言いがたかったのも一因では」と考える。海のない目黒でさんまを食べるには、遠くの魚市場で買って徒歩や船で運んでくるしかない。「それなのに、目黒をさんまの名産地のように語る殿様の無知ぶりが良いオチになります」。


将軍が庶民に食べ物を振る舞われていたという史実と、庶民の魚の代表だが、目黒では新鮮なさんまは手に入りにくいという状況があわさって落語が誕生したというのが実情のようだ。吉窓さんは「今でもおエライさんが下々のことが分からず、的外れなことを言うのはありがち。多くの人に共感を得られやすい話です」と時代を超えて愛される理由を分析している。



ここなんでしょうね。この落語のオチというか、真髄。なにを言いたいかと言うと「おエライ方が下々のことがわからず、的外れなことをいう。」「そこに共感というか笑いがある」これが、さんまの産地とまったく関係のない目黒で、”やっぱりさんまは目黒に限る”。。。というところに引っ掛けているんですね。


この”目黒のさんま”。もう落語界ではスタンダードナンバーと言っていいほどメジャーなお話芸。いまは亡き、五代目三遊亭円楽さん(自分の世代では円楽といえばこの五代目でした。この五代目円楽さんが笑点の司会進行役をやっているのが一番記憶に残っています。)が、落語でお話されている”目黒のさんま”をYouTubeで拝見しました。


確かにこの通りのストーリーで、さすが落語のプロ中のプロ。最後の「やはり、さんまは目黒に限る」と言った瞬間で終わるんですが、その途端、お客さんはドッとすごい勢いで湧く。もうこれは決まり事なので、水戸黄門の印籠と同じですね。ここで絶対湧かないとダメな所なんです。


それで円楽さんが、その落語の途中で言っていたことに、やっぱりおエライ方が細かいと、それは下の者は苦労して苦労して大変です。やっぱり上の方はゆったりと構えていないといけない。そしてユーモアで明るくおおらかでないといけない。そういう意味で下々のことを知らずにそういうボケをかますのが、また愛嬌ってもんでいいんです、と仰っていた。この落語のオチというのはそこなんだな、と理解しました。


面白いですね。



あとで、この三遊亭円楽さんの”目黒のさんま”の落語のYouTubeを貼っておきますね。


そういう歴史、落語界の定番があって、目黒とさんまの関係が分かりました。

目黒とさんまはそういう関係があるからこそ、毎年、”目黒のさんま祭り”というお祭りが開催されるのです。ここまでは自分も十数年前に理解して知っていました。


そしていつかこのお祭り行ってみたい、とずっと思っていたのですが、これが意外や意外ハードル高いんですね。


”目黒のさんま祭り”というお祭りは、さんまの水揚げ地から水揚げされた大量のさんまを目黒に直輸送して、その大量のさんまを会場で七輪で直火焼きするのです。


まさにさんまの塩焼きです。


それも大勢で大量にやるのです。その風景はまさに圧巻ですよ。男らしい~~~てな感じです。自分はいっぺんに魅入られました。


こりゃいい!カッコいい!ぜひ行ってみたい!じかにこの雰囲気を味わってみたい。

そして現場で、その焼き上がったばかりのさんまを食べてみたい!


そういう願いをずっと抱いていたのでした。


ところが基本、目黒区民しか会場に入れないし、目黒区民しかさんまを食べれないみたいです。(笑)

もうガックリ。


昔からそうなのか。。コロナ禍の3年間は中止だったし、最近になってからなのかは、わかりません。


●目黒のさんま祭りとは?


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毎年9月に開催され、東京の秋の風物詩として知られる「目黒のさんま祭り」。目黒駅前商店街振興組合青年部(通称め組)が主催するものと、「目黒区民まつり」で開催されるものとがあります。


「め組」が主催する「目黒のさんま祭り」は1996年にスタート。ビルだらけとなってしまった目黒駅前を、昔ながらの暖かさを呼び戻すためにさんま祭りを始めました。2019年で24回を迎えています。(※2020年、2021年は開催中止。2022年は未定)例年、祭り当日は、会場の目黒駅前商店街に例年3万人近くの観光客が訪れ、早朝から長蛇の列ができるほどです。


目黒区民まつりで開催される「目黒のさんま祭」は、区民まつりのメインイベント。友好都市である宮城県気仙沼市から送られたさんまを、炭火で焼き、来場者にふるまっています。また、「ふるさと物産展」ではさんまの佃煮、にじます唐揚げ、焼き団子などなど、日本各地のご当地の味がいただけます。2022年は10月19日に開催予定。




●め組主催・目黒のさんま祭りの様子


無料で旬のサンマを堪能


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め組主催の「目黒のさんま祭り」の魅力、それは岩手県宮古市で採れた新鮮なサンマ、約7,000匹を無料で味わえる点です。サンマの美味しい食べ方といえば炭火焼き。会場は香ばしい香りで包まれ、より食欲をかきたてます。


また、目黒のさんま祭りで振舞われる炭火焼きサンマは、細かい部分までこだわっているのも特徴。


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まずサンマを焼く炭は、和歌山県みなべ町産の本格備長炭。完成した炭火焼きサンマには、日本一のすだちの産地・徳島県神山町から取り寄せた芳醇すだちと、栃木県那須塩原市産の辛味大根を使った大根おろしが添えられます。


すだちと大根おろし、どちらも炭火焼きサンマには欠かせない味付けで、よりサンマの旨味を引き出してくれます。



何時までに行けばいいか


無料で旬のサンマが味わえるということで、多くの人が訪れる目黒のさんま祭り。炭火焼きサンマを食べるには数時間待つ必要があり、サンマの数には限りがあるので、無料配布はサンマが無くなり次第終了となります。


では、何時までに行けば無料配布に間に合うのか。炭火焼きサンマの配布開始は10時からですが、10時に会場に到着しても食べられない可能性があります。


早朝から並べば間違いなく食べられますが、8時から9時頃に並び始めても大丈夫でしょう。ただ、年によって配布終了の時間は異なるので、ぜひ早めに並ぶことをオススメします。




●目黒区民まつりの「目黒のさんま祭」の様子


焼きさんまのほかイベント盛りだくさん


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目黒区民まつりの「目黒のさんま祭」でも、無料で炭火焼きサンマを味わうことができます(2022年は事前抽選当選者のみ)。宮城県気仙沼から送られたさんまを炭火で焼いて、熱々のうちに大分県臼杵市産のカボスをかけます。


また目黒区民まつりでは「目黒のさんま祭」以外にも、3つの会場でさまざまな飲食店ブースや物産展、ステージイベントを行なっています。残念ながら焼きさんまの抽選に外れてしまった人や、申し込みが間に合わなかった人も、いろいろな楽しみ方ができます。



おすすめの時間帯


目黒区民まつりのさんま祭りは、コロナ禍前は毎年3万人近くの観光客が訪れた人気のお祭りです。例年は当日配られる整理券を受け取った人に焼きさんまが振る舞われましたが、2022年は事前申し込みによる抽選式となっております。(※2022年は申し込み終了)


例年は早朝7時から8時頃に行くと整理券が受け取れましたが、2022年は当日の整理券配布はありませんのでご注意を。早い時間に行く必要がなくなったので、通常の開催時間内に足を運ぶのがいいでしょう。飲食店コーナーや、各種団体の物販がある「おまつり広場」(目黒区民センター)は9:30から入れます。




・・・とのことです。


目黒のさんま祭りは、2種類存在するのですね。め組主催・目黒のさんま祭りと、目黒区民まつりの「目黒のさんま祭」。


「目黒のさんま祭り 2023」で検索してみました。


こちらは目黒区民まつりの「目黒のさんま祭り」のほうですかね?


2022年に約4年ぶりとなる「目黒区民まつり・さんま祭」が開催されました!毎年秋に行われる落語「目黒のさんま」にちなんだイベントとして、目黒区民からこよなく愛されているお祭りです。


気仙沼から贈られた鮮度抜群のさんまを豪快に炭火焼き。大根おろしと大分県から贈呈されたカボスを添えて提供され、焼きたてアツアツをいただけます。


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【目黒区】2023年10月8日(日)開催予定の目黒区民まつり、「目黒のさんま祭」焼きさんま券事前申込受付中!

応募できるのは今年も“目黒区民のみ”です


しかし、このところさんまの不漁が続いており、2022年は目黒区民を対象として事前申込制での提供として実施されました。知らずに当日会場を訪れて焼きさんまが食べられなかったとがっかりされた方もいらっしゃったのではないでしょうか。


そして2023年も残念ながら食べられるのは目黒区民のみ。そして事前申込制で先着1,500名までです。



ガク。(号泣。。笑笑)


10月8日なので、じつはこれを狙っていたのですが、天から地に落とされたような落胆ぶりです。これはさんま券がもらえない。さんまが食べられない、というだけなんですかね?会場には入れるのでしょうか?あとでお見せしますが、食べられなくても、会場のあの雰囲気が味わえれば、自分はそれだけでも満足なんですが・・・。



こちらは、め組のほうの目黒のさんま祭りですかね?



東京都品川区のJR目黒駅東口一帯で毎年秋に開かれている「目黒のさんま祭り」(実行委など主催)で、炭火焼きのサンマを振る舞うメインイベントが2023年も中止となる。中止は4年連続。実行委は人員体制が整わないのを主な理由としている。サンマに添えるスダチを毎回1万個提供してきた神山町や徳島県は「首都圏でスダチをPRできる良い機会なので、中止は残念」とし、早期の再開を望んでいる。


ガク、ガク、ガク~~~。(号泣。。笑笑笑)


もう返す言葉もないです。(笑)



目黒のさんま祭りが、いかにすごいか!まさに男らしい世界か!これから写真で紹介しますね。自分はこの写真を見て、ぜひ行ってみたい。会場で、焼き上がったばかりのさんまを食べてみたいと思いました。


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・・・まさに男らしい!カッコいい世界ではありませんか!実際行ってみたかったな~。

10月8日の目黒区民祭りのほうでは、さんま券やさんまを食べることは無理だけど、会場に入れるなら、ぜひこの雰囲気を味わってみたいものです。でもさんま券がない人は会場に入れないとなると、その場でずがんですね。


ちなみに、この目黒のさんま祭りに合わせるように、目黒のさんま祭り「目黒のさんま寄席」というのが毎年開催されます。


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まさに、目黒とさんまを結び付けたあの落語「目黒のさんま」をじかにその寄席を聞きましょう!というイベントです。これも行ってみたかったな~。気づいたら終わっていました。


あの名落語「目黒のさんま」をじかに聞けるなんて、それは魅力的ではないですか。

自分は落語をじかに聞いたり見たりした経験がないです。


これを機会に、自分が知っている「目黒のさんま」で落語初体験してみたかったです。


目黒のさんま祭り。


とりあえず、また来年ですね。来年に期待することにしましょう。


いま自分にできることは、大戸屋で生さんまの炭火焼き定食、さんまダブル(2匹)を食することでしょうか・・・(笑)


三遊亭円楽さんの「目黒とさんま」の寄席のYouTubeを貼っておきます。さすが五代目円楽さんです!


情報引用元:


めぐろのさんまのルーツ(目黒区)



どうして「さんまは目黒に限る」のか…殿様の史実を落語で脚色



さんまのきれいな食べ方は実は難しくない!人前でも気持ちよく食べられるマナーを解説します!



【目黒のさんま祭り】で秋の味覚・サンマを味わおう!(2022年開催情報更新)















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赤坂四川飯店 [グルメ]

1993年~1999年にフジテレビ系列で放映された「料理の鉄人」という料理をテーマにしたバラエティ番組があった。


料理・グルメ漫画などのフィクション作品で描かれる「料理人同士の対決」を現実に行うというコンセプトで、「美食アカデミー」の主宰が美食への追求とそれを生み出すに相応しい料理人を求め、美食アカデミー所属の"料理人=鉄人"と挑戦者を対決させると言う番組である。


いわゆる料理の鉄人という絶対的権者がいて、そこに挑戦者の料理人が勝負を挑む。。。そういう設定である。



「グルメブームの波に乗った」といえる。


その後、2012年と2019年にも、フジテレビは同様のシリーズを放送したが、どちらもあまりウケなかった。1990年代に大成功できたのは、企画の斬新さに加え、グルメブームの波も大きかった。


グルメブームは、ヌーベル・キュイジーヌを持ち込んだフランス料理店が次々に誕生し、1970年代の終わり頃から食べ歩きをする人たちが増えて始まった。


1983年にグルメ漫画の『美味しんぼ』の連載が『ビッグコミックスピリッツ』で始まって若者たちの関心が高まり、バブル景気という追い風が到来。


レストランのマナーでまごつく人が珍しくなく、「食を語ることははしたない」とする大人がたくさんいた時代だったからこそ、一流料理人たちが次々に腕前を披露する番組は、新鮮な驚きを視聴者にもたらしたのだ。


覚えているよ~。料理の鉄人。毎週見てました~。

その後、主宰や鉄人はどんどん世代交代していくが、自分がリアルタイムで観ていた頃は、


「美食アカデミー」の主宰は、鹿賀丈史さん。


料理の鉄人には、中華の鉄人、フレンチの鉄人、和の鉄人がいて、


中華の鉄人:陳建一

フレンチの鉄人(二代目): 坂井宏行

和の鉄人(初代):道場六三郎


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これが絶対的メンバーであった。自分はこの頃が一番熱烈に見ていた。フレンチの鉄人と和の鉄人だけは、その後いろいろ世代交代で交代していくんだけど、中華の鉄人の陳健一さんだけは、ずっと鉄人を全うした方なんですよね。



鹿賀丈史さんの鉄人や挑戦者たちを紹介して行ったりするときの、あの狂言のようなセリフ言い回し、よく覚えています。


毎週、絶対的王者である鉄人に挑戦者が挑んでいく訳だけれど、鉄人はやはりチャンピオンだから強くないといけない。しかも中華、フレンチ、和のそれぞれの一流レストランのシェフである。プライドもあるだろう。挑戦者から毎週挑まれて、テレビでお茶の間にその勝敗結果を晒されるのは、なかなかシビアな心境だったと思う。プロとしてはやはり負けられない。。そういうものは絶対あったと思う。


番組は材料、今週はこれを使った1品ということでお題が与えられて、それに基づいて制限時間内に自分で考案した料理を作り上げる。もちろんどういう料理を作るかは、何週間も前に事前に本人たちが練習に練習を重ね、その結果を番組内で披露する、という感じである。



プロの意地にかけても負けられない鉄人たち。

それぞれの勝敗は、


中華の鉄人

陳建一

鉄人在任期間…1993年10月 - 2002年1月

対戦成績…94戦68勝23敗3分 連勝記録19 勝率72.3%


フレンチの鉄人

二代目: 坂井宏行

鉄人在任期間…1994年2月 - 2002年1月

対戦成績…87戦70勝16敗1分 連勝記録8(3回達成) 勝率80.4%


和の鉄人

初代:道場六三郎

鉄人在任期間…1993年10月 - 1996年1月

対戦成績…39戦33勝5敗1分 連勝記録11 通算勝率84.6%(現役時代の勝率は87.1%)


だったそうである。


日本料理、中国料理などの枠を超えて、各ジャンルの鉄人が挑戦者を受けて戦う、異種格闘技をイメージして作られた料理バラエティで、手に汗を握る実況中継をした対決は、男性を中心に当時の若者に大ウケしたのだ。(その中の男性の1人でした。。笑笑)


海外へも遠征して注目され、アメリカで「アイアンシェフ」というタイトルの同種の番組が作られるなど、世界各国へも影響を与えた。


この中で、自分がじっさいその人のお店に行ってみたいな~と思ったのは。フレンチの鉄人の 坂井宏行さんのフレンチレストランだった。当時自分は若かったので、お洒落で高級なフランス料理に凝っていた時期でもあって、鉄人のお店で鉄人の料理を食べてみたいな~と憧れていた時期があった。でも結局、いまだに実現できていない。


結局、自分の人生に大きく関係してくるのは、中華の鉄人 陳建一さんの中華料理、赤坂四川飯店だった。


中華が大好き、やっぱり日本人の味覚に合う、喰った~という満足感があるのは、やはり中華料理である。そういう持論があって、自分は中華料理がほんとうに大好きである。自分に合っていると思う。


ヨーロッパで暮らしていたときも結局、ロンドンで毎日の朝昼晩のご飯として食べていたのは中華だった。毎日食べていた。(当時、あまり自炊していなくて外食ばかりであった。イギリス、ロンドンの食文化レベルであると、やはり中華になってしまうんだよね~。)


中華料理はほんとうに偉大で、ヨーロッパでは、どこの国に行ってもかならず中華料理のお店はかならずあった。だからヨーロッパのいろいろな国を旅行していると、食事難民になることはまずなかった。かならず中華があって助けてくれた。もちろんドイツ料理、フランス料理、オランダ料理、ベルギー料理、オーストリア料理も十二分に楽しんだけど、ここぞ!というときに腹いっぱい食べたいときは、やはり中華なんだよね~。日本人の味覚にもともと合っているのです、中華料理というのは。


そんな大好きな中華料理なのだが、それまではふつうに町中華とか、横浜の中華街、もしくはそれなりの中華料理屋さん、それこそ中華料理のレストランは無数にあるので、場所を選ばず、いろいろなところで楽しんでいたのだが、ある日、ふと中華料理の中でも四川料理に興味を持つようになった。


なかでも自分の中で、興味が湧いてしょうがなかったのが、四川麻婆豆腐である。


自分は中華を食べるときは、かならず麻婆豆腐と海老チリソースのこの2品はかならずオーダーするという自分の決まりごとがある。せっかく中華を食べるなら、この2品は絶対食べたいのだ。美味しんだもん。


とくに麻婆豆腐は大好きで、目がなかった。麻婆豆腐は美味しんだけど、自分のアンテナにビビッと反応してきたのが四川麻婆豆腐。とても辛い四川料理、そしてこれまたとても辛い四川麻婆豆腐。


とくにやられたのは、四川麻婆豆腐のあの写真である。自分がふだん食べていた麻婆豆腐はどちらかというとオレンジ色の日本人の舌に合わせたあまり辛くない日本風にアレンジした麻婆豆腐である。


でも四川麻婆豆腐はまさに中国四川省のオリジナル・元祖の麻婆豆腐。

写真を見ていても、ものすごく濃いブラック系統のどす黒いオレンジ色で、これはうまそうだ!さらには辛そうだ!一度食べてみたい~、と思ったのだ。


そういう食欲をそそるような写真であった。四川麻婆豆腐の写真というのは。


そして当時は、四川料理、そしてこの四川麻婆豆腐を日本ですごく宣伝していたのだ。そのブームに乗ったところがある。


その四川料理、四川麻婆豆腐を宣伝していた人が、赤坂四川飯店の陳建一さんだったのだ。陳建一さんこそが、四川料理、四川麻婆豆腐の代表的な存在、第一人者であった。


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当時日本のテレビやマスコミで、大活躍していて、四川料理の日本への啓蒙に力を入れられておられた。自分は、料理の鉄人で中華の鉄人で、陳建一さんのことをよく知っていたので、とても親しみが湧いて、また外見も優しそうなので、すっかりファンになってしまい、よし!これは一度、赤坂四川飯店の陳建一さんのお店そのものに行ってみたい!そして本場の四川麻婆豆腐を食べてみたいと思ったのである。


料理の鉄人での中華の鉄人で、すっかり全国区になった陳建一さん。そのテレビ人気にも乗じて、陳さんのお店の赤坂四川飯店もすごい大繁盛ぶりだったそうである。テレビ効果ですね。そういう効果も相まって、尚更、自分の本業である四川料理の日本への啓蒙をそのブーム、波に乗せたところがあった。そのブームに乗っていっきに四川料理を宣伝しよう、というところもあったと思う。


自分が四川麻婆豆腐の存在を知って、胸ときめいたのも、その陳建一さんブームに乗ったところがあったことは確かである。




陳建一さんは日本に四川料理を広めた陳建民氏の長男。大学卒業後、料理の世界に入り、1990年に父の後を継いで赤坂四川飯店社長に就任した。93年にスタートした「料理の鉄人」では、〝中華の鉄人〟として出演。和の鉄人・道場六三郎さん、フレンチの鉄人・坂井宏行さんらとともに活躍した。


自分が陳建一さんを認識したのもこの料理の鉄人での中華の鉄人としてからだった。


陳建一さんは「料理の鉄人」で挑戦者に負けた最初の鉄人。そして生涯の負け数も他の鉄人と比べ一番負け数が多かった。女性料理人に連敗したこともあり、「女性に弱い鉄人」と呼ばれたこともあった。(笑)


陳建一さんは、インタビューでこんなことを語っている。



時を同じくして「料理の鉄人」もスタートしました。出演のお話をいただいた時、最初は断りました。でも段々と面白そうだなと思うように。だって原価計算しないで料理を作っていいだなんて夢みたいな話です。


約6年間で94戦68勝。19連勝という記録は作りましたが、鉄人の中では一番弱かったんです。忘れられないのはある若い女性の挑戦者に負けた時。悔しいやら情けないやらで、まっすぐ家に帰る気になれなくてねぇ。多摩川の河川敷で石ころを投げながらボーッとしていました。


人気番組の影響もあって店は大繁盛したけど、僕は怖くてしょうがなかった。スタッフに「これは俺達の実力じゃない、勘違いするなよ」と再三伝えていました。ですが鍋を振る回数が増えれば、その分、センスや技術は磨かれます。そういう意味では、自分にとっても、後進育成においてもいい経験となりました。『料理の鉄人』はいろんな意味で僕を成長させてくれた番組です。感謝しています。



今は息子の建太郎に3代目オーナーのバトンを渡して一安心しています。僕が父から教えられたのは「絶対に手を抜くな。愛のない料理を提供するなんてお客さんに失礼だ」ということ。僕が息子に伝えたのは「料理は愛情」ということだけです。


技術は勝手に覚えますからね。


これからも愛のある料理人を育てていきたい。それが自分の使命だと思っています。




中華が大好きだった自分。

そしてあの当時、なにより四川麻婆豆腐というのを食べたくて食べたくて仕方がなかったこと。四川麻婆豆腐こそが麻婆豆腐の元祖・オリジナル起源なのです、という宣伝。


当時、四川料理を日本に啓蒙する第一人者でもあった陳建一さん。その四川料理の中でも、陳建一さんがその最筆頭として宣伝のトップにあげていたのが、四川麻婆豆腐である。そんなこともあって、自分が、陳建一さんのお店である赤坂四川飯店を訪れるのはそんなに時間のかからないことであった。


初めて、赤坂四川飯店に行ったことを覚えている。

あとで、紹介するが、大変な高級店であった。ふつうの庶民の中華料理店とはひと味もふた味も違うレベルの高いお店であった。かと言って、お店の雰囲気や店員さんの態度は、ぜんぜん高級ぽくなくて極めて庶民的。ふつうの町中華と変わらないくらい庶民的でな~んだ、と拍子抜けするほど。


でも、自分がこの赤坂四川飯店が高級店だと思うのは、値段がべらぼうに高いことだ。もう1品、2千円~3千円なんて安い方だ。1品8千円とか1万円とかもざらにある。お値段が庶民感覚から離れすぎている!それくらいお高いお店だった。四川料理って原価率の問題もあって大変なのかもしれませんね。これくらいの値段設定でないと利益率があがらないのかもしれません。


自分は、こりゃ貧乏な自分には無理なお店だな~。と思った。1回行ったら、1回四川麻婆豆腐を体験出来たら、もう来ないだろうな、と思ってしまった。


初めて食する四川麻婆豆腐。


これは確かに辛かった。もう町中華、横浜中華街の麻婆豆腐とは全然別物。あまりに辛すぎて、そして辛いながらも味も独特のクセのある唐辛子の辛さや山椒のしびれるような刺激、そしてさまざまな香辛料や調味料などによる豊かな香りがして、正直なところ、自分はあまり美味しいとは思わなかった。なんか全部一皿食べる、完食するのがかなり苦しかった。


自分にはあの安っぽい日本人向けの味覚に合わせた甘いオレンジ色の麻婆豆腐のほうがいいな、と思った。自分はやはりおこちゃま向けなのだと思った。


これが四川麻婆豆腐か~という感じで、ほろ苦いデビューとなった。


四川麻婆豆腐とふつうの日本人向けにアレンジされた甘い麻婆豆腐ではもう全然世界が違うと思う。

レベルも全然違う。


四川麻婆豆腐は、やはり唐辛子、山椒、そして香辛料や調味料をすごくたくさん使っているな、という感じで、独特の辛さでクセのある味だった。最初は見事に完敗した自分であるが、不思議な現象に陥ることになる。


それは四川麻婆豆腐は、しばらくするとまた食べたくなる。。。そういう中毒性があるのだ。あの独特の香辛料の効いたクセのある辛さ。またどうしても食べたくなる。そういう再現性、中毒性がすごい。


あ~、食べたい!という感じになるのである。


赤坂四川飯店は、すごく高いお店なのだけれど、この四川麻婆豆腐を食べたいがために、ついつい通ってしまう。それを繰り返していると思う。気づけば通算5回は軽く通ってる。高いのに。。。


最初の敗北宣言から信じられない自分である。

お高くても、どうしても通ってしまう。

そういう魔力がある。赤坂四川飯店は。


何回目に通ったときかな~。あれはFacebookをやり始めた2013年頃だと思うのだけど、赤坂四川飯店に行ったときのこと。店員さんに、陳建一さんの大ファンでこのお店によく来ているんです。と言ったら、いま厨房に居るよ。あとで呼んであげるよ。いっしょに写真でも撮りな。とあっけなく仰る。


そしてこの赤坂四川飯店で、念願の陳建一さんとツーショットの写真を撮ってもらったのである。そのときの感動のつぶやきはFacebookに投稿した。


はじめて食べた四川麻婆豆腐美味しくて、その後クセになってよくここに通ってます。ありがとうございます。


そう!それはうれしいね。四川料理はほんとうにいろんな料理があるから、どんどん遠慮なくたくさん食べてって!


その後もなにげない会話をさせていただき、いい想い出です。


その陳建一さん、なんと!今年の3月に亡くなられたんですよね。死因は間質性肺炎でした。ショックだった。一時代が終わったな~という感じである。


四川麻婆豆腐をはじめとする四川料理の第一人者で、テレビの料理番組でも人気を集めた料理人、陳建一さんが亡くなられた。


四川料理をいかに日本に普及させていくか、という点では、陳建一さんのお父さんである陳建民さんが創業者。赤坂四川飯店を創業して、四川料理の日本への普及に尽力した。そういう意味では陳建民さんがパイオニアである。


でも料理の鉄人で、一躍日本でブームに乗って、四川料理、四川麻婆豆腐を日本に普及させたのは、やはり陳建一さんによるところが大きかったと思う。やはりテレビ、メディアの力にうまく便乗して、一気にメジャー級に知名度を上げたのが陳建一さんの功績だったのではないか。


自分の世代では、やはり四川料理、四川麻婆豆腐というと、陳建一さんという方程式になってしまう。


陳建一さんが亡くなられて、いまは長男の陳建太郎さんがあとを継いでいる。


赤坂四川飯店。


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私達がご提供している四川料理は、北京料理、広東料理、上海料理とならび「中国四大料理」と称されるもののひとつです。肥沃な土地で育てられた豊富な食材を使い、唐辛子の辛さや山椒のしびれるような刺激、さらには酸味や香味をもたらす様々な調味料や香辛料を使うことで、深みのある味わいに仕上げてあるのが特徴です。


四川飯店グループの料理の数々は、創業者である陳建民の魂の産物です。先代の時代は、本場の料理を再現するための食材や調味料を入手することは、非常に困難でした。そこでさまざまな創意工夫をこらし、いくつもの名物料理が生まれました。私達はその精神を引き継ぎ、「もっと美味しい料理」を目指して日々知恵を絞っています。




陳建民は10歳の時に宜賓の「海清園」というソバ専門店に勤めて以来、料理の世界で生きていくことになる。料理を学び、作りながら雲南省、重慶、武漢、南京、上海、そして遂に大陸を離れて台湾、香港を経て、1952年に来日。各地をさすらってきた建民だが、その後、洋子ママと出会って結婚し、日本の地に根を張って四川料理を広めていく。


建民にとって妻の洋子ママの存在はとても大きい。本人はママを「神様がくれた宝もの」と呼ぶ。通訳、マネージャーとしても常に寄り添い、二人三脚で現在の四川飯店の礎を築いた。


建民のさすらい行程


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●四川飯店の誕生


1958年秋、建民は現在の西新橋である東京・田村町に最初の四川飯店を創業(現在は閉店)。続いて、1960年に六本木の2号店、1970年に赤坂四川飯店をオープンし、さらに全国各地に店舗を展開していった。


「料理は愛情。愛情のない料理はダメよ」をモットーに、多くの後継者を育て、日本各地に四川料理を広めていった。また、1966年には恵比寿に料理学校を創立。建民が亡くなり閉校するまでの24年間で延べ15,000人以上の卒業生を輩出した。




昭和62年現代の名工。表彰直後の建民(右端)


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こうした建民の料理人生から生まれ、今も四川飯店の味を守り伝えているのが、「建民川菜三十式」と呼ばれる三十の調理技法である。



建民川菜三十式


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その後を継ぎ、陳建一が二代目オーナーシェフとして、フジテレビ「料理の鉄人」やNHK 「きょうの料理」などのテレビ出演を通して、四川料理を更に広めることになった。現在、全国に四川飯店・スーツァンレストラン陳・陳建一麻婆豆腐店など四川料理の魅力を伝える店舗を多数展開している。




建民と建一


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2015年、陳建一の長男である陳建太郎が三代目として、そのバトンを受け取った。歴史に敬意を払って、伝統的な料理や技術をしっかりと継承していくことはもちろん大切なことである。しかし、その上で今以上にお客様に四川料理を楽しんでいただけるようにと、新たな要素も取り入れながら、これからの時代の四川飯店をスタッフと力を合わせて築いている最中である。





今年の3月に、自分に四川麻婆豆腐の魅力を教えてくれた陳建一さんが亡くなられたことをきっかけに、ぜひ赤坂四川飯店に伺おうとかねてより考えていた。それを先日実行してきた。これで通算6回目の赤坂四川飯店詣でである。



赤坂四川飯店は、永田町にある。国会議事堂とか参議院会館とかあるまさにあの永田町である。やはり政財界の大物など通う人もそれなりにグレードの高い方々なのであろうか・・・だからお値段も高いのか。。


四川飯店としては、本店の赤坂をはじめ、日本橋、池袋、松山、博多にある。


また、新しさを取り入れたモダンで革新的な四川料理レストラン ”スーツァンレストラン陳”としては、渋谷、名古屋。さらには、名物料理の麻婆豆腐と担々麺を中心としたカジュアルレストランとしては、”麻婆豆腐・担々麺専門”としては、高松、博多専門店、四川飯店麻婆豆腐代々木、木場、立川。


などいろいろ全国店舗展開しているようだ。


そういえば自分の記憶の中には、あの赤坂のサントリーホールの正面向かいにある森アークビルの中にも、昔、陳麻婆豆腐を食べさせてくれるお店がありました。現に自分は何回も通いましたです。美味しかった。いまは閉店になってしまいましたが。



赤坂四川飯店は、東京メトロ半蔵門線で永田町駅下車。4番出口が一番近い。交差点角にセブンイレブンがあるところが目印だ。ここを曲がってまっすぐ行くと左折したところにある。


ただ、赤坂四川飯店っていかにも中華料理のお店という感じではなく、全国旅館会館という建物の中の5F/6Fにあるんですよね。5Fは宴会会場なので、実質6Fになる。


だからふつうの中華料理のお店、レストランと思うとまず見当たらない。

それ風の中華風の雰囲気も全くない。


全国旅館会館。


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たしかに近くにこういう看板があるので、あ~ここだ、ということはわかる。

でもじゃあどっから入るのかな?というのはかなり悩むと思う。


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上の全国旅館会館の中にまず入って(そこに気づくまですごい時間がかかると思う。。笑笑。看板はあるのに、入り口はどこ?ってかなり悩むと思う。)その中でエレベーターで6Fまで上がるのだ。


赤坂四川飯店


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劇混みなので、予約はしていったほうがいいだろう。自分は予約なしだったので、正味30分くらいかな、待ちました。


待つスペースもきちんとこんな感じですごい高級感あります。さすが赤坂の高級店です。


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創業者:陳建民(本名:東建民)と二代目:陳建一さん(本名:東建一さん)の賞状が飾られていました。


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まさに超高級な中華料理店。日本で四川料理を啓蒙してきたパイオニアのお店である赤坂四川飯店は、こんな感じの店内です。


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自分はこのおひとり様席で・・・


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ほんとうに超高級店なのだけど、お客さんの客層とか、店員さんのスタッフとかほんとうにざっくばらんな庶民気質な語り口。さっぱりしていて、まるで町中華にいるみたい。ほんとうに拍子抜けします。要は1品1品の値段が信じられないくらいバカ高いだけです。(笑)


自分は中華を食べるときは、かならず麻婆豆腐と海老チリソースは頼みます。


ではこの日食べたメニューを1品ごとに紹介していきますね。



四川名物”よだれ鶏” 2,700円 高い!


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これははじめての経験でしたが、せっかく四川飯店に来たならば、ふつうの町中華では食べられないようなメニューが食べたいな、と思いオーダーしたものでした。前菜というにはボリュームがあるし、メインというのもどうか、という感じで。鶏肉です。全体にかかっているのが特製タレなのでしょうね。これは甘酸っぱい、基本ちょっと甘めなじつに珍味というか手の込んだタレだな、と思いました。このタレにじっくり漬け込んでいる鶏肉の切り身を食べるという感じです。鶏肉は蒸しているボイルされた鶏肉です。これはすごく美味しかったです~。かなり珍味と言うか珍しい経験したことのないようなメニューでした。




海老のチリソース  3,000円 高い!!


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中華料理屋さんに入ったらかならず頼むエビチリ。昔から疑問に思っていたことがあって、エビチリって他のメニューと比較してダントツにお値段がすごい高いですよね。これはなぜなのだろう?と昔から疑問でした。


もう数多のエビチリを食べてきた自分にとって赤坂四川飯店の海老のチリソースは、もうグレードが全然違う超高級品でした。それはエビのプッリプリのところもそうですが、なによりもそのチリソースのかなり手の込んだ非常に濃厚なソースです。このチリソースがもうそこら辺の中華屋さんとはもう別次元で違います。超高級です。庶民的なものはもっとソースがつるつるしていてオレンジ色で薄っぺらい感じがするのですが、ここのはソースがつぶつぶ状でとても濃い橙色で、とろみがすごく、かなりいろいろな味を組み合わせた複雑で濃厚なソースです。非常に高級な味がします。


うわぁぁ~これはクオリティがすごい高い、と思いましたから。こんな美味しいエビチリはちょっと食べたことないです。この日食べたメニューの中では、この海老のチリソースがいちばん最高だと思いました。



五目チャーハン 1,500円 高い!!!


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この日は1か月に1回のブルーな儀式、血糖値検査があった日でした。HbA1cが過去最高の良値を叩き出したこともあって、この日は大いに羽目を外してもいいです。糖質制限でふだんはあまりとらない糖質、ご飯類ですが、この日はガッツリ食べたかったので逝きました。まさにチャーハンは中華の王道。パラパラで美味しかったです。




四川飯店伝統の麻婆豆腐  2,000円  高い!!!!


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まさに四川飯店に来たら、これは絶対頼まないといけないでしょう!

まさにキング・オブ・四川飯店ともいうべきメニューです。


自分もこれを食べたかったから赤坂四川飯店まで通おうと思ったのです。


辛いよね~。ほんとうに辛い。そして独特の味。あのオレンジ色の甘い日本人向けのおこちゃま麻婆豆腐とは月とスッポンの違いです。


これぞ四川麻婆豆腐。


唐辛子、山椒、そして香辛料や調味料をふんだんに使っているまさにこれぞ四川料理という代表。

辛い~。そしてクセになるウマさ。


でも四川麻婆豆腐を食べるといつもそうなのですが、全部一気に喰うのはかなりツライ。ちょっと一皿は厳しいな、といつもそう思う。いつも半分くらい食べるとギブしたくなってしまうんですよね。(笑)それくらい辛いし、クセがある。



でも、数日、数か月するとまた食べたくなるんですよね。

美味しかったです。

最高でした。


烏龍茶も頼んで、この4品で、軽く福沢諭吉さんが飛んでいきました~~~。(笑)


やっぱり貧乏人にはなかなかハードルが高いお店ではあります。


でも、今年、陳建一さんが亡くなられて、ぜひ今年中に1回はかならず来たいと思っていたので、とても満足です。


また来たいと思います。









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伝説は受け継がれていく。阪田知樹 ラフマニノフ ピアノ協奏曲全曲演奏会 [国内クラシックコンサート・レビュー]

”伝説は受け継がれていく。”
                                                  
いまから12年前。2011年8月6日。サントリーホール。高関健指揮東京交響楽団で、清水和音さんがラフマニノフ ピアノ協奏曲全曲演奏会をおこなった。
                                                 
当時は大変チャレンジングなマラソンコンサートということで、日本のクラシック界の話題をさらったし、この偉業は自分の心の中に深く刻まれている。
                                                 
いまでもはっきり覚えている。だから、自分にとって、ラフマニノフ ピアノ協奏曲全曲演奏会といえば、もう清水和音さんの代名詞なのである。
                                                 
あれから12年後、
                                                 
阪田知樹という若者が、この偉業に再挑戦しようとしている。
                                                 
今年はラフマニノフ生誕150周年、没後80周年メモリアルイヤーということで、ラフマニノフの企画が各地でおこなわれていて、それに合わせるように、阪田知樹氏が、ラフマニノフ ピアノ協奏曲全曲演奏会に挑戦しようというものである。
                                                 
1番→2番→4番→パガニーニの主題による狂詩曲→3番
                                                  
12年前の清水和音さんのときとまったく同じ演奏順番である。
                                                 
13:30開演で16:45終演。途中2回の休憩時間を挟むものの、3時間15分。
ピアノ協奏曲を1日で5曲演奏すると言っても、3時間15分で済むなら、意外やこんなんで終わってしまうの?とは思う。ラフマニノフのコンチェルトは、1曲が意外や1時間もかからない。30~40分ぐらいで終わってしまうものが大半だからであろう。
                                                 
とはいえ、演奏するピアニスト側からすると、難曲と言われているラフマニノフのピアノ協奏曲を1回のコンサートで全曲演奏するとなると、これはもう大変なことで精神力、体力の極限まで達することだと思う。
                                                  
本当にご苦労様である。
                                                
                                                
                                                 
2023年9月17日。同じサントリーホール。ここに日本のクラシック音楽界のこれからの次世代を担っていく若い世代の阪田知樹が、その偉業を達成した。大井剛史指揮・東京フィルハーモニー。
                                                  
                                                 
”伝説は受け継がれていく。”
                                                 
神話、伝説、偉業は偉大なる先人から若い世代へと受け継がれ、後世へと語り継がれていくのである。
                                                  
約束通り、この偉業達成にともない、自分は12年前にmixiのほうに上げた”清水和音 ラフマニノフ ピアノ協奏曲全曲演奏会”の日記をブログのほうにもアップ、デビューさせたいと思う。この日記は、mixiのみの公開になっていて、ブログとして公開されていなかったのだ。
                                                  
阪田知樹氏の偉業を祝して、清水和音さんの日記を、阪田氏のコンサートレビューといっしょに併記してあげようと思うのである。
                                                  
これが、自分の阪田知樹氏の偉業に対する敬意と献呈である。
                                                  
清水和音さんの日記は、なにせいまから12年前なので、いま読み返してみると、自分の文章力やコンサートレビュー力の稚拙さが目立ち、お恥ずかしい限りである。改訂しようとも思ったが、やはりニュアンスが変わってしまうし、あの時のコンサートの印象はもう忘れかけていて、再レビューするほどの記憶がない。やはり一字一句変えずに原文のままアップする。
                                                  
                                                  
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阪田知樹
                                                  
愛知県名古屋市生まれ、横浜市育ち。5歳からピアノを始め、西川秀人、渡辺健二、パウル・バドゥラ=スコダ、アリエ・ヴァルディの各氏に師事。6歳より作曲を始め、音楽理論・作曲を高橋千佳子、永冨正之、松本日之春の各氏に師事。東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校卒業後、東京藝術大学音楽学部器楽科を中退し、ハノーファー音楽演劇メディア大学[1]に特別首席入学。学士課程、修士課程ともに最優秀の成績にて修了。2021年現在第3課程(ゾリステン・クラッセ)に在籍。
                                                  
2015年CDデビュー、2020年3月、世界初録音を含む意欲的な編曲作品アルバムをリリース。内外でのテレビ・ラジオ等メディア出演も多い。
                                                  
2016年フランツ・リスト国際ピアノコンクール(ハンガリー・ブダペスト)第1位、6つの特別賞。コンクール史上、アジア人男性ピアニスト初優勝の快挙。「天使が弾いているようだ!」-Leslie Howard-と審査員満場一致、圧倒的優勝を飾る。
                                                  
2021年世界三大音楽コンクールの一つ、エリザベート王妃国際音楽コンクールピアノ部門にて「多彩な音色をもつ、知性派ヴィルトゥーゾ」-Standaard-と称えられ第4位。
                                                  
第14回ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールにて弱冠19歳で最年少入賞。「清澄なタッチ、優美な語り口の完全無欠な演奏」-Cincinnati Enquirer-と注目を集める。
                                                  
イヴァン・モラヴェッツ氏より高く評価されイヴァン・モラヴェッツ賞、ピティナ・ピアノコンペティション特級グランプリ、聴衆賞等5つの特別賞、クリーヴランド国際ピアノコンクールにてモーツァルト演奏における特別賞、キッシンゲン国際ピアノオリンピックではベートーヴェンの演奏を評価され、日本人初となる第1位及び聴衆賞。
                                                  
現在、国内はもとより、世界各地20カ国以上で演奏を重ね、国際音楽祭への出演も多数。
                                                  
                                                 
                                                 
                                                  
なかなか自分は若い世代の演奏家のコンサートに行くことは稀なのであるが、阪田知樹氏はぜひ行ってみたいとかねてから思っていた。なかなか知性派な人で、クラシックの音源などにも詳しくそこが自分のようなオーディオマニアと似ている側面を感じて興味を惹かれるきっかけとなった。
                                                  
また見た目のルックスもかなりのイケメンで、天が二物を与えたかのようなバランスのとれたピアニストのように感じていて、そこがさらに拍車をかけた。
                                                  
そこに、このラフマニノフ ピアノ協奏曲全曲演奏会の企画を知り、これはいい機会、ぜひ聴きに行こうと思った次第である。
                                                  
昨日、このマラソンコンサートをコンプリートして拝聴した結果、自分が感じた阪田知樹氏の印象。
                                                 
これは凄いピアニスト!
                                                  
ということだった。
                                                      
とにかく想像以上に凄かった。
                                                
                                                
スマートで線が細い。いわゆる体育会系の爆演タイプではないけど、パワーはかなりある。指が高速で良く回って、打鍵も均等で精緻。走るタイプ。乗ってくると一気呵成に走るタイプ。やっぱり若い。とにかくエネルギーがすごい。瞬発力というかバネがあって、跳ね返ってくるようにリズミカルに弾いて、切れ味も鋭い。ここに若さを感じるなー。自分がいままであまり経験したことのないピアニストだった。(ふだんあまり若いピアニストを聴いてないので。。笑笑)
                                                   
反面、もっと柔らかいタッチがほしい。柔らかいのと強打腱とで緩急がつくといいな~。基本走るタイプなので、弱音、ピアニッシモのときに、もっと柔らかさがでて緩急がつくともっといいな~。いま細いけど、もっと体が大きくなってガタイがよくなってくると自然とそういう柔らかさも出てくるのかな~。
                                                  
・・・そう思って聴いていたところ・・・
                                                   
パガニーニ・ラプソディーの第18変奏や、ラフマニノフ3番の第2楽章などの緩徐楽章とか弱音再生部でも、ほんと信じられないくらい柔らかいタッチで、なんだこっちも得意なのか、と。(笑)
                                                  
もうパーフェクトじゃないか。すごい。弱点があまり見つからない。
スマートな細身だけど、パワフルでバネがあって、指が良く回る。そんな印象。
                                                 
いまの若い男性ピアニストは、みんなこんなにパワフルで上手いのか、そんな印象を抱いた。他の若い男性ピアニストもどうなのか、聴いてみたくなった。
                                                  
とにかく凄かった!
                                                  
ざっとラフに振り返って統括してみるとこんな感じのピアニストだった。
たった1日のコンサートでの印象だけど、ラフマニノフの難曲を5曲も連続で聴いたわけだから、たぶん本質としてほぼ間違いないであろう。
                                                 
パーフェクトなピアニストだった。
                                                  
まだ30歳だよ!(驚)
                                                 
たった30歳ですでにここまで完成されているのもどうか、と思うくらい。(笑)
若いうちは、まだもっとのびしろがあったほうが、将来もっと化ける可能性を秘めていて、将来大器となるケースもそのほうが育ちやすいということもある。
                                                  
でも阪田氏はおそらくいま現在でこれだけの完成度を誇っていても、さらに高みに向けて精進して上を目指していくに違いない。あくまでピアノが素人の自分の感想なので、もっとプロ目線で見れば、改善、精進していくポイントは何か所もあるのだろう。
                                                 
またラフマニノフだけでなく、いろいろな作曲家のレパートリーを増やしていくこと。これも大きなテーマでもある。ピアニストとしては、そのレパートリーから生涯自分はどういうタイプのピアニストとして、クラシック界に認知されていきたいのか。
                                                  
ショパン系なのか、現代音楽系なのか、ラヴェルやドビュッシーのようなフランス系なのか、あるいはモーツァルト、ベートーヴェンのようなきっちりと音階的な型のある古典派を中心にやっていきたいのか。あるいはラフマニノフのようなロマン派の得意なピアニストとして売っていきたいのか。。。はたまたあるいは全部が得意なオールマイティな巨人になりたいのか。。
                                                  
もういろんな選択肢が待っている。ピアニストとしていちばん重要なところは、やはりそこなのかな?これは膨大な時間がかかりますね。やっぱりピアニスト人生かけて一生涯研磨する内容だと思う。
                                                  
今年に入って、ものすごい公演量をこなしている。ピアニストとしての経験、場数、レパートリーをどんどん増やしている過渡期なのであろう。
                                                  
頑張ってほしい。
                                                  
それでは、今回のラフマニノフ ピアノ協奏曲全曲演奏会。1曲ずつ簡単に感想を述べて振り返ってみたい。
                                             
                                          
                                                                                                           
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●ラフマニノフ ピアノ協奏曲第1番
                                                   
2番、3番はすごく有名だけど、自分はじつは1番もかなり大好きである。ラフマニノフらしいロマン的な旋律が随所に現れながらも、かなりアバンギャルドなコード進行というかカッコいいのである。この独特のカッコよさは2番や3番にはありませんね。1番だけが持っている魅力だと思っています。1番のときは、かなり連打のときの打鍵の響きが混濁する感じで、自分は最初座席による音響のせいかな、とも思ったが、つぎの2番以降は、そういう混濁現象は起こらなかったので、やはり1番特有の和音進行とか、そういう譜面上の構造の問題からそう聴こえてしまうのだろう。
                                                   
この1番の演奏で、初めて阪田知樹氏の演奏を聴いたわけだが、第一印象は走るタイプのピアニストだな、と感じたことだった。どんどん走るタイプ。若さあるゆえに、1度乗ったら怖いというか、どんどん走っていくタイプ。打鍵も強打腱でパワーがかなりある。スマートで線が細いんだけど、パワーはある。そんな印象を受けた。
                                                  
                                                 
                                                  
●ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番
                                                  
この曲は、あまりに有名なスタンダードな曲で、もう数えきれないくらいたくさんのピアニストの演奏を聴いてきたし(もちろん音源でも)正直この曲は誰が弾いてもあまり差を感じないというか、そのピアニストの力量を量るには難しい曲かなと感じる。
                                                  
ピアニストの力量を確認しながら聴くというよりは、どうしても曲自体を聴いてしまうのである。(笑)相変わらずいい曲だな~という感じで。この曲、ほんとうに名曲だと思います。阪田氏の2番は、非常にオーソドックスな解釈、アプローチで正統派の2番を聴かせてくれました。
                                                  
                                                  
                                                  
●ラフマニノフ ピアノ協奏曲第4番
                                                   
ラフマニノフのピアノ協奏曲の中でもっとも演奏される機会が少なく、ほとんどレアな曲。こういう機会じゃないとまず経験できないであろう。今回全曲のマラソンコンサートだから聴けたが、単品で披露されることはあるのだろうか・・・
                                                  
ヒット曲としての音楽の造形、型というか、そういう型がきちっと決まっていないような印象を抱く散文的な構造で、ラフマニノフらしいなあ~素敵なロマンティックな旋律だな~そういう旋律が現れたと思った途端、それが長続きしないのである。つぎにすぐにまた違う音型へと展開していく。つねに散文的で聴者がのめり込みにくい難しい音楽のように感じる。
                                                   
ヒット曲がなぜヒット曲なのか、というと、そこにヒットするだけに理由があって、コード進行やリズムの韻、全体としての音型にきちんと型があってそれが人の心を魅入るそういう魅力の秘訣がそこに全部詰まっているのである。リピートや繰り返し、サビの部分の登場とか、ヒットする曲は、もう音型のルールがきちんと型にはまっている。
                                                   
4番はそれがなかなか見いだせない難しい曲なのである。聴者がその型を見つけることが難しい。その型に安住することが難しい。つねに違う進行で新しい展開をしていく。そういう感じの曲である。ある意味ラフマニノフらしくないと言えばそうかな、と思う。
                                                  
反面、オーケストラとピアノの競演が非常にかけひきが面白く、丁々発止とでも言おうか、かなりお互い語り合いながら連携していってハーモニーを作っていくのが素敵だ。まるで現代音楽を思い起こさせるような旋律なのだけど、そこにピアノは連射、トリルのような速砲弾のような連打が連なり、ピアニストとしてはかなり腕の見せ場なのではないだろうか。こういう場面になって、自分は阪田氏はかなりテクニックのある上手いピアニストである、ということがここでようやく認識し始めた。
                                                  
正直言うが、1番、2番では初印象を掴むのが精一杯で、ピアニストとして上手いのか、凄いのかはよくわからなかった。また1番、2番はあまりに知っている曲、いろいろなピアニストの演奏で知り尽くしている曲なので、よく差がわからなくて、阪田氏の力量を見極めるのは難しかった。
                                                   
阪田知樹が本物である。かなり上手いピアニストである、と確信し始めたのは、この4番からである。4番のオーケストラとピアノの丁々発止のやりとりを聴いてから、こりゃテクニックのあるピアニストだな、とようやく確信を持てるようになった。
                                                   
滅多に聴くことのできないブラボーな4番であった。
                                                  
                                                  
                                                   
●パガニーニの主題による狂詩曲
                                                  
ごぞんじラフマニノフの大人気曲。パガニーニの主題を手を変え、品を変え、どんどん形を変えて24種類のいろいろなバリエーションで進んでいく変奏曲である。この曲はまた独特の美しさ、クセになる魅力的な旋律がある。第18変奏の一部分だけを捉えるのではなくて、いろいろ変貌していく主題の変奏を全体として捉えるというか、そこにこの曲を楽しむコツがありますね。
                                                  
阪田氏のパガニーニ・ラプソディーは、非常にスタンダードで、教科書通りの解釈。正統派の演奏を聴かせてくれた。最初の1番、2番、4番、そしてパガニーニ狂詩曲。ここまで阪田知樹のピアノは、パワフルで精緻というピアノ奏法の特徴はあるものの、音楽の解釈としては、極めてオーソドックスで保守的な伝統的で教科書通りの解釈をするピアニストだな、と感じた。独特の色付けとか独創性をアピールする、そういうピアニストではないと感じた。
                                                  
とくにこのパガニーニ狂詩曲で新たな発見だったのは、弱音、ピアニッシモのときの柔らかいタッチである。体の線が細くて、しかも走るタイプなので、どうしても強打腱連射だとすごいアピールするんだけど、静かな弱音再生の部分は、柔らかいタッチが必要になり、別の自分を披露する必要がある。自分は素人だからよくわからないけど、ピアノって早く速射砲のように連打弾くことよりも、スローな部分を柔らかく静かに弾くことのほうが技術的によっぽど難しいのではないか。まさに息を止めてこらえながら弾かないといけない。感覚的にそう思う。
                                                   
こういう弱音再生の柔らかいタッチが上手にできると、それが反動で強打腱の連打も生きてくるのである。逆に強打腱の連打だけだと一本調子のピアニストに感じてしまう。この緩急の差、柔らかいタッチ、そして一見ゴムまりのように弾む強打腱の連打、これを、いかにおたがい上手に披露できるのかが、上手いピアニストの完成された姿なのかなと思う。
                                                   
もっと体が大きくなってガタイがよくなってこれば、こういう柔らかいタッチも自然とうまくなっていくのだろう、と思いながら聴いていたのだが、このパガニーニ狂詩曲で第18変奏を代表とする散々出てくる弱音再生の部分では、ものの見事な柔らかいタッチを披露してくれて驚いた。なんだ!これも得意じゃん!という感じで。(笑)
                                                   
つぎのラストの3番の第2楽章もすごいメローでスローな聴かせる箇所なのだが、じつにソフトで柔らかい表現を披露してくれた。
                                                  
あっぱれであった。
                                                  
                                                 
                                                  
●ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番
                                                    
そしてこの全曲演奏会のトリをつとめるのが、我が愛するもっとも敬愛する第3番である。3番の魅力については、もう散々書いてきたので、ここでは割愛するが、まさにトリに相応しいドラマティックなエンディングである。
                                                 
12年前の清水和音さんも3番を弾きたくてピアニストになった、と豪語するほどで、3番に対しては並々ならぬ愛情と特別の感情を抱いている。譜面上の音符の数が非常に多く、奏法的にも非常に難しい、弾けるピアニストはなかなか存在しない。そういう曲である。
                                                      
阪田知樹のラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番は、それはそれは素晴らしかった。
阪田氏のピアノは、いままで聴いてきた分には、あまりイレギュラーな解釈をしない、オーソドックスな基本的な解釈に忠実と思っていたのだが、この3番ではかなり趣が違っていた。
                                                
非常に個性的で、いままでに聴いたことのないようなオリジナリティのある独特な3番であった。まずテンポを揺らすというか、じっくり歌い上げるような部分やメローな部分では非常に遅く、スローなテンポで、そして走る部分はかなり速いテンポで。。というようにかなりアップダウンの激しい抑揚のある揺らすタイプの3番であった。
                                                   
自分はいままでどちらかというと、全体を通して比較的1本調子、均一なスピード感の演奏を聴いていた感触が多いので、そういう演奏が染みついている耳には、かなり揺らすタイプだな、と感じた。こういうのもメリハリが出てきて、なかなか素晴らしいと感じた。
                                                   
そして第1楽章のカデンツアの部分。ここは初めて聴くカデンツァだった。いままで聴いたことがないカデンツァであった。コロコロと転がすようなトリル的な装飾を施して、明るい感じの表現をしていた。もちろん根底にあるのは従来のカデンツァのメロディなのだが、そこにアドオンしてそういう装飾を加える感じである。これはなかなか新鮮であった。誰のカデンツァなのだろう?阪田氏は自分で作曲や編曲もするらしいので、ご自身で創作したカデンツァなのであろうか?ここはかなり驚いた。非常に魅力的だと思いました。
                                               
3番のここ!というような見せ場、そしてテクニックの披露する部分、物語の展開の劇的なところ。。。そういうところはどちらかというと保守的できちんと伝統通りの表現に忠実な演奏であった。
                                                
でも随所随所に、テンポを揺らすことと、独特の慣れた弾きまわし、抑揚のつけ方など、かなりこなれた自分なりの解釈を大いに盛り込んでいて、全体としてかなりドラマティックになるように工夫をされているのが、素晴らしいと感じた。
                                                          
またテクニック的にも素晴らしかった。やはり3番はどうしてもパワーのある男性ピアニストが有利な曲ではあります。男性ピアニストらしいパワフルで切れ味のするどい奏法は、ほんとうに聴いていてスカッとさせてくれるし、やはり男性ピアニストだな、と再認識させてくれた。
                                                     
3番の最高の場面である最後のエンディングのシャットダウン。いままでの長い音楽絵巻物語をここにて一気に終結するラフマニノフ終止。頂点にどんどん上り詰めていく進行のオーケストラでの上昇部分。ここまで、ためにためてゆっくり歌い上げるスローなテンポは初めて聴きました。(笑)ここまでやるか!という感じでもうびっくり。
                                                     
そして一気呵成にピアノの連打で最後はすざましいシャットダウン。
その瞬間、もう鳥肌が立ちました。
                                                    
さすが男性ピアニストともいうべき、その迫力と切れ味。
                                                                 
格好良かったです。
                                                             
その瞬間、ホール内は大歓声。そして一気にオール・スタンディングオーベーションとなりました。3時間15分の長いドラマが終結した、その劇的な終結の瞬間にみんな高揚して、自分を抑えることができないような感じであった。
                                            
                                                                                                       
ドラマは終わった。
                                                        
                                         
                                               
3番は、自分の時代は、あまりに弾くのが難しいので、弾けるピアニストがあまりいなくて、実演に接することが難しい曲でした。でもいまの若い男性ピアニストは、いとも簡単に弾いちゃうんですよね。(笑)技術の進化というのは、ほんとうに凄いです。
                                                                    
阪田知樹のラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番。
                                                                           
あらたに自分のラフ3コレクションに加えておこうと思います。
                                                                
最後に、見事に競演を務めた指揮・大井剛史氏と東京フィルハーモニー。
                                                     
素晴らしい演奏で、非常に分厚い弦のサウンドがかなり気持ちよく充実して鳴っていました。ピアノを表に出すべく、あるときは掛け合いで語り合い、お互い足並みをそろえての3時間。
                                                        
見事でした。
                                                  
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(c)ジャパン・アーツFacebook
                                                              
                                                               
                                                                 
阪田知樹 ラフマニノフ・ピアノ協奏曲全曲演奏会
2023年9月17日(日) 13:30~16:45
サントリーホール 大ホール
                                                  
ピアノ独奏:阪田知樹
指揮:大井剛史
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
                                                                     
ラフマニノフ ピアノ協奏曲第1番
ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番
                                                        
(休憩)
                                                                     
ラフマニノフ ピアノ協奏曲第4番
パガニーニの主題による狂詩曲
                                                            
(休憩)
                                                                    
ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番

                                                                             

                                            

                                                        

                                           

                                                       

                                           

                                                           

                                                                  








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清水和音 ラフマニノフ ピアノ協奏曲全曲演奏会 [国内クラシックコンサート・レビュー]

ピアニスト清水和音さんが、デビュー30周年記念公演ということで昨日8/6(土)でサントリーホールでラフマニノフピアノ協奏曲全曲演奏会を開催し、そのコンサートに行ってきました。


指揮は高関健さんで東京交響楽団。


清水和音

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高崎健

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サントリーホール

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ラフマニノフのピアノ協奏曲の全5曲を1夜で弾くというとてもチャレンジなコンサート で、1番~4番はもちろんのこと、パガニーニの主題による狂詩曲も含むというまさに 贅を尽くしたコンサートで、ラフマニアンの私にとってはもう堪らないコンサートでした。


実際の曲順はこうでした。(↓)


ピアノ協奏曲第1番

ピアノ協奏曲第2番

(休憩)

ピアノ協奏曲第4番

パガニーニの主題による狂詩曲

(休憩)

ピアノ協奏曲第3番



13:30~17:00のマラソンコンサート。本当に清水和音さんご苦労様という感じです。先日の序章の日記で私の各曲との出会い、思い入れなどを記載しましたが、最大の注目曲は文句なしに3番。


何を隠そう清水和音さんは「ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を弾きたいためにピアニストになった」と明言しているほどの3番の大ファン。今回の演奏でも曲順を3番をオオトリに持ってくる思い入れの強さ。


かく言う私も3番の中毒患者。マラソンコンサートの最後のエンディングは、あの3番の最終楽章のグルーブ感(盛り上がり)で凄い感動するんだろうな?と思っていましたが、期待通りの素晴らしい演奏でした。最後のシャットダウンのエンディングでは思わず背筋がゾクっとする大興奮。この曲の生演奏を聴くたびに経験するこの感覚、今回もきちんと体験することができました。


つぶやきでご存知と思いますが、じつは最初の1,2番のときはいまいち下手な感じで、全曲ともこんな感じなのかな?と思わず凄い心配しましたが、4番以降無事持ち直し、パガニーニ・ラプソディーも素晴らしく、最後の3番は頂点の最高の演奏でした。やっぱり3番の完成度は清水和音さんがもっとも思い入れのある曲だけのことはある、と思いました。


ラフマニノフのピアノ協奏曲で最も有名なのは2番。ところが清水さん自身過去に「僕は3番が好き。2番には興味なし」って何度か発言されているんだそうです。


まさにそれを地で行くようなくらい2番と3番では演奏の完成度が違いました。

まったく別人と思うくらい。(笑)本当に正直な方なんですね。(笑)


じつはこの公演のために自分のiPodに予習用として1,2,3番の曲を入れて聴いていました。この日も開演前の1時間も前にサントリーホールに到着したので、ホール前のカフェテラスで座ってiPodを聴いていたのです。



ラフマニノフ ピアノ協奏曲1番&2番 アンスネス、パッパーノ指揮ベルリンフィル


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ラフマニノフ ピアノ協奏曲3番 アルゲリッチ、シャイー指揮ベルリン放送響


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アンスネス盤は1,2番の演奏ではもっともお気に入りで上手いと思う演奏。3番は正直これは、と思うCDがないのが現状ですが、このアルゲリッチ盤はよく聴き込んでいた演奏。


さっそくホールが開場になってさっそく座席を探すと、今回に限り座席場所を事前に確認していなくて、座席を探す段階でなんと1階の最前列であることが判明!

なんとこの席!(↓)


1階1列25番


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私から見上げたステージ風景


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なんと目の前にピアノがドカンと(笑)。演奏する清水和音さんの姿は見えません。指揮者の高関健さんの姿は結局最後まで見えませんでした(笑)。ヴァイオリンの協奏曲や木管、金管楽器の協奏曲と違ってピアノ協奏曲の場合は、座席の位置で視覚的にかなり楽しめるか、そうでないかが決まります、私の場合。


オーディオマニアの意見によると、ピアノの位置に対して向かって右側の座席がピアノの音響が一番素晴らしく聴こえる位置だそうで、今回の私の席はまさにそう。確かに聴こえてくるピアノの音はCDの聴こえ方と全然違い素晴らしいものだった。みんなの言っていることは確かに間違いじゃない。


でも私の場合、やはり指が見えないと駄目なのだ。だからピアノに向かって左側の位置がいい。演奏している指の動きを観て、流れてくる音と相まって感動するのです。つまりピアノ協奏曲の場合視覚と聴覚の両方の相互効果がないと楽しめないのです。だから向かって右側だと顔しか見えなくて音だけが聴こえてくるので欲求不満になります。


だからピアノ協奏曲の場合の座席位置は結構コンサートを楽しめるか重要なファクター。


今回の席はまさにピアノを下から見上げるような感じで清水和音さんの顔さえ見えなかったのでいかがなものか?(笑)という感じ。


さてコンサート開始。


●ピアノ協奏曲第1番


第1楽章は、印象的なファンファーレで開始され、ピアノのオクターブの強烈な下降音型が繰り出される楽章です。ところが出だしのピアノの下降音型の部分、なんかテンポが凄く遅くて、しかもタッチのかろやかさがなくてかなり雑な印象?うん?下手だな?(笑)事前に聴いていたアンスネス盤は通常の演奏よりかなり速めのテンポでウマすぎな演奏なので、あぁ~、これは事前の予習が失敗したな~と思いました。予習は大抵海外の超一流の演奏家のCDを聴いて、うまい演奏を当然のように聴いている訳で、実際の国内演奏家の生演奏を聴いたときに、がっかりしちゃうというケースが多いのです。今回もそのパターンかな?と思いました。それでこれ以降の全曲も同じような出来だったら正直がっかりだな、楽しみにしていたのに困ったなと思ってしまいました。


第2楽章は、幻想曲とも言える書風。協奏曲におけるごく一般的な緩徐楽章です。この楽章のメロディは本当に美しいですね。この楽章に関しては出だしの悪い印象と違って素晴らしいと思いました。でも第3楽章でも結局波に乗れない感じで、全体としていまいちの印象。


●ピアノ協奏曲第2番


ご存知ラフマニノフのピアノ協奏曲の中で最も有名な曲。でも前述のように「僕は3番が好き。2番には興味なし」の清水さんの過去の発言にもあるように、その発言を裏付けるような出来でした。理由は1番と同じで、全体的にテンポが遅くて、なんかタッチが雑で曲全体的にバランスが悪い感じがしたのです。オケとのバランスも悪いです。2番はぜひいい演奏を聴きたかったので残念でした。でも誤解のないように言っておきますが、これは私感ですので、他のみなさんは素晴らしい演奏だったのかもしれません。ただ私がイメージしていた曲のイメージ像と違ったので違和感を持っただけなのです。


現にこの後の4番以降は見事に復帰するので、やっぱり1,2番に関してはアンスネスがウマすぎなのでしょうか。コンサートに対して予習することの欠点を認識した次第でした。



●ピアノ協奏曲第4番


休憩を挟んで4番に。今回の全5曲の中で唯一の不安要素だったのは4番。この曲はあまり馴染みがない、というか普段あまり聴かない。(笑)


清水和音さんも、もちろんピアノ協奏曲第3番をじっくり聴いてほしいと思うが、今回は特に第4番に注目してほしいと願っている、と言っていました。これはふだんあまり演奏される機会に恵まれないコンチェルトだが、だからこそこうした機会に耳を傾けてほしいと。


予習はしませんでした。これが正解でした。ピアノの重音で演奏される荘厳な雰囲気の第1主題が印象的。出だしから鍵盤タッチが安定していてバランスが良くて落ち着いて聴いていられました。先入観がないのが良かったのかもしれません。休憩を挟んで清水さん復活したな、と安心しました。


4番はどんな曲なのか記憶にないので、第1印象は、う~ん、ラフマニノフのロマンティック路線とは全く違う異質な印象を受けました。1,2,3番とはあきらかに毛色が違います。


ロマン派のラフマニノフの作風を望んでいる人であれば、ちょっと受け入れ難い印象を受けるんじゃないか、と思いました。でも私は演奏が安定してオケとのバランスも素晴らしく好印象でした。


最初の1,2番が絶不調で全曲こんな感じ?と心配だったので、本当に安心して、予感ですが、これ以降は上手くいくような感じがしたのです。



●パガニーニの主題による狂詩曲


この曲は3番同様、私はうるさいです。(笑)ご存知パガニーニの主題を、味を変え、品を変え、24種類のいろいろなバリエーションで変奏していく変奏曲です。第18変奏があまりに有名ですが、私はこの部分だけでなく曲全体としてトータルな流れとしてこの曲を捉えるのがこの曲を楽しむコツだと思っています。


清水さんの演奏も、この曲の場合もとてもオケとの掛け合いのバランスがよくタッチも安定していて安心して聴いていられました。大変良かったです。最初の序奏の後、分解された主題の”ラミ”が骨格で演奏され、その後に主題が変奏の後に登場するという画期的な手法。前半の一番の頂点は第4変奏でもうひとつの分解された主題”ラドシラ”をいろんなバリエーションで演奏していくこの部分です。最初のエクスタシーを感じるところです。


次に第7変奏、ここにはラフマニノフが生涯こだわったディエス・イレの旋律が隠されています。ディエス・イレはロシアの教会の聖歌の旋律のことでラフマニノフは自分のいろいろな曲にこの旋律を入れています。ロシアを亡命するという悲劇の人生の根底に潜む旋律で、革命によって失われたロシアの教会の響きへのラフマニノフのこだわりの部分だと思うのです。この変奏曲の中で唯一パガニーニの主題とはかけ離れているメロディで私は特別な想いがします。


そして第18変奏。映画やCMなどに使われていたりするあまりに有名な旋律ですが、この前の第17変奏に伏線があります。凍えるような寒く長いロシアの冬を感じさせる旋律で、そこから春の訪れを感じさせるように第18変奏に切り替わる瞬間がなんとも言えないエクスタシーなのです。そして第18変奏は非常に甘美なメロディーでせつなく響く官能的な響きで最高ですね。


もうこれ以上の説明は不要でしょう。(笑)


清水さんの演奏、非常に素晴らしかったです。



●ピアノ協奏曲第3番


そしていよいよオオトリの3番。清水さんに「ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を弾きたいためにピアニストになった」と言わしめた曲。


そして私自身もこだわりのある曲。


オーケストラによる短い序奏の後にピアノがオクターヴで奏する第1主題が全体を貫く共通主題となっており、全曲を統一する役割も持っています。この出だしの部分の演奏で清水さんの演奏は非常に安定して、まさにCDで予習していたイメージ通りなのです。これはいけると思いました。さすが清水さんのこだわりを持っている曲だけのことはあると思いました。


1,2番のときの演奏とは全く別人かと思いました。


第2楽章ではオーボエで提示される憂鬱だが美しい旋律を中心に、その他様々な重要な旋律を扱って進んでいき、清水さんの演奏に私もどんどん引き込まれていきます。もっともこだわりのある3番で自分のイメージ通りの安定した演奏に私はいいわ~(笑)とご満悦。


アタッカによって休みなく第3楽章へ続き、そしてこの曲で私が最も興奮するところ、終盤のエンディングにかけてのグルーブ感(盛り上がり)、テンポを上げて一気に盛り上がり、その頂点で派手な軍楽調の終止に全曲を閉じる部分です。この賑やかな軍楽的な終結は「ラフマニノフ終止」と呼ばれているもので、この部分で私はいつも体全体に稲妻のようなゾクっとくるのを感じるのが快感なのです。


私はこの「ラフマニノフ終止」を経験したくて、いつもこの曲の生演奏に出かけるのです。日本のピアニストでは小山実稚恵さんがこの曲を得意としていて(というかこの曲だけでなくラフマニノフ弾きの名手として有名)、小山さんのこの曲の公演はいままでかなりの回数通っていますが、この瞬間は何度味わっても凄い快感なのです。


そして清水さんの演奏のこの瞬間もまさに期待通りの快感。


この終わった瞬間、となりに座っていた高貴な上流階級の感じの貴婦人の方は、「わぁぁぁ~」という決して意識的ではない無意識に出てきた叫び声を挙げていました。


本当に素晴らしい一瞬で素晴らしい演奏でした。さすがこだわりの曲だけある、と思いました。


清水和音のラフマニノフを聴くなら、やはり3番ですね。


マラソン演奏会で、最初の1,2番では絶不調だったのが、後半から最後にかけては素晴らしい名演を聴かせていただき、波はありましたが、本当に大満足でした。


清水和音さん、お疲れ様でした。







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とんかつ とんき [グルメ]

東京・目黒に「とんかつが好き」という人であれば、その名を知らぬ人は無い名店、「とんかつ とんき」がある。全国各地に「とんかつ とんき」という屋号を掲げる店は数々存在するが、それらはいずれも、この目黒本店から暖簾を分けられた店だ。


目黒本店はいわば「とんき」の総本山であり、全国のとんかつファンからは、とんかつの“聖地”と目されて久しい。


自分は、フジテレビの大学時代の同期友人から、このお店を教えてもらった。

上京したての頃だ。


当時、結構夢中になって通ったものだ。


2回来てくれたらもう「常連さん」だそうだ。(笑)

自分はもうじゅうぶんにその資格を有している。


とんかつ、もちろん大好きである。最近は、糖質制限食生活中なので、揚げ物はなかなか厳しいのだが、それでもたまになら許される。


やっぱり、とんかつは、ごはんが進む食べ物である。とんかつひと切れでご飯が何杯でもいけてしまう。とんかつを全部食べ終わったときは、もう腹いっぱい、喰った~~~という感じで、もう食べ応えがある食べ物なのだ。男という生き物は、やはり、こういう食べ物が好きなのだ。上品でもない、もう体育会系のガツガツ系、男の食べ物である。


とんかつ とんきも今しばらく行ってないな~。もう10年以上は経つ。ひさしぶりに行ってみる?という感じで行ってきた。


店があるのは目黒駅の西口を出てすぐ、権之助坂を下り始めた辺りの左手側だ。威風堂々たる佇まいを見せるこの本店店舗は、ここに建って50年余り。現在の目黒駅西口付近にあったという旧店舗の時代を含めれば、じつに80年近くもの間、目黒の人々に愛され続けている。


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とにかく、とんきはとんかつの”聖地”として、全国のとんかつファンから神殿のように崇められている場所。もう大変な大人気で、常に安定した人気を誇っている。


自分はこの日は、日曜日の開店16:00より前に行ったのだが、開店30分前には、すでにこの大行列。


ひぇぇぇえええ~。とんき、恐るべし!である。


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開店と同時に店に入店。


とんきの特徴は、この広大な店内。めちゃめちゃ広い。客席は1階のカウンターと、2階のテーブルの予約席があるのだが、やはり人気なのは、1階のこの広大な広さのカウンターだ。ほんとうに広い。


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自分が初めて、とんきを体験したときも、まず驚いたのは、この1階のめちゃめちゃ広い店内だ。


この空間こそ、まさに、とんき、である。


とんきは、すごい劇混みなので、カウンターの後ろに待合席が用意されている。とにかく広いので、席もすごい数用意されている。外で並んで立って待つことがないように店内で座って待っていてもらえるように、という配慮だ。


とんき、の店内が人気なのは、コの字に配されたカウンターから、厨房が丸見えになるような仕掛けになっているところだ。とんかつを揚げて、それに包丁を入れて、皿に盛りつけていく。やっぱり、せっかくとんきを体験するなら、ぜひこの1階席のカウンターに限る。自分は劇混みで、お客さんはつぎつぎと2階席に案内される中、どうしてもこの1階の空間で食べたかったので、1階席を懇願した。ちょうど1人分空いていて待たずにそのまま着席できてラッキーだった。


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店内は、すごい生活感あふれる感じで綺麗に清掃が行き届いている。なにせ広大なフロアなので、毎日膨大な労力で清掃しているらしい。



厨房内は完全分業制だ。


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これがとんかつを揚げている寸胴。中に脂が敷き詰められており、熱々だ。この中にとんかつをどんどん放り込んで揚げていく。もう上品系でもなく、もうどんどん放り込んでいく、ある意味大雑把というぐらいラフである。なにせ1階カウンターはすごい人数なので、数をどんどんこなしていかないといけない。いっきに13、14枚くらい単位で揚げていく。



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厨房の端のほうで、こうやって、とんかつの生肉に衣をつける作業をしている。1枚1枚卵と衣をつけて、つけ終わったら、そのまま1枚づつ寸胴まで運んで、放り込んでいくという作業だ。


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ちょうどいい具合に揚げあがったところで、それを取り出し、包丁を入れていく。切り方もちょっと変わっていて、一度縦に包丁を入れて、それからスライスしていくという切り方なのであるが、これは小さな方から、おじいちゃまおばあちゃままで食べやすいように、ということもあるし、何杯もごはんを食べていただけるように、という思いも込めている。お皿にはキャベツがすでに盛り付けられていて、そこに切った後のとんかつを、どんどん盛り付けていく。すごい慣れた作業で、さっさっと進んでいく。


カツを切り分ける際に、お客さんの性別や年齢に合わせて一口分のサイズを調整する。


十字に切るとき、歯が弱いとか、あまり食べられなさそうな方には1回多く包丁を入れたり、逆に大柄なお兄さんには1回減らしたり。過去にご来店いただいた方には、そのときの記憶も頼りながら。「縦2本入れてくれ」とか、オーダーいただければお応えするそうだ。



やっぱり、これだけのお客さん、そしてとんかつが出来上がるまでのフローなど、注文してから、出来上がるまでかなり時間はかかりますね。かなり待ちます。これは仕方がないことかな?それでも30分以上かな?とんかつを揚げるのに、大体17~18分かかるらしい。それを人数分さばいていくのだから、これは仕方がない。


なるべくお待たせする時間をできる限り削減するために、お店に来店と同時にすぐに注文を聞くようになっている。



そして、出来上がった、とんかつの聖地、とんかつ とんきのロースかつ定食である。2,300円。

豚汁、ごはんはお替り何杯でも無料である。


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超久しぶりのとんきだった訳だが、自分の淡い記憶では、もっと肉厚でボリューミーな感じでいた。やっぱりとんかつだから、1枚1枚が肉厚でボリューミーで食べ応えがあってほしい。そういう男の願望がある。でも完成品を見るや、意外や薄っぺらいというか(失礼。。笑笑)こんな貧祖な感じだったっけ?という印象であった。衣はかなりこんがりと焼ける具合十分に火を通している印象だ。


でも、ひさしぶりに食べるとんきのとんかつ。やはり美味しかった~~~。豚肉が上質ですよね。噛めば噛むほど肉汁と甘みが溢れ出る、という感じで、とんかつ食べてる、という満足感を感じられた。やっぱりこういう食べ応えがないと。これがとんかつに求められている、みんなのイメージ像だと思うのである。


とんきのとんかつ、超美味しかったです!


ひさしぶりに堪能出来てよかったです。


ひさしぶりのとんき。客層を見ると、若い人から年配の方まで幅広い。そしてなにより外国人がすごく多いことだ。メニューのオーダーも英語版も用意されていて、注文を取る方も、外国人のお客さんがスマホを見せて、これと同じものを、というリクエストにOK!と快く。そんなやりとりが多くみられた。慣れてるな~という感じ。


常連さんが多いので、3代、4代と続けて来てくださる方が多い。おじいちゃんおばあちゃんから、1歳くらいの小さなお子さんまで、いろいろな方に愛されている店だな、ということは日々感じているそうだ。そこにまた、タワーマンションの方や、新しい外国のお客様も増えているので、客層という意味では本当に幅広い。近隣にお勤めの芸能関係の方や政治家の方もいるが、「サインをください」みたいなことはまず無い。「大人」のお客様が多い。これも目黒の土地柄なのだろう。


ひさしぶりのとんき、美味しくて満足しました。

また来ます。


最後に、3代目 吉原出日氏のインタビューの抜粋を紹介して終わりにしよう。


――「とんかつ とんき 目黒店」の歴史を教えてください。


祖父が目黒で創業したのは1939(昭和14)年と聞いていますが、実は前身にあたる「とんき」が五反田にありまして、祖父はその五反田の「とんき」で修行していたそうで、やがて暖簾をいただいて、目黒に自分の店を持ちました。「なぜ目黒に出したか」ということは定かではないんですが、慣れ親しんだ五反田から遠く離れるよりも、近くでやろうと思ったのかもしれません。


目黒の最初のお店は、今みたいなしっかりした建物ではなくて、立ち食い蕎麦のお店のように間口がぜんぶ開いている、本当に小さなお店だったようです。その後に、いまの「目黒」駅西口のキヨスクがある辺りに、最初の(しっかりとした)店舗を構えたんですが、「目黒」駅を拡張する時に立ち退きにあいまして、いまの場所に移転してきました。移転してここに移ってきたのが1967(昭和42)年のことですから、ここは今年で51年目の店舗になりますね。



――40年この街に暮らして、目黒の街の変化についてどのようにお感じですか?


この40年だけ見ても、かなり変わりましたね。自分が小さいころには、当然ビルはこんなに無かったですし、食べ物屋さんもほとんど無いような街でした。今は権之助坂の左右にいろんな飲食店が並んでいますが、ここも昔は、魚屋さんとか八百屋さんいった店がほとんどでしたから、今のような姿は想像もしていなかったですね。


まったく変わらずにやっているのは、すぐそばのお寺さん(大圓寺)とか、「聖アンセルモ教会」とか、そういうところぐらいです。「ホテル雅叙園東京(旧:目黒雅叙園)」は昔からありましたが、建物は全部新しくなりましたし、ここ十数年で一気にビルやタワーマンションも建ちました。風景はすっかり変わりましたね。それから、何年か前からは外国人の方が多く住むようになったな、と感じています。


――「とんき」ならではのこだわりについて教えてください。


とんかつは、粉と卵を3回ずつ付けて、最後に衣を付けて揚げている点が一番の特徴かと思います。さらにそのかつを、低温の100%ラードの油で20分近く揚げて、中までゆっくりと火を通して、召し上がっていただくというとんかつです。切り方もちょっと変わっていまして、一度縦に包丁を入れて、それからスライスしていくという切り方なのですが、これは小さな方から、おじいちゃまおばあちゃままで食べやすいように、ということもありますし、何杯もごはんを食べていただけるように、という思いも込めています。豚汁とご飯はお替わり自由ですから、ゆっくり楽しんでいただきたいですね。



――目黒の街の魅力についてお聞かせください。


40年ずっと住んでいても、やっぱり住みやすい、いい街だなと思いますね。治安もいいですし、どこに行くにも便利です。お客様の品がとてもいいというところもですが、落ち着いた、本当の意味での「大人」の方々が住んでいる街ですね。そこが目黒の魅力にもなっているのかな、と思います。


目黒はとっても坂が多くて、歩くと大変な街ですけれども、権之助坂をのぼった先にはおいしいとんかつ屋さんがありますから、どうぞ「とんき」をよろしくお願いいたします!










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喫茶室ルノアールのお茶をどうぞ! [カフェ]

都市型喫茶店として創業以来、早くからチェーン化を図り、喫茶店の直営店チェーンとしては業界の大手に成長した「喫茶室ルノアール」こと銀座ルノアール。駅前での展開が多いにもかかわらず、他のチェーン展開をしているコーヒーショップと比較してもゆったりとした座席配置となっている。


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とてもゆったりしていて大人の空間だ。なんかビジネスマンが寛げる空間というか、大人の空間なんですよね。


ルノアールは「名画に恥じない喫茶店」のコンセプト通り、まるで画廊に居るようなゆったりした静かな雰囲気があって、接客がていねいで居心地が良い。これは低価格喫茶チェーンにはないものだ。


もうチェーン店なので、どこの街でも存在する。


自分は新宿東口のアングラエリアにあった(いまは存在していなかった。)ルノアールと、渋谷の東急ハンズのそばにある2か所のルノアールを頻繁に愛用していた。


喫茶室ルノアールは、1品1品がすごい高いんですよね~。コーヒー1杯だけでもめちゃめちゃ取られた記憶があって、メニューを見てもどの品もみんな高いので、それ以来ルノアールは高い!というイメージが植え付けられた。


コロナ前の2018年当時のネットニュースであるが、「昭和の喫茶店」が廃れる一方で「ルノアール」が好調な理由というニュースがリリースされたようだ。



首都圏のビジネスパーソンがほっと一息つける都会のオアシス「喫茶室ルノアール」を経営する銀座ルノアールが、8年連続で過去最高の売上高を更新する見通しだ。


ルノアールのコーヒーは1杯600円前後と、喫茶店にしては割高だ。にもかかわらず、銀座ルノアールは2017年3月期まで緩やかに売上高が伸びている。08年に56億9300万円だったが、17年には76億4600万円と、過去10年で3割ほど増えている。


利益が出にくく継続するのが難しいとされる喫茶ビジネスで、喫茶室ルノアールが第一線であり続けられる理由はどこにあるのか?本当に不思議である。


大半の店でWi-Fiと無料で使える電源が整備されている。3時間で1000円くらいのネットカフェに比べれば、モバイルで仕事をする人にとってはコストパフォーマンスが良好。


仕事の合間に頭を整理したり、本を読んだりするために来店する常連客も多く、新聞も無料で読める。つまり、一種のサテライト・オフィス兼休憩所として気軽に使える便利さがある。


また、打ち合わせや商談によく使われることから、貸会議室を併設している店舗もあるほどだ。オフィスの延長線上で愛用されているのも、ルノアールの強みである。



この喫茶室ルノアールで昔からコアなファンの間で面白い都市伝説が存在する。


それはコーヒーを頼んだ後にやってくる無料のお茶をどうぞ!というサービスである。


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ドリンクがなくなりかけた時に店員さんが持ってきてくれる和風の湯呑みに入った温かいお茶。これはルノアールを訪れたことがある方にとっては、気になる存在で誰もが知っている伝説だ。


巷では、あまり長居を続けると、このお茶をどうぞ!というのはルノアールからの「あの~そろそろ・・・」という遠回しな意味合いなのだ、という噂が世間を風靡した。(笑)


自分もよく体験した。いままでそんなことは微塵にも思ってなかったのであるが、巷の噂でそういうことなのか!ということで驚いて笑ってしまった。



喫茶室ルノアールで出されるお茶。あのお茶は、「早く出ていけ」という意味なのか、それとも「どうぞゆっくりしていってください」という意味なのか…。


これはたしかに大問題である。(笑)これは結構世間で大々的に議論された問題でもあった。


巷では面白可笑しくしたいので、「あの~そろそろ・・・」で解釈する人が圧倒的多数を占めた。


でもそれでは風評被害的にもルノアール側も営業的に困るであろう。


実は、ルノアールは「花見煎餅」という煎餅屋さんの喫茶部門が独立して誕生したという経緯がある。そういった事情から、ルノアールが創業当初はメニューに日本茶と煎餅のセットがあったそうだ。


お茶を出す理由については、「ゆっくりおくつろぎください」という意味が込められているそうです。


喫茶店では長時間いると回転率が下がりそうなので、すぐに帰って欲しいと思うのは当然の心理だと思います。にも関わらず、むしろ長時間滞在することを促してくれるなんて、「都会のオアシス」をコンセプトに掲げるルノアールらしいサービスと言えるでしょう。


ちなみに、このルノアールのお茶は「帰って下さい」的な意味があるという都市伝説的な噂が流れたことがあるそう。実際は、そんな京都のお茶漬け的なメッセージ性(笑)は一切ないので、存分にゆっくり過ごしてよいそうです。


・・・ということだそうです。


そりゃそうですよね。(笑)そんな訳ないですよね。(^^)


世間のギャグ体質の解釈には困ったもんですよね。(笑)


自分もやっぱりそうなのか、と安心しました。


銀座ルノアールへのそういう誤解を封じるためにも、以下のルノアール社長 小宮山文男さんのインタビューを読むことをお薦めする。



トップインタビュー 明日を拓く「型」と「知恵」 - 喫茶店が持つ多彩な役割。「場所提供」で地域貢献も――株式会社銀座ルノアール 代表取締役社長 小宮山文男さん(下)



以下その部分を抜粋。


●「おくつろぎください」という気持ちが込められたお茶


都心の低価格セルフカフェでは効率性を重視して、お客の平均滞在時間が十数分という店もある。固い椅子の採用で回転率を上げようともする。ルノアールはこうした戦略とは逆で、座り心地のよい椅子を用意し、滞在時間の長さも気にしない。店内には新聞も置き、居心地を提供することでリピーターや常連客を多く獲得している。


昔から中高年男性に支持された店ゆえ、伝統的に喫煙客も多い。店ではタバコも販売しており、これは「手持ち分が切れた時にお客さまご自身で買いに行かれるよりも、すぐに提供できるサービスの一環」だという。


「最盛期はタバコ関連の売り上げだけで年間1億円を超えていました。現在は半分以下に減りましたが、それでも喫煙されるお客さまには喜ばれています」


時代とともに男女の気質の変化も感じている。


「男性喫煙客の多くは、ドリンクを飲んでからタバコを取り出します。逆に女性は、席についてすぐタバコに火をつける方も目立ちますね」


・・・・・


ついでにこっちも。


一番驚くのが接客。街中にあるカフェや喫茶店であれば当たり前のように回転率重視。飲んだら出ていって的な空気感があります。ルノアールは真逆。頼んだ飲み物が終わると「お茶はいかがですか?ごゆっくりどうぞ・・・」と言って熱いお茶を持ってきてくれます。


そしてしばらくすると「お茶の入れ替えです。ごゆっくりどうぞ・・・」と言って新しいお茶を持ってきます。追い返そうどころかいつまでも居てください的な感じなのです。その頃、相談ピーク時の週末には朝9時から夜9時くらいまで12時間近く居たこともあります。


顧客層も自然に絞り込みがされています。店内に明るいイメージはありません。来ている人は個別商談らしき人、一人でパソコンをパチパチ打って作業をしているような人ばかり。周囲がそんな人だからより入りやすくなります。店員も不必要に歩き回らないから面倒なことはありません。そんな雰囲気が店に来てほしい人を呼んでいる流れができています。


一番すごいと思うことは、こうしたことを全く宣伝していないこと。ここからは想像の域になりますが、基本姿勢を守り、地道にコツコツ実践し続けてきていることに徹しているように見えます。


普通だと「ゆっくりしていただくことを第一に考えたルノアール、決して追い返したりしません」といったキャッチコピーを作って売り出していきがち。そんなことは一切せず、ひたすら店としての姿勢を貫いている感じがします。


・・・こんな感じです。やはりあの都市伝説はイカサマだったんですね。(笑)



私がこの日記でこの風評被害をここで決着をつけるように、正すことにします。


でも、「あの~そろそろ・・・」のほうが世間的には面白いことは確かですね。(笑)









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新宿東口 [街歩き]

上京して社会人スタートした1987年からの7年間。小田急新百合ヶ丘の会社寮に居たとき、かならず休日の遊び場として徘徊していたのが、新宿東口エリアの界隈である。自分的には新宿というと、この東口エリア界隈のことを指す。


十数年ぶりに新宿中村屋の純印度式カリーを堪能して、建て直しリニューアルした新宿中村屋ビルと、新しいレストラン&カフェ マンナも経験することができた。


お腹がいっぱいになったところで、ひさしぶりに出てきた新宿東口エリア。ちょっと懐かしさのあまり散策してみようかな、と。あの頃からどんなところがガラ変しているか。。


新宿東口を歩いていると、やっぱり胸キュンとするよね。なんか人間として青かった(いまでも不完全人間ですが。。笑笑)若かった頃の自分をど真ん中に投影している街で、あの頃の想い出がいっぱい詰まっている。


東口エリアを歩いていて何をするか、なのであるが、北海道の田舎育ちの人間にとって、あの当時は、とにかく東京という街が新鮮で、いろいろ東京のことを知りたい。休みの日には寮の部屋でくすぶってないで、どんどん歩き回って東京を実感しよう!というのが自分の考えにあった。北海道の田舎もんにはすべてが新鮮であった。


自分の中には、東京=新宿(東口)という方程式が成り立っていた。


だからただ街中をぶらぶら歩いているだけなのである。街の様子とか、こんなところにこんな建物があるのか、そしてショッピングとか。そしてメインだったのは、やはり食べ物関係ですね。新宿東口でいろいろな食べ物屋さんを発見するのが楽しくて、いろいろ食べ歩きました。


だから今回のじつにひさしぶりの新宿東口散策でもどうしても食べ物中心の探し物になりました。また先日ご紹介した24時間サウナもよく利用した。伊勢丹の近くと歌舞伎町のいまの東急シアターの向かいにあった。花金のウィークエンドに24時間サウナで宿泊して、翌日は新宿三丁目にある西武新宿プリンスホテルのブッフェでモーニングをいただいて、そこから寮に帰るという日々の繰り返し。


人生、つねに新しいことにチャレンジ、習得するだけじゃ疲れるんじゃないでしょうか。自分のように長年人生やってくると、振り返りのほうがエネルギー消耗しなくて楽です。(笑)懐かしさを楽しむ、ということも人生必要なのではないでしょうか。気持ち的にもキュンとするものです。


自慢ではないですが、自分は新宿にはかなり土地勘があります。

自然と土地勘を養うぐらい新宿の街は歩き回った自負があります。


新宿東口といえば、やっぱりまずここである。スタジオALTA。一時代を一世風靡したタモリさんの「笑っていいとも!」のスタジオでした。自分の世代ど真ん中のロングセラー番組でした。


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自分はじっさい生放送のスタジオには行ったことはないけれど、あ~ここでやっているんだな~といつも思っていました。


いまスタジオALTAのビルの横には、こんな猫の3Dオブジェクトの試みがあるんですね。いま話題です。15分に1回の間隔で、猫が3D的に飛び出してくるんですよね。現場にいるとほんとうにそう感じます。新しい新宿東口の観光スポットですね。


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そして、なんといっても新宿東口と言ったら、この東口から新宿通りを眺めたこのシーンではないでしょうか。新宿東口を代表する風景だと思います。


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交差点の角にあるお店は変わっているかもしれないけど、ビッグカメラは昔からありますね。いまは白い壁で覆われて、デパートみたいな趣になってますけど、昔はここは出店というか外にどんどん商品を展示していて、そこに売り子さんがいっぱいいて、お客さんがその外の売り場にたむろっている、というそういう風景でした。


そして新宿通り。ここは新宿東口の自分のメインストリートですね。


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この通りには小さなカジュアルな洋服売り場があって(いまはもちろんありませんが。)、自分はかなりの頻度で買っていました。あの頃は洋服にお金をかけていました。



紀伊国屋書店。

まさに新宿東口といえば、紀伊国屋書店ともいうべき絶対的存在でした。この本屋さんもよく入りました。


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新宿東口は、この新宿通りのメインストリートから1本駅側に入ったところのエリアがかなりマニアックで自分は愛好していました。ちょうど新宿通りから、新宿南口の甲州街道に行くまでの間に存在しているエリアで、なんかアングラな雰囲気でいいのです。このアングラエリアは飲食店関係が充実していて名店が多いですね。なんか食べ物関係などかなり自分に所縁のあるお店がいっぱいあります。とくにこのエリアにある喫茶店はよく通っていました。喫茶店通いが趣味みたいなところもありましたので。


このアングラエリアに行くのに、いまこういうゲートができているんですね。驚くと同時に笑ってしまいました。(笑)


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アングラエリア


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この新宿ライオン会館も昔からありますね。


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ここで、ステーキのレアを頼んだことがありましたが、もう中身が冷え冷えの生肉という感じで、美味しくないな~と思い、それ以来ステーキはミディアムにすることにしています。レアは頼まなくなりました。それがここの新宿ライオン会館で学んだことです。




アングラエリアに昔から存在する天ぷらの名店「つな八」。ここはまさに老舗で天ぷらとしては名店中の名店です。お値段もすごく高いです。そしていつも劇混みです。予約しないと長時間待たされます。


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昔、北海道の友人のおもてなしに、この新宿つな八を利用したことがあって、天ぷら定食を堪能しましたが、なんか高い、劇混みの割にはあっけない瞬殺だな~と思ったことを覚えています。



そして、これも日記で紹介しましたが、名曲喫茶「らんぶる」。


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ここはお話した通り、自分の新宿におけるたまり場みたいなところでした。ここで長時間時間潰しているみたいな。店内はクラシック音楽が静かに流れていて、店内の内装がとてもクラシックで素敵です。かなりハマりました。名曲喫茶というのは、こういう喫茶店のことを言うんだな、と最初に知ったのが、この新宿の名曲喫茶「らんぶる」でした。



アングラエリアでは、いまはこの場所に新宿東口横丁というのができていますね。(笑)これは驚きですね。もちろん昔は存在していなかったです。


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昔このビルには喫茶室ルノアールが入っていました。よく使っていましたが、喫茶室ルノアールは基本高いんですよね。コーヒー1杯だけでもすごく高い。そして長時間居続けると、天下のお茶をどうぞ!がやってくるし。(笑)いまは喫茶室ルノアールはもうありませんね。かわりに椿屋珈琲というのが入っていますね。自分はまだ椿屋珈琲は1回も入ったことがないです。1度は入ってみたいです。



アングラエリアには、もうひとつじつにクラシックでこれぞ、純喫茶!カフェではなく喫茶店。という名店があります。


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それがここの珈琲タイムスです。ここはかなりクラシックで素晴らしいですよ。まさに純喫茶のお手本のような喫茶店です。けっしてカフェではないです、あくまで喫茶店です。当時からあまりに老舗なのでいつ潰れてもおかしくなかったですが、まだ存在していたとは驚きでした。(笑)ここは自分は愛好者でした。


自分は喫茶店愛好者なので、こうしてみると、この新宿東口、とくにアングラエリアは、喫茶店の名店が多いことがわかります。



当時は、名曲喫茶「らんぶる」の隣、近くにあったディスク・ユニオン。移転したことは知っていましたが、こんなところに移転していたとは!今回初めて知りました。


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当時、珍しいCDをここで漁って夢中になっていました。いまでは貴重な音源探しという行為ですが、これからは、そういう行為自体も少なくなりそうですね。ひさしぶりに中を覗いてみたら、やはりアナログ中心になっていました。やはり漁るという行為はアナログですかね。


あと、アングラエリアでは、落語の寄席をする芝居劇場というかそういう建物があったように記憶しています。毎回大相撲の旗みたいに、その寄席のやる落語家の掛看板みたいなものが壮麗に並んでいた建物がありました。いま行ってみるとなくなっていますね。いつか入ってみたいと思っていたのですが。



このアングラエリアを突き抜けていくと、新宿南口、甲州街道にぶち当たります。

その甲州街道沿いにあるうなぎ屋さん。「登亭」

正直、店の名前は憶えていませんでした。たしかここに、よく通っていたうなぎ屋さんあったな。それもお店全体が黄色だった。いまここに再会して、お店の名前を思い出しました。でも全然覚えていませんでした。


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懐かしすぎる~。(笑)

まだ潰れずに存在していたとは!自分の時代からずっと生きながらえているうなぎ屋さんです。ここでよく、うな重、鰻の蒲焼定食食べました。ここはとても美味しかったです。値段も当時は控えめでしたね。


いますごい鰻の値段が高騰しているではないですか?そのときに自分が頭の中に思い出したのは、新宿のあそこのうなぎ屋さんも高くなっているのかな?と思ったことです。それくらい自分にとって、うなぎ屋=新宿のうなぎ屋「登亭」というイメージがはびこっていた。。。それくらい通っていたお店です。


ここから、また新宿通りのほうに向かいます。



伊勢丹。


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まさに新宿に昔からある老舗百貨店。中に入ったことは数回しかありませんが、まさに伝統の百貨店です。外観に威厳があります。


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丸井〇I〇Iも昔からありますね。でも丸井と言えば、自分としてはやはり渋谷のほうがメジャーだと思います。自分は渋谷のほうの丸井をよく使っていました。



新宿通りをすこし東口に向かって歩くと、ビッグカメラが見えますね。


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これは自分の時代にはなかったものですね。こんな大きな変貌があったんですね。ビッグカメラは東口付近のほうは昔からありました。




新宿通りを東口沿いに歩いていくと、そこから枝道に入っていくと、カレー「ガンジー」があります。


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ここはカレーの隠れた名店で、欧風のカレーを堪能できます。いまネットで調べると、ここは欧風カレーということになっているのですが、自分の記憶ではもっとユニークなちょっと普通では味わえないような特殊なカレーだった記憶があるのですが。だからこそ、こんな枝道の入ったところの目立たないお店なんだけど、宝物を見つけたみたいな、そんなお店でした。


なんのカレーだったか、覚えていないです。欧風カレーってあまりに普通っぽくて。そんなのに自分が興味を示して通うかな~と思うのですが。5回くらい通い詰めました。



また新宿通りに戻って、今度は紀伊国屋書店から歌舞伎町方面に向かう枝道に入ります。ここもいろいろ怪しげなアングラな飲食店がいっぱいあります。自分はアングラな雰囲気が好きなんですね。(笑)




うなぎの「こばやし」。


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ここは新宿に昔からある老舗の名店で、新宿ではかなり有名なうなぎ屋さんです。自分は2、3回入ったことありますが、まさに暗くて狭くて、いまに潰れそうな伝統ある老舗なのですが、年老いたお婆さんが切り盛りをしていて(当時はワンオペでした。)うな重、うなぎの蒲焼定食を食べたことあります。美味しかったです。お値段は高かったような。



その隣には・・・


出た~~~。桂花ラーメン。(笑)


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東京で革命を起こした本場熊本ラーメン、桂花ラーメン。

社会人スタートの頃、アムスの同期友人に教えてもらったのが最初に知るキッカケ。

この桂花ラーメンがウマいんだよ、ということで。その最初に教えてもらって入ったのが、この新宿東口エリアにあるこのお店だったです。


アムス友人といっしょに入って食べたこともありますし、自分1人で入ったことも何回もある。熊本ラーメンらしい豚骨ベースのこってりしたラーメンで、これはこれで美味しいな、と思いました。


でも、いまや熊本県、福岡県、新宿、渋谷、池袋で店舗を構える桂花ラーメンだが、自分が桂花ラーメンを食べるために入ったお店はこの新宿東口店しか経験がないのです。他店舗は入ったことない。


だから自分にとって、桂花ラーメンといえば、ジャストでこのお店のことを言います。見ての通り、店内は超狭いです。(笑)


よく調べていないが、入社時期だった1987年だから、おそらく桂花ラーメンも東京に進出したばかりではなかったのかな?その第一号店がこの東口の店舗じゃなかったのかな?



沖縄料理ってどんなものなのかな?初めて食べてみたいと思って、沖縄料理食べさせてくれるお店をいろいろ探して入ったのが、この「沖縄食堂 やんばる」。沖縄料理店をいろいろネットで調べたのですが、やはり自分は新宿にすごい土地勘があるので、アクセスに有利な新宿のお店にした、ということです。さっきのうなぎ屋「こばやし」や桂花ラーメンの斜め向かいにあります。


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もうだいぶ前の昔のことなので、どんな沖縄料理のメニューを食べたか覚えていませんが、これが沖縄料理か~という感じで楽しみました。




つい最近見つけた金沢カレー「ゴーゴーカレー」の新宿歌舞伎町店。

新宿通りから歌舞伎町に向かう途中にあります。


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ここは地下にあって、かなり狭いアングラ色いっぱいですが、金沢カレー、あの独特のテイストを十二分に楽しめて美味しいです。金沢カレーには、ゴーゴーカレーとチャンピオンカレーの二大勢力があるのですが、東京ではチャンピオンカレーを経験することは難しく、もっぱらこちらのゴーゴーカレーになると思います。



まっあまり長時間は歩けないので、こんな感じでしょうか。

やっぱり自分の想い出に残っているのは食べ物関係が多いですね。(笑)新宿東口といえば、自分の頭の中にずっと記憶として残っているのは、やはり食べ物関係と喫茶店関係なんですね。


以前紹介しました高層ビルの新宿西口、そしてダイナミックオーディオ、そしてこの新宿東口というのが、自分の青春時代を謳歌した場所でした。


ひさしぶりにその想い出の場所をいろいろ巡って楽しかったです。こんなに変わっていたのか、と驚いたところもありますが、総じてあまり変わっていないという印象のほうが大きかったです。












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新宿中村屋 [グルメ]

小田急新百合ヶ丘に会社寮があったときは、そのまま小田急に乗って、新宿まで出ることが多かった。通勤では、下北沢で井の頭線に乗り換えて、そのまま渋谷まででて、そこから山手線で品川、大崎、五反田である。でも休日は、やはり小田急でそのまま新宿に出ることが圧倒的だった。


新宿は、自分の遊びのスポットであった。

新宿にはじつに濃厚な想い出がある。

渋谷じゃないんだよね。あの頃は新宿だった。


以前お話したと思うのだけど、新宿のどこで遊ぶというかぶらぶら歩くか、というと2通りある。新宿西口と新宿東口である。


新宿西口はいぜん紹介したと思う。

高層ビルがそびえ立っているエリアである。


ここには、夜、よく彼女とのデートスポットであった。夜の高層ビルエリアは、都会的なセンス、雰囲気が漂っていて、じつに格好よかった。


で、ふだん土日の休日はどこで遊ぶかというと新宿東口のエリアだった。自分にとって、新宿と言ったら、もうそのまま新宿東口のエリアのことと言っていい。新宿というと、すぐにあの東口エリア界隈のことを思い出すほど、愛着がある。隅々までよく歩いていてよく知っていたな~。


大人になってから、新宿や渋谷には行かなくなった。新宿、渋谷は若者の街ですね。あの人混み、雑多な広告看板、あのごちゃっとした感覚。もう大人にはキツ過ぎる。


やはりいまは赤坂とか大人の高級な街のほうがいいです。


新宿東口は、あの紀伊国屋書店がある新宿通りがいちばん想い出が多い。新宿と言ったら、まずあの新宿通りのあの風景のことを思い出してしまう。そして新宿通りからさらに1本中に入ったりすると、またいろいろなエリアが広がっていて面白かった。歌舞伎町は含まない。歌舞伎町もよく歩いたけど、あそこはご存じのように猥雑な感じで、あまり好きではなかった。でも歩いてよく知っています。(笑)


そんな中で、紀伊国屋書店のある新宿通りにある”新宿中村屋”というカレー店に超ひさしぶりに行ってみたいと思った。新宿といえば、新宿中村屋というくらいカレーが有名なところで、ここはよく立ち寄って食べていた。あの店内の様子は、いまだに克明に頭の中に刻み込まれていて忘れられない。カレーと言ってもふつうのカレーではなく、カレーの元祖、インドのカレーを食べさせてくれるお店ということで有名であった。


自分にとって、新宿といえば、あの新宿中村屋でカレーを食べているシーンを絶対思い出してしまう。それだけ頻繁であった。


ひさしぶりにどうなっているかな~。新宿中村屋のインドカレーってどんなカレーだったっけ?どんな味だったっけ?


カレー大好き少年である自分は、急に食べたくなり、超久しぶりに新宿中村屋行ってみよう、ということになった。



新宿中村屋は、紀伊国屋書店の斜め向かい側にあったはず。


たしか、ここだったよな~。


ところが自分のイメージにあった新宿中村屋がない。そのかわり、新しいビルで、新宿中村屋というビルそのものが存在していた。


新宿中村屋本店から、新宿中村屋ビルへ。


あれ~~~。建て直したのか~。リニューアルしたのか~~。

そりゃそうだよな。あれからすごい年月が経つ。


ネットで調べてみると、老朽化を原因に旧新宿中村屋本店は閉業になっていた。2011年の頃だ。新宿中村屋本店は、ビル老朽化に伴い建て替え工事を行うため、2011年の10月19日の営業で休業に入る、とある。再開は2014年だ。ということは、自分は新宿中村屋にもう12年以上も行ってなかったんですね。(笑)ご無沙汰しておりました。


ネットで自分がお世話になっていた頃の新宿中村屋の写真を探してみた。


ありました!!!そうです。ここです!まさしくこの建物です。

懐かしいな~。店内の様子もよく覚えていますよ。


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2011年の閉店の最後のときは、ファンが集まって大変な賑わいだったそう。


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そして、自分が今回行ったときに、あらたにお目見えしていた新しい新宿中村屋は、こんな感じでした。もうビルそのものが新宿中村屋ビルでした。


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最新鋭のカッコいいビルで、各フロアにいろいろな新宿中村屋のいろいろモールが存在している感じですね。


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ここで長年に渡って、新宿中村屋に対して大きな誤解をしていたこと気づく。というか、新宿中村屋に対してきちんとした知識、理解がなかった。単にインドカリーのお店としか認識がなかったのだけれど、ビジネスの本流はそこではなかった。今回日記を書くにつれて、新宿中村屋について調べてみたところ、ようやく真の姿を理解できた。長年に渡って誤解をしていたようだ。すみません。



1901(明治34)年にパン店として本郷に創業した新宿中村屋。1909(明治42)年に現在の新宿に移転し、クリームパンの考案や、中華まんじゅう、月餅、水ようかんの缶詰など、独創的な商品を世に送り出してきた。中でも、日本に亡命し同店がかくまったインドの独立運動家が、1927年(昭和2)年に作った「純印度式カリー」は多くの文化人・著名人にも愛され、現在も同店の看板メニューとして人気を博す。



新宿中村屋は、明治34年創業の老舗食品メーカー。現在は全国の駅ビルや百貨店などの直営店で、お菓子などを中心に販売している。


NHKの朝ドラ「なつぞら」に登場した川村屋は、新宿中村屋がモデルなのではないかと話題になったのを覚えている方もいるのでは?また2020年6月には、アド街ック天国の「東京でカレーのおいしい街ランキング」内で新宿は第2位となり、その中で新宿中村屋が取り上げられた。


●新宿中村屋の歴史


新宿中村屋のはじまりは、東大の正門前で営業していた「中村屋パン」というパン屋さんであった。創業者は相馬愛蔵・黒光夫妻。菓子パンの定番「クリームパン」は、新宿中村屋の創業者夫妻が、シュークリームをヒントに編み出したものなのだそう。


クリームパンの生みの親だったとは驚きですね。


独創的なパンを次々考案する中村屋パンの売り上げは好調であった。しかし当時売上高を少なく申告することは商売人の常識だったなか、正直な2人は売上高をごまかすことなく伝えていたため、莫大な税金に苦しめられることに。


そこでさらなる売り上げアップを目指し支店を出すことにした。白羽の矢が立ったのが、現在の新宿あたりだったといいます。その当時新宿付近はみすぼらしい街でしたが、愛蔵は将来性があると感じたのだそう。現在の新宿の様子を見ると、その目論見は当たっていたことになりますね。


新宿中村屋が新宿に支店をオープンさせたのが明治40年。かなりの売り上げを達成し、新宿支店は現在の新宿中村屋の場所へと移転しました。この移転がきっかけで、新宿中村屋は和菓子の販売に乗り出すことになったのです。


お客様に選ばれる和菓子を作るため、手始めに上質なもち米を使用した賃餅をリーズナブルな価格で販売。これによりもともとの中村屋のお客様に「中村屋の和菓子は上質だ」と印象付けることに成功し、和菓子の販売はうまくいきました。


新宿中村屋が洋菓子を手がけるようになったのは大正9年。次の年にはロシアパンの製造も手がけるようになりました。このころの日本は食文化が様変わりし、洋食屋洋菓子が広がりつつあったのです。


新宿中村屋は大正12年、さらに業績を伸ばし株式会社となりました。この頃から新宿も大きく様変わりし、百貨店や大型店が次々進出するように。客足はこういった大型店にとられ、小売業者は打撃を受けたと言います。


こうした状況を打破するため、純喫茶のオープン、営業時間の延長、腕のある技術者をやとうなど新宿中村屋は新たな策を次々打ち出しました。昭和2年には現在でも新宿中村屋を代表する商品「純印度式カリー」「月餅」「中華まん」を開発。こうした策が功を奏し、新宿中村屋はさらに売り上げを伸ばすことに成功したのです。


昭和23年、ビルを直して営業再開にこぎつけ、その後従業員たちの奮闘もあり、新宿中村屋は復活を遂げました。どんどん業績を伸ばす新宿中村屋は、徐々に全国に販路を広げていきました。


大阪で開かれた万国博覧会への出店を機に、新宿中村屋の知名度はさらに上昇。創業者夫妻をモチーフとしたテレビドラマや小説もできるほど注目度は大きかったそうです。


●純インド式カリー(純印度式カリー)誕生秘話


新宿中村屋が「純インド式カリー」を生み出したのは1927年のこと。新宿中村屋本店のキャッチフレーズ「恋と革命の味」が生まれたのもこれがきっかけだったと言います。純インド式カリーの販売が始まった6月21日は、恋と革命のインドカリーの日としているのだそう。遊び心があって素敵ですね。


現在ではどこでも食べられるインド式カリーですが、その当時まだ日本ではかなり珍しかったそうです。ではなぜ新宿中村屋で、純インド式カリーの販売に至ったのでしょうか?


それは創業者夫妻の娘がインドの独立運動家であるラス・ビハリ・ボース氏と結婚したことがきっかけだったのだそう。愛蔵氏も本物を提供することにこだわりました。しかしその当時、なかなか納得のいく食材が手に入らなかったといいます。そこで愛蔵氏は自社の養鶏場や牧場を作り、自分たちの手で納得のいく食材を揃えたのだそうです。こうした努力が実り、純インド式カリーは現在でも愛される新宿中村屋の代表メニューとなったのです。



当時日本に広まっていたのは小麦粉を使った欧風タイプのカレーです。ところが、ボースが作ったのは本場インドのカリー。お米はインディカ米を使用し、スパイスの強烈な香りが漂います。またお肉も日本人が見慣れない骨付きのゴロっとした大きな鶏肉。その異国の料理に日本人は初め戸惑いを隠せませんでした。そこで相馬夫妻はお米をインディカ米のようにソースが浸透し、なおかつジャポニカ米のようにモチモチ感がある白目米にします。しばらくするとお客さまが骨付き肉やスパイスの香りにも慣れ、次第に売り上げが伸びていくようになりました。当時、町の洋食屋のカレーが10銭から12銭程度でしたが、中村屋のカリーは80銭。それにも関わらず飛ぶように売れたそうです。


こうして、純印度式カリーは中村屋の名物料理になりました。そこにはボースの、相馬家との出会いと、祖国に対する愛情があったのです。



情報引用元


長く親しまれる老舗「新宿中村屋」の愛される秘密を大公開(スイーツビレッジ)



そうだったのか~~~。いまようやく知るその真実。新宿中村屋というのはもともとはお菓子屋さんだったんですね。クリームパンの発明、中華まんじゅう、月餅、水ようかんの缶詰・・・もともとはお菓子屋さんなのです。


新宿中村屋は、和菓子、洋菓子、菓子パン、中華まん、レトルト・缶詰のカレーなどを製造販売しているほか、いわゆるデパ地下やショッピングセンターなどで菓子店と(直営店15店)、レストラン(直営店10店)を営業している。また、関東で販売される中華まんのシェアトップを占めており、コンビニエンスストア向け業務用食品にも商品を持つ。2019年(平成31年)3月期の売上比率は、菓子事業76%、食品事業22.5%、賃貸事業1.5%である。


・・・との正式紹介文です。


新宿中村屋の原点ってここだったんですね。しかもお菓子類にしても日本では発明者、パイオニア的存在だったのです。しかも明治からとか、大正からとかハンパではないくらいのパイオニア的存在。


インド式カリーは、あくまでついでだったんですね。(笑)

でも純インド式カリー(純印度式カリー)は、サブビジネスであるにも関わらず、新宿中村屋の代表メニューにまでなってしまったのです。


自分の昔の記憶にある新宿中村屋本店の店内を思い出してみました。確かに店内は、レストランというよりは、喫茶店という趣で、ガラス張りで外の通りから中の喫茶コーナーが丸見えで、外を歩いているとあ~こんなところに素敵なカフェが!と思ってしまうのです。それだけ目立っていました。コーヒー、紅茶、ケーキなどの軽食もメニューに豊富だったです。というか、喫茶メニューのほうがメインメニューの扱いでした。そのメニューの中に、サブとして純インド式カリー(純印度式カリー)があったのです。


そういえばだんだん思い出してきました。自分は当時新宿中村屋をインドカリーを食べるだけではなく、単に新宿東口エリアを歩いていて疲れたから、ちょっとひと休み、というカフェ的な感じで利用していたのでした。間違いない。だからふつうにアイスコーヒーとケーキだけとかそういう場合も多かったです。物販コーナーの中に、ちょっと無理やりスペースをこしらえた喫茶店という感じで、自分はほんとうによく利用していたのです。


ショーウインドウでの物販コーナーもありました。それが新宿中村屋のお菓子類だったんですね。


ようやくほどけかかっていた記憶の糸がむずびあってきました。


でも人生の長年に渡って、純インド式カリー、インド式カリーの元祖を食べたいのなら、新宿中村屋・・・とずっと頭に中に刻まれていたのです。そういうイメージのほうが圧倒的でした。店内が単なる喫茶店の装いというのは、この日記を書くときに、頭の中にだんだんと蘇ってきました。



大正末、百貨店の新宿進出に中村屋は少なからず脅威を感じていました。また、お客さまから「買い物の時一休みできる場所を設けてほしい」とのご要望を以前からいただいていました。そこで創業者相馬愛蔵は喫茶の開設を検討。しかし喫茶のようなていねいなお客扱いは容易にはできないだろうと尻込みしてしまいます。ボースは祖国インドの味を伝えるため、「喫茶部を作るならインドカリーをメニューに加えよう」と提案しました。そして1927(昭和2)年6月12日、喫茶部(レストラン)を開設。同時に、純印度式カリーが発売されました。


・・・とのことですから、自分の利用理由とまったく同じですね。新宿東口エリアのあの新宿通りで、買い物ついでにひと休みしたいとかならず思うので、そういうときに、あそこの新宿中村屋本店の喫茶店はすごくいい場所にあって、ものすごく目立つので、ついついスルスルと入ってしまうものなのです。





新しく新宿中村屋ビルというビルそのものが新宿中村屋になって現在。B1FとB2Fに自分が目指すお店がありました。


B1Fには、ボンナというスイーツ&デリカ専門のショップがありました。

ちょっと覗いてみることに。


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自分はこの日の取材当時は、新宿中村屋はインドカリーのお店という徹底的な思い込みがあったので、なんでスイーツなんて手広くビジネスを拡げているのだろう、と不思議でした。儲かっているんだな、というレベルで。


インドカリーのレトルトはもちろんスパイス系や調味料、そしてスイーツ、なんとワインも揃えている感じで、女性に人気が出そうなスポットだなと思いました。なかなか素敵でしょう?


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そして自分の本命。純インド式カリー(純印度式カリー)を食べるために、今度はB2Fのマンナというレストラン&カフェに入ります。


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ここはレストラン&カフェという広い括りなので、純インド式カリーだけじゃないです。いろいろな料理が食べれると思います。ちょっとこの日は他のメニューは確認しませんでしたけど。。。麻婆豆腐やボルシチ、中華料理など、国際色豊かな名物メニューがたくさんあるようです。


自分が在りし日の新宿中村屋本店のことを思い出すと、お菓子ショップのところに無理やりスペースをこじ開けて、喫茶店を無理やり作って、そこで、喫茶メニューのほかに、サブとして純インド式カリーを提供していた時代を思い起こしますと、いま現在はこんなゴージャスな店内。ものすごい進化としか言いようがないです。


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自分はもちろん迷うことなく、純インド式カリー(純印度式カリー)をオーダーします。


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ご飯を白目米にしました。幻の米”白目米”です。


白目米は江戸時代、美食家や一流料亭、徳川家などが好んで食していた最高級米です。昭和13年頃までにインドカリーに用いておりましたが、作付け量の少ない白目米は栽培されなくなり、幻の米となったのです。中村屋では平成8年にインドカリー誕生70周年を記念し幻の米となっていた白目米を、総料理長の二宮が2年間かけ、半世紀ぶりに復活させ、農林水産大賞も受容しました。幻の米”白目米”の特徴としては、小粒でべとつかず、カリーソースをかけると平均して浸透し、一粒一粒によく絡まり、インドカリーの味を引き立てるお米だそうです。


新宿中村屋では、期間限定で白目米をサービスしていましたので、そりゃ大変!いまのうちに味わったみなければ!と思い、白目米にしました。


純インド式カリー(純印度式カリー)。もう何年ぶり?ざっと軽くみても10年以上ぶり?


やっぱり元祖のインドカリー。よこすか海軍カレーもそうだったけど、初めて日本に来日したカレーの味と言うのは、得てして現代人好みのコクのある濃いカレーか、というとそうでもないんですよね。元祖のカレーというのは意外にさっぱりしていて、かなり淡白な味で、いかにも昔のカレーという感じです。


ぜんぜん辛くない。まったく辛くない。なんかでんぷん多めのいかにもカレーを一般人が食し始めたときに出回ったカレーらしい素朴であっさりしたカレーでございました。これはやはり昔のカレーだよな~という感じがしました。


甘みがあるかな。超高級米の白目米と合わせると、これはこれは、大層高級な上品なカレーでございました。非常に淡白ではありますが。骨付きの鶏肉が美味しいですね。現代普及しているカレーとはまったく別次元のひと味もふた味も違う純印度式カリー。現代のカレーとは同じ土俵上、ものさしでは語れない独特の美味しさがありました。非常に美味しいカレーだと思います。まさに日本で最初にインドのカレーを紹介した新宿中村屋のカレーはぜひ食べておかないといけないカレーだと思います。




10年以上前、いやそれより遥かに若かった社会人スタートの青春時代に、新宿の街を遊びのエリアとして活動していた時代。新宿通りを歩いているときに、ちょっとひと休みしたいと思うときに、とても目立つ休憩場所だった新宿中村屋の喫茶コーナー。そこで何回も食べた純印度式カリー。こんな味だったかな~とちょっと思い出せない感じではありました。でもこういう味だったんでしょう。メニューに登場して以来味は変わってないと思います。



素人の自分の味覚がいかにあてにならないか(笑)、は以下の「新宿中村屋」料理長の石崎厳さんの純印度式カリーの秘訣のコメントであきらかである。いかに純印度式カリーが手の込んだ高級料理のカリーなのかが分かる、というものだ。


それを紹介して終わりとしよう。


――カリーの素材は、それぞれどんなこだわりがありますか


石崎:「まずはタマネギ。兵庫県淡路島・丹後地方で栽培された肉厚な大玉のタマネギを、1人前1個(約300g)ほど使用し、バターでアメ色になるまで炒めます。次に加えるのは、骨付きの鶏。お客様から『どこの部位を使っているの?』と聞かれることも多いのですが、もも肉もむね肉も、1羽丸ごと使っています。誕生当時から鶏肉の質にはとくにこだわり、一時期は自社で養鶏場も持っていたほど。現在は、飼料や飼育日数、環境などまで指定した契約農家から仕入れています。それから、小麦粉を使わずにとろみを出すために重要なのが、自家製のヨーグルトとゼラチン質が豊富な鶏からとったブイヨン。カリーに自然なとろみとコクを与えてくれます」



――スパイスにも、おいしさの秘密がありそうです。


石崎:「使用するスパイスは計20数種類で、2回に分けて加えます。1回目は、肉を炒めるとき。挽き方や配合の異なる2種類のカリー粉をブレンドして加えるのですが、このうち1種類は、発売当時からボース氏より受け継いできたカリー粉を使っています。2回目は、煮込み終わった後に、液体状の“煎じマサラ”を加えます。煎じマサラは、当時ボース氏が黒っぽい液体を加えていた、という見聞をもとに、のちのシェフが考案したもの。6~7種類のスパイスを1時間ほどかけて抽出しています。これを仕上げに加えることで、スパイスの香りがさらに引き立ちます」


石崎:「『新宿中村屋』では、カリーを長時間煮込んだり、一晩寝かせたりすることはしません。煮込みすぎると鶏肉がかたくなってしまいますし、スパイスの香りも飛んでしまうので、完成したカリーはその日のうちに提供します。お客様に一番いい状態で召し上がっていただくために、一度に作るのではなく、毎日100~150人分を数回に分けて仕込んでいます。それから、提供温度もしっかりと管理しています。ソースポットとお皿は事前に温めておき、カリーとライスも温度管理してお出しします」



――豊富な薬味がつくのも特徴的ですね。


石崎:「発売当時の写真を見ると、薬味はそこまでついていませんが、戦前からチャツネは添えられていたようです。現在は、キュウリの酢漬け「アグレッツィ」と、らっきょうとオニオンチャツネ、マンゴーチャツネ、レモンチャツネ、粉チーズを添えています。薬味の使い方は人それぞれで、お皿の縁に全種類並べて少しずつかける人もいますし、最初から全部のせて混ぜて食べる人もいます。段階的にいろいろな味が楽しめるのも、お客様に喜ばれています」




――伝統の味を守り抜くには、どんな苦労がありましたか?


石崎:「カリーのスパイスは、最初はインドから取り寄せていたようですが、戦中、戦後は手に入らない時代もあったようです。その時には、ボース氏とともに日本でインド独立運動をしていた友人が、『新宿中村屋』のためにカレー粉をブレンドして持ってきてくれたそうです」



石崎:「また、長い歴史のなかでは、手に入らなくなってしまった素材もあり、時代に応じてどう素材を選び、味を伝えていくかが大切だと感じています。『新宿中村屋』の味は、支えてくれる農家さんや業者さんがあってこそ守られているもの。たとえば付け合わせの「アグレッツィ」に使っている小さなキュウリは、たった1日収穫が遅れただけで大きくなってしまうため朝晩2回収穫する必要があり、作ってくれる農家さんが減少しています。また、創業当初インディカ米に代わって採用した「白目米」も、収量が少ないため戦後は幻の米として手に入らなくなってしまいました。インドカリー発売70周年の際に、もう一度お客様に食べていただきたいと栽培をスタートし、1998(平成10)年からは限定的にですがお客様にご提供できるようになりました」








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米大統領のおもてなし [政治]

日本の最大の同盟国、米国。その米大統領を日本に迎え入れるということは、まさに最大のおもてなし、迎賓として迎え入れるということを意味する。
                                                  
米大統領が来日した際には、日本側は宮中や首相公邸、東京・元赤坂の迎賓館などで公式の夕食会を開くのが慣例である。さらに非公式な会食などでもてなし、首脳同士の「親密さ」を演出するケースが多い。
                                                   
この後者の部分である。メディア向けの話題になるのは。この非公式でのもてなしで、場所を選び、そこで首脳同士の親密さ、パフォーマンスを演じる。これはとても大切なことである。
                                                 
高級すし店、居酒屋、別荘・・・
                                                  
どこを選ぶかで、その場所がそのときの話題の人気スポットになることが多い。
                                                
このある意味癒しともいえるこのもてなしで首脳同士はどんな話をするのか。もちろんざっくばらんな何気ない話もあるだろうが、その場で懸案を巡って首脳会談並みのやり取りが交わされることもあるに違いない。
                                                 
自分は、昔から日米首脳会談のときのこの非公式のもてなしで選ばれたスポットが気になって好きである。やはり日本として最高の品格、迎賓の意図を取り入れた場所。我々一般人ではなかなか想像もつかない、素敵なところである。いつも日米首脳会談があるたびに、こんなお店、こんな場所があるんだ、と驚かされる。
                                                  
この選択はだれがやっているのか、誰の選択眼なのかはいつも気になるところだけれど、もちろん日本を代表する場所を選ぶのだから、最高機関、最高審議を経ての決断なのだろう。
                                                  
そんな米大統領の非公式のおもてなしの歴史について、ちょっと調べてみた。
                                                   
●1983年の中曽根首相とレーガン大統領、いわゆるロン・ヤス会談。
                                                   
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自分のことを、ロンと呼べ、自分のことをヤスと言え。
                                                                                                                                           
お互いをファーストネームで呼び合う、このパフォーマンスは当時とても話題になりました。日の出山荘で2人ともちゃんちゃんこを着て、同盟関係、親密さを演出する。
                                                 
日米首脳が非公式の場で親密さをアピールするという演出が始まったのは、この中曽根首相とレーガン大統領のロン・ヤス会談がきっかけだったように思う。
                                                 
中曽根さんの登場は、それは衝撃的だった。いままで日本の首相というのは、見栄えが冴えない、なんかいつもゴモゴモ口ごもるように活舌が悪く、なにを言っているのかわからない。国際舞台には縁遠い人が多かった。
                                                  
でも中曽根さんは身長が高く見栄えもよく、海外でのスピーチでは英語を話し、国際会議ではいつもレーガン大統領の隣を陣取る図々しさなど、かなり国際的でいままでの日本にはいなかった首相像だった。
                                                  
後の小泉首相などもそうであるが、いわゆるメディア、大衆を意識し躍動させ、ドラマ型、劇場型のポピュリズムの政治家だった。こういう政治手法は、中曽根さんが元祖だったように思う。
                                                 
1982~1987年のちょうど自分が思春期の大学生の頃だからよく覚えている。
                                                  
得意の外交だけでなく、当時の国鉄をいまのJRに民営化した大改革も中曽根さんの業績でした。
                                                  
風見鶏のニックネームや不沈空母発言など問題も多々ありましたが、当時は最大派閥の田中角栄派によって支えられていましたね。田中曽根内閣とか言われていました。
                                                  
よくこんなに精彩に覚えていますね。(笑)
自分のもっとも脳の活発だった大学時代なので、記憶が鮮明ではっきり覚えています。
                                                  
日米首脳会談の非公式のおもてなし、「親密さ」の演出はこのときが最初なのではないかと思う。もちろんそれ以前にも多々あるかもしれないけれど、ニュースになって話題になったのはこれが最初のように思う。自分の世代では、ですが。
                                                  
                                                  
●2002年の小泉首相とブッシュ大統領、西麻布権八
                                                  
そしてわれらが小泉純一郎首相だ。小泉さんの活躍はもういまさら説明は不要だろう。日本国中大ブームで、結局就任から、退任まで大きな失政もなく、そのフィーバー大人気ぶりを続けながら、無事に任期を全うした数少ない大成功型の首相でした。
                                                  
時代がよかったということもありましたね。ポピュリズム・スタイルの政治手法は、かなり劇場型で国民を陶酔させたところも多かったと思います。郵政の民営化など業績も多いです。
                                                
小泉さんが首相になった2001年というのは、ちょうど自分が前職時代に、大病を患って、北海道の実家で療養していた時期だったんですよね。ちょうど糖尿病の検査入院で1週間入院しているときでした。
                                                  
ベッドのテレビで、森首相がえひめ丸沈没のときにゴルフに行っていたニュースを朝日新聞がすっぱ抜き、退任濃厚のときに、その後任ということで、当時の森派だった小泉さんに白羽の矢が立ったということだったと思います。群がるインタビューアーに、「総理?冗談、アイム・ソーリー(総理)だ。」と答えていた小泉さんをよく覚えています。(このジョークはじつは亡き小渕恵三首相のギャグだったのです。(笑))
                                                   
だから小泉首相時代というのは、自分が大病で3年間休職していた時期とその後、復職したその期間の想い出なんですね。結局、その3年間の休職の影響が大きく、前職を退職することになったのですが、そんな自分の人生的には暗い影を落としていた時期の首相でした。
                                                  
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ブッシュ米大統領が小泉純一郎首相と東京・西麻布の居酒屋「権八」で夕食をとった。「グローバルダイニング」の傘下にあり、料理と値段のコストパフォーマンスが良く、サービスは行き届き、雰囲気も洒落ている。「あの系列のところなら両首脳の夕食の場として面白いだろう」と思わせる場所である。 グローバルダイニングは、アジア、メキシコ、イタリア料理とさまざまな業態の外食産業を、日本ばかりか米国でも展開している。
                                                  
                                                  
このお店を提案したのが、福田貴代子さん、第91代内閣総理大臣福田康夫夫人である。
また、小泉純一郎元首相が独身であったので、ファーストレディの代役も務めたのだった。
                                                 
あぐらをかかなくてもいいようにテーブルと椅子が入れられている。儀礼からすれば、両首脳が向き合って座り、その両側に残る人を配するのがふつう。でも実際には小泉首相とブッシュ大統領夫妻の三人が横並びに座り、他の人が首脳らと向かい合った。このような写真写りが考慮された結果らしい。
                                                 
                                                 
これはニュースで報道されていたのをすごく鮮明に覚えていて、あれから13年後の2015年に自分でも実際この西麻布権八に行ってみたんですよね。北海道の友人を東京でおもてなし、するという名目で。
                                                
ここからは、自分がじかに北海道の友人と行ったときの西麻布権八のお店の写真です。
自分のカメラで撮った写真です。
                                                  
交差点脇にあったような記憶があって、もうかなりお洒落な雰囲気でした。
もう門構えからすごいお洒落でびっくりしました。
                                                  
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店内はこんな感じです。
                                                
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グローバルダイニングで料理と値段のコストパフォーマンスがいいとのことでしたが、いやいや料理はかなりお高かったです。がっつり食べるというより、見て楽しむ創作系のような感じですね。
                                                  
1人でも全然大丈夫なお店です。
また近いうちぜひ行ってみたいです。
                                                  
小泉首相といえば、もうひとつ自分は忘れられないことがあって、自分もそうですが、小泉さんも大の音楽好き。
                                                  
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2006年に米国を訪問した際に、小泉さんはエルビス・プレスリーの大ファンなので、ブッシュ大統領といっしょに、エルビス・プレスリー邸を訪問されたこと。そしてカメラの前でプレスリーのサングラスをかけて、プレスリーのダンスを披露したこの図。後ろにいる左から、元妻のプリシラ・プレスリーさん、娘のリサ・マリーさん。
                                                  
これはよく覚えているなぁ。プレスリーの墓参りもされていたのではないでしょうか。ショーマンシップの小泉さんらしいです。
                                                  
いま首脳会談、首脳同士でこのようなことって、コロナ禍もあって世間の雰囲気が許しませんよね。当時は、イラクやアフガニスタンでの対テロ戦争が主題の時代でしたが、ある意味いい時代だったな~と思います。
                                                  
小泉さんは無類の音楽好きなので、こういう外遊の合間をぬって、ゆかりの地を結構訪問しているんですよね。バイロイト祝祭劇場でバイロイト音楽祭も日本首相として観劇されているし、フィンランドのシベリウス所縁の地にも足を延ばされているのではないでしょうか。
                                                  
                                                  
役得とはいえ羨ましいです。
                                                 
                                                 
●2014年 安倍首相とオバマ大統領 すきやばし次郎
                                                  
安倍首相もいまさらなにをやいわんやですね。(笑)とにかく自分は芸術系、作家系の方のSNS投稿を拝見することが多かったですので、就任期間の7年半は、アンチ安倍の勢いは凄かったです。安倍氏本来のタカ派的体質による政策といろいろな問題も多く起こり、左派リベラルを中心に日本国民を大半敵に回しているという感覚が多かったです。自分の周りでは、の話ですが。
                                                  
でもいざ選挙をすると、もう本当に圧倒的に強い。もう毎回自民党の圧勝なんですね。
国政選挙5連勝とか。とにかく選挙に滅法強かった。
                                                  
これだけマスコミとか、いろいろなところの逆風を一身に浴びながら、なぜこんなに選挙に強いんだろう?安倍一強時代。自分はリアルタイムで第2次、第3次安倍政権を体験してきましたが、そんな印象でした。
                                                  
安倍批判はそれこそ日常茶飯事でしたが、それに負けないくらい安倍支持、保守派の勢いも凄かったように思います。批判されればされるほど、それが逆に反動になって尚更、安倍さんを支持する、保守派の剣幕が凄かったような感じがします。野党なんてだらしなく政権運営なんてできっこない。いわゆる反動現象でしょうか。実際、失業率改善の問題や景気の問題もあって、若者は圧倒的に現実的に自民党を支持する。そんな世相だったような感じがします。
                                                  
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東京・銀座の高級寿司店「すきやばし次郎」。2014年4月に来日したアメリカのオバマ大統領が、安倍晋三首相と非公式な夕食の会場に選んだことで話題になった。直後に「オバマ大統領は寿司を半分残した」という報道も出たが、同店で寿司を握って55年の小野二郎さんと、同店で働く長男の小野禎一さんは「オバマ大統領は、出されたものはすべて召し上がった」と話した。
                                                  
                                                  
禎一さんによると、首相官邸から予約の申し込みがあったのは会談の1週間前。通常、2カ月前に予約が埋まるため、「最初は予約が一杯だったのでお断りした」が、「閉店後でもいいから」という依頼に、昼夜のお客さんをこなした閉店後、店を貸し切りにして引き受けた。
                                                  
来店したオバマ大統領と安倍首相は、着席するなり「最初から事務的な難しい話に入られたので、どうしていいかわからなかった」が、「普通に出してくれ」と言われた二郎さんが、通常の客にも出す20貫3万円(税抜き)の「おまかせコース」を握った。
                                                  
                                                 
オバマ大統領は「左利きで、箸も非常に上手に使っておられた。『寿司がとても好きだ』とおっしゃっていた」。コースの寿司を順番に食べ、中トロを食べたとき「とても気に入ったようで、ウインクして頂いた」という。
                                                  
禎一さんは「(おまかせコース20貫を)一通りお出しして、大統領はお出ししたものは全部召し上がりました。日米交渉の話があったので、味わって食べて頂いたかは分かりませんが、『今まで食べたお寿司の中で最高だ』とおっしゃって頂いた」。この「最高だ」の台詞を3回言ったという。
                                                  
「寿司を残した」とする報道については「官邸やホワイトハウスからコメントするなと言われていたので黙っていました。お出ししたものは全部召し上がって頂いて、喜んで頂いたので、ありがたく思っています」と話した。
                                                  
外国特派員協会の講演に同席した料理評論家の山本益博さんは「来日した国賓への食事は、皇居の豊明殿か迎賓館でフランス料理と決まっているが、オバマ大統領が左手で寿司をつまんだ瞬間、寿司はフランス料理のような世界のグローバルスタンダードになった」と評した。
                                                  
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「すきやばし次郎」は2007年以来、ミシュランに掲載され続けており、2011年にはドキュメンタリー映画「二郎は鮨の夢を見る」でも有名になった。
                                                  
しかし、一般客からの予約を受け付けなくなったことで、2020年版のミシュランから外されることになった。
                                                 
現在、すきやばし次郎で食事をするには、常連客になるか、特別なつながりを持つか、一流ホテルを通じての予約しか方法がないという。
                                                  
同店は小野二郎氏と、息子の禎一氏が経営している。店には10席しかなく、おまかせコースは4万円からだ。
                                                  
2014年にオバマ前大統領と安倍晋三首相が食事をしたことで注目された。この時オバマ氏は、今まで食べた中で一番おいしいすしだと話したという。
                                                 
                                                  
この安倍・オバマ対談のすきやばし次郎も自分は鮮明に覚えています。かなりインパクト強かったです。この2014年当時というのは、自分は銀座久兵衛のお寿司を体験することに嵌っていて、すごく久兵衛に通っていたのでした。そのとき同じ高級鮨としてすきやばし次郎の存在をこの日米首脳の非公式のおもてなしで知って、ぜひ体験したいと思ったのでした。
                                                  
でもとにかく予約がほとんど不可能、そして運よく予約できたとしても、お任せコースでも3万~4万。そこまでして食べる寿司なのか?銀座久兵衛のお寿司もそうですが、仕込みに時間のかかる芸術品のお寿司は一般人にとって意外や食べ応えがなく、こんなもんと思ってしまうのでした。これだったら、梅が丘の美登利寿司のスタミナ体育会系のほうが全然美味しいよな、という感じです。(貧乏庶民の自分ですから・・・)
                                                 
でも、自分はすきやばし次郎に行ったことがあるのです。
それは銀座本店ではなく、日本橋に支店があるのです。
                                                   
高島屋のデパート4Fにひっそり佇んでいるのです。
                                                
これは自分の体験談の写真、自分のカメラによる写真です。
                                                  
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こんなところに、まさかすきやばし次郎があるなんて、思ってもいなかったです。高島屋4Fのそれも飲食とは全然関係のない衣料品売り場のフロアの一番端にあるのです。こんなところにあの有名なすきやばし次郎があるなんて、誰も思わないだろうな、と思いました。平日ということもあってか、お客さんは1人もいなかったです。
                                                
                                                
いまではいい想い出です。
                                                   
                                                  
●2019年 安倍首相・トランプ大統領 炉端焼き「田舎家」
                                                 
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令和初の国賓として招かれたトランプ大統領に、安倍首相はさまざまなおもてなしを用意しました。話題となった大相撲観戦の後、安倍首相との大切なディナーで用意されたメニューは意外なことに、庶民的なイメージある炉端焼き屋。
                                                  
非公式の夕食会ということで、安倍首相夫妻がトランプ大統領夫妻と親睦を深める場として選ばれたのが、炉端焼きのお店というわけである。
                                                  
今回トランプ大統領を接待するために用意された夕食会の場所は、港区六本木にお店を構える「田舎家」でした。
                                                  
田舎家は六本木の3丁目と4丁目にそれぞれ東店・西店がありますが、報道の画像などから、今回トランプ大統領夫妻が食事をしたのは東店のほうであることがわかります。
                                                  
田舎家は創業昭和45年ですから、50年ほどの歴史がある老舗の炉端焼き店です。
                                                   
トランプ大統領以外にも、ニコラス・ケイジやトム・クルーズといったハリウッドスターが食事をしたお店として知られている、いわゆる「海外セレブ・ハリウッドスター御用達」高級料理店なのだそうです。
                                                 
六本木の「田舎家」は、食べログなど一般のグルメサイトでも紹介されており、公式ホームページも用意されています。会員制・紹介制などではありませんから、有名人ではない一般のお客さんでも食事をすることができます。
                                                 
ただ、やはり有名人が多く訪れる名のあるお店ということで、予約も多く入っているようです。飛び込みで行くのではなく、事前に予約をしていくのが無難でしょう。
                                                  
「田舎家」についてリサーチすると、高級店だけあって普通に食事やお酒を楽しんでも、1人あたり15,000円~20,000円ほどの予算が必要となってくるようです。
                                                
これも昨日のようによく覚えています。
ただ、ぜひ行きたいかというと、う~むという感じでしょうか・・・。
                                                
                                                
●2022年 岸田首相・バイデン大統領 八芳園
                                                 
就任以来、無難に困難をスルリとすり抜ける感じの岸田首相。なんか不思議な感覚の首相ですね。いままでに存在しなかったような。朝令暮改とも言われかねない批判あればすぐに方針転換など、いわゆるスルリ、スルリとかわしていくのがうまくて、あまり責められにくい、というか非難しにくいというか。。
                                                  
ご本人のクリーンで誠実な印象もあるのでしょうが、あまり責められないタイプの感じですね。口の悪い政治記者は、”豆腐野郎”というニックネームをつけているみたいですが、つかみどころがない本当にクッションのようにうまく反撃をスルリ、スルリ、とかわしていき、あまり国民の怒りを買うことがない。いま高支持率のようです。でもまだ本格的な問題は起こってないですからね。これからぜひ頑張ってほしいです。
                                                
                                                
そんな岸田首相が、バイデン大統領を日本に迎え入れてのおもてなし。
ほんのつい最近の話です。バイデン大統領はひと通りの接待を受けて、いま無事に米国に帰国されたのではないでしょうか。
                                                
いままで紹介してきた米大統領をおもてなし、するときに選ばれてきた人気スポット。
こういう歴史がある中、今回選ばれたのは、”八芳園”でした。
                                                   
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八芳園は、東京都港区白金台に所在する、1万2000坪の敷地内に庭園のあるレストラン・結婚式場である。明治学院大学、シェラトン都ホテル東京と近接している。庭園の名称は「四方八方どこを見ても美しい」に由来する。
                                                
ここは素晴らしいです。ネットで写真を拝見するともう圧倒されます。もうびっくりしてしまいました。日本庭園が素晴らしく、その日本の和を感じさせる美しい景観とともに、レストランなどの食を楽しめるというコンセプトのようです。
                                                
おそらくいままでのおもてなしで選ばれたスポットの中でもっとも格式の高い場所のような気がします。もちろん、おもてなしですから、高級であればいいというものではなく、いろいろな趣向のもとで探られますね。
                                                 
素敵だと思うのは、結婚式場としても利用できるところですね。このようなところで結婚式が挙げられると本当に幸せですね。
                                                 
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岸田文雄首相は23日、来日中のバイデン米大統領を東京都港区の「八芳園」に招き、非公式の夕食会を開催した。くつろいだ雰囲気の中で日本食を振る舞い、経済や安全保障などの懸案について話し合ったとみられる。
                                                    
八芳園は、広大な日本庭園や茶室を有する。バイデン氏は午後7時過ぎに八芳園に到着し、首相と、あさぎ色の着物を着た妻の裕子氏が出迎えた。夕食前に裕子氏がお茶をたててもてなした。夕食会は八芳園内の料亭「壺中庵」で約1時間行われた。
                                                  
これに先立ち、23日昼のワーキングランチでは、首相の地元・広島の神石牛のヒレ肉のグリルや広島産野菜などが振る舞われた。
                                              
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いやぁ・・・素敵ですね~。みごとなおもてなし、でございました。いままでのおもてなしの歴史と違って、日本を代表する格式の高いところで、岸田首相の実直な感じが伝わる控えめなおもてなしでしたね。
                                               
やはり時代なんですね。いまのコロナ禍の厳しい世相にあった、控えめな感じを演出したのだと思いました。
                                                 
自分はSNSの世界に政治の話はしないがモットーです。別にそれを否定している訳ではありませんが、自分のイメージに合わないと思うからです。もちろん人それぞれです。そこは個人で自由な所だと思います。
                                                   
趣味の世界で楽しく友達とワイワイやっているところに政治の話をすると、それだけで対立、せっかくの人間関係がおじゃんに壊れてしまうこともあると思っています。
                                                                                                                    
だから慎重です。
                                              
自分の政治に対する考えは選挙で実行します。
                                               
べつに保守派、リベラルとか自分は決まっていないと思います。
あえて言えば、無党派層かな、と思います。
                                             
自民保守系が正しいと思えば、自民に投票するし、長期政権で腐敗してきたら、お灸をすえるという意味で野党に投票します。その時代、そのときにふさわしい状況判断をして投票します。
                                                 
でも、やっぱり政権運営能力がある、言葉だけでない、きちんとものごとが動かせる政権がいいかな、と思います。
                                                  
仕事をする内閣が好きです。
                                           
でも政治家は本当に大変だな、といつも思っています。

                                                      

                                                 

                                               

                                                        

                                                 





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ポリス アンディ・サマーズ 来日コンサート [海外ロック]

ポリスのギタリスト、アンディ・サマーズが来年2024年4月に来日コンサートを行うことを考えているそうだ。


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米ミネソタのラジオ局The Current at 89.3 FMのインタビューの中で「次のライヴは日本で、来年4月に東京と京都で予定している。今ちょうどそのことを考えているところなんだ」と述べている。


日本公演のついての発言はこれだけで、詳細は今後発表されると思われる。



「マルチメディア・ショーと表現するのが妥当だと思う。ビジュアルとオーディオ、つまりエレキギターを演奏する生身の男と大きなスクリーンに映し出される写真群。それぞれに特別な音楽があり、それに合わせて僕が即興で演奏する。それはすべて入念に練られたものなんだ。ブラジルの音楽に合わせてソロギターを弾くものもある。バッキングトラックを使ったものもあれば、そうでないものもある。インド、日本、中国、インドネシア、アメリカなど、世界中で撮影した写真だよ。僕が演奏するポリスの曲もあるし、この公演のためにアレンジした曲もあるんだ。」


情報ソース:


ポリスのアンディ・サマーズ、2024年4月に来日公演を行う予定



これは楽しみだ。嬉しいニュース。

往年のポリスファンとしては、スティングだけじゃなく、アンディ・サマーズやスチュアート・コープランドの活躍も期待しているものだ。3人には、いつまでも元気で頑張ってほしいものなのだ。


自分の記憶では、アンディがソロで日本でコンサートやるのは初めてじゃないか?

これは胸ときめくできごとだ。


アンディ・サマーズは、それこそ45年以上前のポリス時代からカメラを大の趣味にしていることで有名で、それこそあの頃からいろいろな作品をリリースしている。腕前はプロ級だ。ポリスのワールドツアーで世界中を旅しているときにも、その国々でいろいろなショットを撮影している。そのライブラリーは世界に渡り、膨大で、自分の曖昧な記憶だけど、写真集か、本で出版しているんじゃなかったかな?


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いま、アンディ・サマーズは米国でライブ・ツアーをやっているんですかね?

インタビューでも言及しているように、ビジュアルとオーディオ、ギターを演奏する男と大きなスクリーンに映し出される写真群。そういうコンセプトのライブだ。アンディらしいと思う。


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今回の日本でライブやるぞ!発言は、その延長線上にある日本バージョンということではないだろうか・・・


スチュアート・コープランドも先だって日記でお知らせしたとおり、オーケストラをバックに自分がドラムスで叩き振りをするツアーのワールドツアー真っ最中だ。ポリスの曲をオーケストラでクラシックで演奏しよう、という試みだ。(笑)


日本にも来てほしいです。


写真とギター。アンディの人生そのものを命題にしたライブ。ポリス時代の曲もやるし、このライブのためにアレンジした曲もある。ブラジルのボサノバもやる。これは楽しみだ。


アンディ・サマーズが愛した1961年製のフェンダー・テレキャスター。

アンディの代名詞、顔と言っていい、このギター。まさにこういう塗装の禿げ方をしているのがアンディが使っていたギターである証拠だ。


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アンディは、ポリスのライブのときに、このギターをメインに使っていて、なぜこんなに年季の入ったギターを使っているのか現役時代疑問だったのだが、ちゃんと理由があった。それは日記で紹介したとおりだ。


このアンディが使っていた、まさにこういう塗装の禿げ方をしているテレキャスターであるが、これ、いま本人の手元にあるのか、よくわからないのだ。アンディ関係のSNSアカウントは全部フォローしているのだが、第三者の赤の他人が、この塗装の剥がれたテレキャスターの写真を投稿していたりして、あれれ~と思うのだ。


ひょっとして、アンディはすでにこれを売却していたりするのかな~と思ったりする。

来年の来日コンサートのステージでこのテレキャスターがお目見えするかどうか、楽しみだ。


自分の記憶、理解では、ここ数年、晩年のアンディはライブのステージでは、新しいギターを使っており、このテレキャスターはいっさい使っていない。


そういえばブルース・スプリングスティーンのギターもこのテレキャスターだ。


ポール・マッカートニーがビートルズ時代の現役時代に使っていたヘフナーのベースを探すプロジェクトをスタートさせたニュース。ベースのヘフナー社が音頭をとる。そのプロジェクト名は、「ザ・ロスト・ベース・プロジェクト」。


「ザ・ロスト・ベース・プロジェクト」は「歴史上最も重要なベース」だという、ポール・マッカートニーがドイツのハンブルクで1961年に30ポンドで購入した最初のベースに関する情報を求めるものである。


ポールは1961年に、ドイツ・ハンブルグでヘフナー社の「500/1 バイオリンベース」を30ポンド(現在のレートで約5500円)で購入。しかし、8年後のゲット・バック・セッションのときに所在が分からなくなった。



プロジェクトを主導するのはハフナー社のニック・ワス氏。2人のジャーナリストと共に、「ロックンロール史上最大のミステリー」に挑むとしている。


ワス氏はポールとの長年の協力関係で知られ、今回のベースについて本も書いている。

ワス氏はBBCの取材に対し、マッカートニー氏が最近、話を持ち掛けてきたのが、捜索プロジェクトのきっかけだと語った。


「ビートルズを作ったベース」


このベースに何があったのかは分からない。ワス氏は、恐らく1969年に「ゲット・バック」の撮影が終わった後にどこかに置き去りにされたのだろうと話した。


「どこにしまわれたのかも、誰がその場にいたのかもわからない」

「多くの人は思い出すだろう。(中略)あれはビートルズを作ったベースだった」


プロジェクトのチームは、捜索に商業的な動機はないと明確にしている。

スコット氏は、「ヘフナーは、誰かが純粋な善意で申し出るだろうと予想している。その人は恐らく、自分が何を持っているのかさえ分かっていないだろう」と話した。


懸賞金は18億とも言われている。


「ビートルズを作ったベース」


まさにその通りだ。ぜひ見つかることを祈る。

スマン。横道にそれてしまった。


アンディのテレキャスターは、その点、どこにあるのかは問題ないように思う。いまアンディは所有しているのか、そうでないのか。。。疑問なところだが、往年のファンとしてはテレキャスターを弾いているアンディの姿をぜひ観てみたいものだ。


アンディ・サマーズは当時のロックシーンのギタリストとしては、かなり異色なギタリストだった。ポリスに加入する前からいろいろなバンドを渡り歩いてきたベテランで、非常に技巧派でテクニックのあるギタリスト。ロックギタリストにありがちなワンパターンの奏法だけでなく、いろいろなバリエーション豊かな弾き方を心得ているギタリストだった。それこそクラシックギターに至るまで。なによりロックギタリストに見られる曲の間奏のときのこれ見よがしのギターソロをやらない人だった。(笑)現役時代、自分はこれが欲求不満でストレスだった。これは後年、彼の著書で告白しているように、当時のロックギタリストにありがちなワンパターンを嫌ったのと、スティングの意向もあったようだ。


音楽のジャンルを乗り越えたいろいろなギター奏法でバンドのメロディラインを紡いだ人で、この人の奏法で、ポリスのサウンドが他のロックバンドとちょっと違ったかなりユニークなサウンドになったといえると思う。


アンディのギターテクやギター演奏する姿は、もうそれこそ学生の時代から、社会人の初期に至るまでもうビデオで徹底的に見まくったので、もうクセからなにから手に取るようにわかるし、徹底的に脳裏に刻まれている。


それは晩年になったいまでもそんなに変わらないだろう。

そのギターを演奏する姿を観れば、あ~いかにもアンディのギターだ!と確信するに違いない。


おそらくいま米国でやっているビジュアル&オーディオのショーなのだろう。最近、SNSアカウントでそのライブのステージでギター演奏するアンディの近影の写真を拝見したが、太ったな~、腹出たな~(笑)てな感じだが、これは男性アーティストの場合仕方がないですね。男は高齢化するにしたがってビジュアル的に不利です。


でもその姿は、自分がかつて夢中になったアンディの面影がしっかり残っており、ファンとしてはうれしい限りだ。


アンディのソロコンサート、日本で拝見できることを楽しみにしている。


追伸:


これまたスティングがインタビューで語ったことだけど、「Synchronicity Box」という特別コンセプトアルバムが出るらしい。


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そういうコンセプトを考えているらしい。それこそ本番に至るまでのデモテープの公開や、リハーサル、そして未発表曲なども含まれるBOXみたいだ。これも楽しみだ。


もう45年以上昔のロックバンドで、年寄りの昔懐かしみ現象かもしれないけど、やはり人間って自分の学生時代、思春期時代のヒーローって必ずいるはずだ。その青春時代のヒーローは、自分が何歳になっても自分の中で永遠のヒーローで居続けるものなのだ。


これは人間、誰しもがそうなのだ。


時代がずれて経験するだけのことなのだと思っている。









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小説の表現力 [文学・小説]

村上春樹さんの新作長編小説「街とその不確かな壁」をようやく読了した。
                                                  
                                                  
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いつもは新作発売とともに、すぐに読んでしまうのに、今回は3月に発売だったので、読了するのに半年かかった。大変申し訳なかったです。やはり仕事が忙しかったのが1番の理由ですね。在宅勤務なので、終業後、なかなか頭の切り替えができず、ライセンス監査などですごい忙しい時期だったので、どうしても本を読む気力がわかなかった。
                                                                                               
自分にとって、読書をする、本を読む、というのはすごいエネルギーが必要なことですから。
                                                                                                   
読了してみて、相変わらずの村上春樹ワールド全開でさすが、と思いました。すごい面白かったし、もう驚いて呆気にとられてしまった。読み進めていくにつれて、どんどん惹き込まれていく感じで、文章のリズム感も音楽のようにテンポが良く、その物語を読み進めていくのを助長する役割があると思う。
                                                 
                                                                                                   
村上小説は恋愛小説とか、推理小説とか、とくにジャンル分けできない範疇だと思うが、基本はミステリアス推理小説のような趣で、摩訶不思議な世界、現世界と異次元の世界との融合、そういう世界がお好きというか、十八番のような気がする。
 
                                                                                                   
村上小説はある時期、全作品を網羅する、ということで全作品読んだことがあったが、その根底にあるのは、やはりそういう展開、テイストの小説が圧倒的だった。
   
                                                                                                 
こういう言い方をすると大変失礼と言うか、全然悪気がなくて逆にものすごく褒めているつもりなのだが、物語を作るうえでのストーリーの発想力、アイデアというのが、ちょっとふつうの人の発想ではないというか、かなり異常な精神の持ち主じゃないか、かなりダークでブラックユーモアが好きな方じゃないかな、村上春樹さんというのは。そういう方じゃないかな、と想像してしまう。
   
                                                                                                  
よくこんなストーリー展開を思いつくな、かなり異常な精神の持ち主だな、ふつうの善良ないい人では絶対書けない、そういうブラックユーモアの持ち主だな、かなりグロイというか・・・そんな驚きが毎回ある。
  
                                                                                                   
やっぱり村上小説が人気がある、世界中で読まれている1番の理由は、そのストーリーの面白さだと思う。純文学系の真面目なわけでもなく、読みやすい日常な世界を扱う題材だが、そのストーリーがミステリアス推理小説のように奇々怪々で、普通の人の思考回路では思いつかないようなかなり異常な世界で、ドキドキしながら読み進めていく、・・・そういうワクワクドキドキのテイストが人気の理由、中毒患者になってしまう理由なんじゃないかな、と思う。
  
                                                                                                                                                      
                                                                                                 
そして文章のリズム感も、平易な言葉、文章を使っていて非常に読みやすいのだが、物語の流れとともに、イケていて、お洒落だけど、かなり佳境を迎えたり、ドラマティックになっていくにつれて、その韻を踏むなどいろいろ工夫をされているな、と感じる。ご本人が言っている文章のリズム感はまさに感じるところだ。
  
                                                                                                     
ミステリアスな展開が小説の魅力なのだが、その文章の表現や配置の仕方とか、そしてその独特のリズムも、そういうのもかなり読者が驚くように、工夫されていて、あの独特の村上春樹ワールドを紡ぎ出すのは、この文体にも原因があるんじゃないかな、と思うところだ。
 
                                                                                                 
「街とその不確かな壁」
 
                                                                                                  
ご本人が若い頃に書いた作品で、どうしても生煮えで中途半端で世に出してしまった作品で、どうしても書き直したかった、という理由がある作品のようだ。自分は以前の作品はもちろん読んでいないが、今回の作品は、本当に面白かったし、もう物語の佳境を迎えるにつれて、どんどんのめり込んでいく凄さで圧倒された作品であった。
  
                                                                                               
ふだんあまりつけないあとがきで説明されていたことに、もうひとつ自分を刺激した記述があった。
 
                                                                                                 
「ホルヘ・ルイス・ボルヘスが言ったように、一人の作家が一生のうちに真摯に語ることができる物語は、基本的に数が限られている。我々はその限られた数のモチーフを、手を変え品を変え、様々な形に書き換えていくだけなのだ。」
    
                                                                                                 
これはなかなかグサッとくる内容で、自分の場合、いままで日記というスタイルでいろいろなジャンルの内容を語って来たけれど、そのベースにあったのは、自分の人生で学んできたこと、だった。もう10年以上語り続けてきた訳だが、自分の人生については、もうすでに全部吐き出した、というか、もう全部語ってきた、という気持ちがあり、もうこれ以上の抽斗(ひきだし)はないよ!という感じである。これからは新しく吸収していくものも含め、手を変え品を変え、やっていくことになるのであろう。
  
                                                                                                  
自分は、あとがきのこの部分はかなりドキッとしていい表現だな~と思いました。
                                                  
  
                                                                                                   
自分はふだん小説を読む、ということは、あまりなく、あっても村上春樹さんの発売された新刊の小説を読むくらいなのだが、もっといろいろな小説家の小説を読んでみたい、という気はすごくある。やはり老後の隠居してからかな、とは思うのだが。。
 
                                                                                                   
村上春樹さんの小説を読むときに、いつも思うことは、こういう文章を自分も書けるか?ということである。自分は全然素人領域で、物書きとは全然言えないのだけれど、少なくとも文章を書くという行為は、日常茶飯事でやっている訳で、そうすると、こういう小説を読むと、同じ文章を書く人間として、同じことができるか、ということをどうしても自分に問うというか、考えてしまうものなのだ。
  
                                                                                                 
自分の文章は、あくまで日記というか、自分のその日その日、そのテーマそのテーマによる自分の想いをつづったものだが、それと小説はやはり違う。自分に小説は書けるのか?村上小説を読んでいるときにいつも思うことは、自分もこういう風に書けるかな、とか、自分が普段書いている文章の類との違いをどうしても意識してしまうのだ。
    
                                                                                                  
やはり自分で文章を書くようになると、他人の書いている文章について読むとき、自分にもこういう文章を書けるか、ということは少なからず意識すると思う。
  
                                                                                                   
まず、小説を読んでいく上でいちばん自分との文章との違いを感じることは、背景描写の記述である。いわゆる主人公たちが存在するその場面場面の空間や背景の描写。小説ではこれをじつも細やかに文章という形で表現していく。自分の場合だと、写真を一発載せておけば、それで読者はそれを観て瞬時に理解できてしまうことも、小説では、絵や写真というのはご法度で文章だけで勝負していく世界なので、その空間、場面のその環境の描写をぜんぶ言葉、文章で表現していくことだ。
   
                                                                                                
ここが自分の文章と小説とのいちばんの違いを感じるところかな。小説は、ほんとうに主人公の動作や食べるもの、食べる行為、その部屋の特徴・・・もうありとあらゆるその場面描写を全部言葉で表現していく。
 
                                                                                                  
全部言葉で表現していく、ということは、読者にとっては、想像の世界が豊かになる、ということである。全部文章で場面描写をしているので、その場面がどんな感じなのかは、その読者の想像次第、頭の空想次第で十人十色だと思うのである。それがまた小説の醍醐味じゃないかな、と思うことだ。小説は読者が空想することに面白味、醍醐味があるのだ。写真でパッと載せてしまったら、それでアウトなのである。
                                                                                                   
そのとき思うのは、たとえば村上春樹さんの小説でいえば、主人公が朝起きて、台所で、かんたんな朝食をつくる描写、それを食べる描写、あるいは人と会ったときのその人の外観、印象、あるいはある見知らぬ土地に行ったときのその土地の外観、印象・・・もうありとあらゆる場面描写をぜんぶ言葉で綴ることだ。
  
                                                                                                 
これはふつうの一般人、素人には大変な重労働でまずやらない行為だと思う。
またふだん文章を書くうえでまず必要のない行為でもある。
小説を書くという作業だから発生する作業でもある。
 
                                                                                                
自分は小説を読むときにかならず遭遇するのがこの点である。
 
                                                                                               
自分たちの文章は、その肝、要点だけを書いている文章なのである。
背景描写を書く必要がない。
   
                                                                                               
小説は動画や静止画がご法度な世界、言葉だけで勝負していく世界。読者の想像力でいろいろな面白味を発する世界。そういう意味合いにおいても、こういう場面描写の記述を見ていると、うわぁあああ~これは自分の文章にはない世界だな~。小説だからこそ存在する世界だな~と感じてしまう。小説を読むたびに自分が思うことである。
    
                                                                                               
はたして、なにげないこの行為や場面描写、こんなに丁寧に言葉で表現していくことを自分ならできるか、と思ってしまう。面倒くさいな~と感じることもあるが、逆に文章だけで場面描写するのは、相手の想像を掻き立てるという意味合いからもかなりチャレンジングで書き手からすると、興奮する世界でもあるように思う。
   
                                                                                              
もうひとつは、小説としての物語の展開のさせ方だ。
どうやって物語のストーリーを進めていくか。
 
                                                                                                     
村上春樹さんの小説の場合、ある自分の基準というか常套手段があるように感じる。
それは村上作品を全部読破した自分だから分かりえることだと思うのだが、村上さんはかならずあるテクニックを使っている。あるテクニックを使ってストーリー展開をさせている。
 
                                                                                                        
これは村上小説の新刊が出るたびに、それを読み始めるときにいつも感じることなのだが、読み始めの時は、なかなかペースに乗らないというか、読むんだけどストーリー、小説が頭に入ってこない。どうしてものめり込めない。最初の部分はどうしてものめり込めないのだ。
   
                                                                                               
これは物語がまだ最初で登場人物の素性とか、いろいろ初めてのことが多く、頭に慣れないということもあると思うのだが、村上小説の場合は、もうひとつ大きな要因がある。
   
                                                                                                      
それは登場人物の会話を使うテクニックである。
  
                                                                                                    
村上春樹さんの小説の優れたところに、この登場人物の会話をうまく使うというテクニックがあるように思う。会話ってカギ括弧で括られた生の人間が発する言葉である。
  
                                                                                                        
だからすごく短文、短フレーズで読みやすい。なにより登場人物の会話はリズムがある。リズムがある文章は、読みやすいし、読者側の頭の中に入ってきやすいのである。読んでいる側も、すぐにその内容が頭に入りやすい。
  
                                                                                                       
村上さんはこの会話を使うのがじつにウマいのだ。
  
                                                                                                                                                           
会話にうまくストーリーの骨子を絡ませながら進めると、もうサクサク読めて、今回の物語の描写、ストーリー展開があっという間に頭の中に入って来て、すべて全体像が把握できるようになるのである。
   
                                                                                                      
自分は、村上小説の新刊を読むとき、いつも最初の読み始めの時、本の大体1/4から1/3まではどうしてもいまいちのめり込みが悪く、ペースも乗らない。
  
                                                                                                   
ところが真ん中あたりから、急にペースが上がって来て、それ以降はどんどんのめり込んで最後までスパートだ。そのときが大抵、登場人物の会話が中心になっていることが多いことに気づいたのだ。
  
                                                                                                 
この会話が多くなってくると、もうどんどんサクサク進んでいき、おぁぁおおお~ようやく乗ってきたという感じになるのである。小説の始めというのは、どうしても会話ではなく、まず作者の説明調の文章が多いことが特徴だ。
   
                                                                                                        
この説明する文章、文体と言うのは、読者側にとって、なかなかのめり込みにくい性質の文章だと思うんですよね。
   
                                                                                                   
でも小説を最初から最後まで、会話体でやれるかというと、それもダメなんですよね。やはり会話一本でもどうしても一本調子になってしまい、どうしても小説全体の構造として成り立たない。小説のリズム感としていまひとつである。やはり説明口調、解説調、場面描写での表現があって、そして会話がある。これの交互でバランスがとれてくる。
  
                                                                                                                  
村上春樹さんはこの会話をうまくストーリー展開に使うのがかなりお上手なのである。
自分が全小説を読破して気づいた真実である。
  
                                                                                                                      
たぶん80%~100%の確率でまず間違いない。
  
                                                                                                             
長編小説のような長いストーリーで、どうやってストーリー展開をしていくか。。。いろいろなテクニックがあると思うが、村上春樹さんの場合は登場人物の会話を上手に使うというところにミソがあるように自分は確信している。
  
                                                                                                                  
                                                  
ドラマの脚本の場合、放送回が決まっているので、あとで足りなくなったりとか困ったりしないように、かならず事前に全体のプロット(全体の筋書きの骨組みを決めること)を作るのが通常だ。
   
                                                                                                            
小説家にしても、自分が書く小説について、事前に全体の構造をプロットしてあらすじの骨組みをきちんと決める人もいる。
 
                                                                                                          
でも村上さんの場合は、プロットはいっさいやらないらしい。
タイトルと登場人物、どういう内容のものを書くか、を最初に決めたら、あとはどんどん原稿を書き進めていく。長編小説などの場合のストーリー展開のドライブは全部どんどん書き進めながら、自分の頭の記憶容量を頼りにドライブしていく感じなんでしょうね。
 
                                                                                                                                 
とにかくひと通り、全部書き終えてしまう。それでもう一回読み直してみたときに、気にいらないところが出てきたら、もう一回その部分だけを全部文章としてガリガリと書き直してしまうのだそうだ。全部やり直し、書き直し。そういうのを何回も繰り返して完成形に近づけていく・・・そういうスタイルなのだそうだ。
  
                                                                                                                     
事前にプロットしてしまうと、そういう一筆書きのような新鮮さ、活き活きさがなくなってしまう気がしてしまうのかもしれませんね。自分で書きながら、ワクワクドキドキしながら書き進めていく、そういうスリルがなくなってしまうのでしょう、あらかじめプロットしてしまうと。
 
                                                                                                          
プロットしちゃうと、なんか枠、フレームにあてはめて書くような感覚になって、のびのびできませんね。そういう縛りをいっさいなくして、更地、白紙のキャンバスの上にのびのびとストーリーを紡いでいく、そういう感覚を大事にしているのかもしれません。
 
                                                                                                                    
自分に小説が書けるのか?
   
                                                                                                                     
大きなテーマではあると思うが、
 
                                                                                                                        
①場面描写、空間描写を丁寧に言葉でちゃんと表現できるか?
②ストーリーの展開方法を、会話をうまく利用できるか?
③プロットをせずにのびのび書けるか?
  
                                                                                                                   
こんなところがキーになるのかな、と自分は感じる。
     
                                                                                                        
自分が村上春樹小説を読んできて、学んできた「小説を書くとは?」に対するテクニックである。もちろんいちばん重要なのは、いかに面白いストーリーを作るか?というところにあるのは間違いないのだが。。。
   
                                                                                                                       
自分は、小説というジャンルではあまりに視野が狭すぎると思う。
文学の世界、小説の世界をあまりに知らなすぎる。
いままで読んできた小説の数もぜんぜん足りなすぎる。
                                                  
もっともっといろいろな小説家の小説を読むべきだと思っている。
いろんなスタイルを勉強するべきだと思う。
                                                  
自分に課せられた課題である。
                                                      
                                                 
                                                       
                                                  
                                                  
                                                 

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例大祭 [フェスティバル]

いまのおらが街に住んでもう30年になる。引っ越しはお金がかかるし、もともと引っ越しが苦手ということもあるけれど、もともと昔からこの街が好きだった、というのが住み続けている大きな理由だ。


地獄から天国まで、まさに人生のアップダウンを経験してきた時期に住んでいた街で、おそらく自分の人生の中でもっとも長く、重要な位置をしめるときに住んでいた街ということで、一生涯忘れられないだろう。


おらが街は、一応横浜なんだけど、横浜市ってすごい広いエリアなので、いわゆる一般市民がイメージする横浜とはちょっとイメージや雰囲気が違うと思う。


横浜、YOKOHAMAというと、いわゆる”ハマ”、歴史的にもみても、横浜開港による文明開化などの異国情緒な雰囲気、そして、みなとみらい21、中華街、山下公園、港の見える丘公園、横浜西洋館・・・など観光スポット、デートスポット、外国人観光客でいっぱいというそういうお洒落なイメージがありますよね。


でも呑兵衛の聖地、野毛もそうだけど、横浜ってすごいエリアが広いんですよね。おそらく横浜市って日本でいちばん広いエリアを網羅すると思います。だから誰もが想像するお洒落な”ハマ”の横浜もあれば、ぜんぜんそういうのと真逆な横浜も存在します。


おらが街でいいな~と思うことは、夏のお祭りがあることです。

いわゆる道路を歩行者天国にして、両側にテントを張って出店を出し、そして女の子は浴衣を着ている。金魚すくい、やきそば、お好み焼き、じゃがバター、鉄砲撃ち、・・・そんなお祭りの風情・・・いいな~最高に素敵だと思います。


おらが街で夏になると、かならずお祭りをやってくれることは、とても素敵なことだと思います。お祭りは、どの町でもやれる、というものではないと思うんですよね。町内会とか、お祭りをずっとやって来た、・・・そういう町としての組織、そして店舗などの道具一式、歴史がないとお祭りってできないと思います。お祭りはどの町でもできることではないと思います。


そういう点でおらが街は、お祭りをやってくれる、ということで最高に素敵な町だと思うのです。ある意味自慢ですね。お祭り、和、日本の伝統という感じでいいじゃないですか?そういう和的なものを大切にする横浜も貴重な存在だと思っています。


おらが街の夏のお祭りは、大きく2回あるように思う。ひとつは、7/7の七夕のときかな。このときは駅前の道路は、いちめんお祭りモードになる。同時に、おらが街には諏訪神社という神社があるのだが、その付近にも出店が出る。これがまずいちばん大きいお祭り。


つぎに諏訪神社の例大祭。これは駅前には出店はなくて、神社付近のみの出店。


この2回でしょうか。


30年間この街に住み続けてきて、毎年、このお祭りになったら、かならず出店をふら~と眺めながら通りを歩く、ということは必ずやります。1年間のうちの楽しみでもありますね。出店で和牛串焼を買って食べるのが日課になってます。(笑)美味しいです。



2020年コロナ禍になってそういう行事が中止になってしまい、3年間市民は我慢をしてきた。今年は4年ぶりに開催、ということで、みなのこのお祭りにかける意気込み、熱意はそうとう熱いものがあった。


今回、自分が日記にしたいと思っていたのは、おらが街の神社、諏訪神社の例大祭を取材したいと思っていたのである。


例大祭って知ってますか?


「お祭り」と「例大祭」の違いってご存知ですか?例大祭(あるいは例祭)と呼ばれるお祭りは、なにが特別なのか?


●例大祭とは?


神社にて一年に一度行われる特別な祭りを「例大祭」と言います。大抵は神社に由緒のある日が選ばれますが、ない場合は一定の時期を祭りの日と定めます。


●例大祭の様子/通常の祭りとの違い


神社にとって「祭り」とは年中あるものですが、大抵は祭りの目的が決まっています。たとえば、祈年祭なら豊作を祈る祭り、大祓なら体にこびりついた「ケガレ」を払うための祭りです。


例大祭では、神社にもよりますが、神への供物が盛大に捧げられ、祈祷者や地域の子孫、豊作などを包括して祈るのが習わしです。「例」という言葉自体に「ならわし」という言葉がありますが、神社ごとに設定された「ハレ」の日だと考えるとよいと思います。



●なぜ例大祭は存在するのか


「例大祭」という概念は明治以降に神道が国家の管理下に置かれるようになってからのものとのこと。


創始者がしっかりと文献に残り、教祖や団体が式典をしきる宗教ではないとのことなので、「神社で一年に一度か二度行われる大きな祭りを、例祭または例大祭として区別する」と覚えれば良いと思います。



●神輿(みこし)には神が座っている


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人々が担ぐ神輿(みこし)ですが、その神輿の中は空洞になっています。乗っているのは神様で、わっしょいわっしょいと担いで上下させるのは、「天に少しでも近づけるため」あるいは「霊魂を呼び覚ますため」「霊魂を元気づけるため」などと言われているようです。


●例大祭でなにをするのか


例大祭の共通項とは、「神社の典型的祭り」の共通項でもあります。千年以上の藤崎八旛宮では、イベントが固有名で「放生会」と呼ばれています。儀式=祭りの際に神が神社に舞い降りて、そこで神主らは神を迎え入れるわけですが、鎧や馬子を加え盛大に祝います。また、神楽を呼び神前に舞を踊るのもおそよ共通する例大祭での振る舞いです。


●例大祭は「大祭」に区別される


神社のお祭は、小祭、中祭、大祭に分類されます。季節の節目節目に行われる祭りは(春祭りや秋祭りなど)は大方「大祭」に分類されます。



●天皇と祭祀


神社全てが天皇家とつながるわけではありませんが、伊勢神宮は天皇家にとって特別な神社です。かつては皇室の者以外は参拝不可能でした。


天皇の祖先は直接には神武天皇とされていますが、その神武天皇の5代前の先祖は天照大神です。そして、伊勢神宮の御祭神は天照大神です。


例大祭は、明治以降は少なからずこの伊勢神宮に連なるよう統括されています。なんとなくのお祭りであるかもしれませんが、伊勢神宮が全ての頂点に立つようできていますので、それは無視できないとのことです。

 

例大祭は、単なる大きなお祭りではありません。参加者も神主もそれほど意識はしないかも知れませんが「それぞれのお祭りにちゃんとテーマがある」ということは確かですね。



情報引用元:


例大祭ってなに?他のお祭りとどう違うの?





「例大祭」と呼ばれるお祭りのことがわかってきましたね。要は、神社がおこなう年に1回の大きなお祭りのことです。だから、日本にある無数に近い神社が存在する訳ですから、その神社ひとつひとつが例大祭をやるのです。神社ごとによって仕切られるその神社の年の中の最大のお祭りのことなのです。神社によって、その例大祭を行う日が決まっているんですね。


だから”例大祭”という用語は一般用語です。どの神社にも適用できる一般用語です。

その神社特有のお祭りの名前ではないです。


自分は、30年間おらが街に住んできましたが、お祭りで出店にはよく出かけますが、おらが街の神社、諏訪神社の例大祭というのをきちんと体験したことがないな~と思ったのです。


ちゃんと諏訪神社にお参りに行って、例大祭を体験してみたいな~と思ったのだが、ことの始まりでした。


おらが街の諏訪神社。


自分の家の近くにあります。おらが街にあって、しかも自宅の近く。こうやってきちんとした神社があるのに、お参りをしていなかったのはバチあたりですね。いつも初詣など川崎大師で行うのですが、今後は元旦は、この諏訪神社で、そして1月21日の初大師のときに、川崎大師にお参りするように今後は改めましょうかね?


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奉納者は例大祭の日には、こうやって名前が張り出されます。


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稲荷大明神


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この堂を上る途中で左側から山の斜面に登って、そこから例大祭を眺めるのが、場所取りとしてコツなんですね。


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要は、同じ地面の高さに立っていると、神輿(みこし)でたくさんの人がわっしょいわっしょいとやってくると、同じ高さだと見えないんですね。だから上から見下ろすような高いポジションに居ることが必要で、そのためには、この堂の横から山の斜面に登って、そこから地面を見下ろすようなポジションを確保します。斜面になっているところに停止している、という姿勢はかなり苦しかったです。(笑)足や歩行障害を持っている自分には地獄でした。


自分はどうしてもこの上から見下ろすアングルで写真を撮りたかったので、歩行障害の足を踏ん張ってこの斜面で立ち止まり続けました。ひと目みたい、写真を撮りたいという市民の素人のカメラマンもたくさんいましたし、新聞記者と思われるプロ用の一眼レフのカメラで撮影している記者さん達もたくさんいらっしゃいました。


このポジション(山の斜面)から見た眺めはこんな感じです。


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例大祭を取り仕切る関係者の方々ですかね?


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少なくとも300年超の歴史を持つとされる諏訪神社は、100年前の関東大震災で社殿が一度倒壊したのちに昭和初期に建て直したものの、今度は1961(昭和36)年の火災で焼失。地元住民が募金を集めるなど10余年かけて1973(昭和48)年に再建した経緯があります。


2023年は再建からちょうど50年にあたり、現在の形による例大祭も新型コロナ禍中などの未開催分を含めれば50回目ということになります。


丸3年間にわたって開催ができなかったことに加え、今年は再建半世紀という特別な意味を持つ例大祭として特に盛り上がりを見せそうです。



2023年は再建から半世紀の節目を祝う4年ぶりの例大祭として盛り上がりそうです。


2023年8月26日(土)と27日(日)は諏訪神社で「例大祭(祭礼)」が4年ぶりに計画され、25日(金)の夜には近くの公園で恒例の盆踊りも開かれます。


本祭となる27日(日)は諏訪神社で9時30分から例大祭の式典が行われた後、10時30分から11時ごろにかけて各地区の神輿や山車(だし)が境内に集結する“宮入”を実施。


また、同日の午後も各地区を神輿が巡回するほか、17時30分ごろからは駅周辺や駅前などを各地区の神輿や山車が一斉に練り歩く「六町連合渡御(とぎょ)」を行い、駅付近が祭り一色の雰囲気となります。



いまも30年間通い続けている自分の贔屓にしている銭湯やさん。着替えるところの脱衣所では、大きくこの諏訪神社 例大祭のときの写真パネルが記念として飾られていました。神輿(みこし)を担いでわっしょいわっしょい!男の汗と汗のぶつかり合い。その写真はすごく迫力があって、いつか自分も諏訪神社の例大祭に行ってみたいな~と思っていたのでした。この銭湯に通う度にそう思っていました。


また、これも銭湯の近くの行きつけのやきとり屋さんのオヤジ。例大祭の神輿(みこし)は、まさに町内会ごとに存在していて、町内会ごとにチームを編成してわっしょいわっしょいする男メンバーを集めるんですね。そのやきとり屋のオヤジ、その神輿担ぎ、毎年参加しているそうで、そんな話によく華を咲かせてくれました。そこのやきとり屋さんは、やきとり(やはり、やきとりは塩が絶品!)ともつ鍋、キムチ炒めが絶品でした。もういまや店じまいして隠居していますが、あのオヤジいまどうしているかな~。




練り歩く神輿(みこし)の数などから横浜でも随一の規模と言われるおらが街の諏訪神社の例大祭ですが、2019年以降は新型コロナ禍の影響で関係者による神事のみを行っており、地域住民が広く参加する形での開催は4年ぶりだったのです。


26日(土)の宵宮(よいみや)祭(前夜祭)は17時30分ごろから予定され、小学校側の参道付近には多数の「夜店」が並び、夜にかけて順次営業を行うほか、同日午後から各地域では神輿の巡回が行われる予定。


おらが街の諏訪神社の例大祭のいちばんの自慢は、その神輿(みこし)。


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あとで写真で紹介しますが、もうそれはそれは凄くて、町内会でひとつの神輿ですから、全部で12の神輿があるのかな?おらが街、なんと町内会って12つもあるんですね。その12の神輿がみんな諏訪神社にぜんぶ一斉に集まるのです。これを”宮入”と言います。


つぎつぎと集まってくる神輿たち。12の神輿を、大勢の男(女もいる!)で担ぎながらわっしょい!わっしょい!しながら、つぎつぎと諏訪神社境内内に雪崩れ込んでくるのです。それはそれは圧巻です。12の神輿群、境内に全員集合なのです。


このおらが街の神輿の規模は、まさに横浜で最大の規模!

これが自分のおらが街に対する最高の自慢と言っていい。


自分は、30年間この街に住んでいながら、この諏訪神社例大祭の神輿(みこし)の宮入を観たことがなかったのです。この宮入を観ることこそ、今回の例大祭を体験する最大の目的でもありました。


この諏訪神社の境内内に、12ある町内会の全部の神輿(みこし)が総勢ぞろい。この宮入を終えると、この神社でこれから例大祭始まりますよ~。という挨拶と、そして神社の本殿を前に、その神輿に対してお祓いがあるんですね。


そして各町内会のある各地区の神輿(みこし)や山車(だし)が一斉に練り歩く「六町連合渡御(とぎょ)」を行うのです。それぞれの神輿や山車が自分の担当の町内会エリアをわっしょい!わっしょい!練り歩くのです。各々のエリアに各々の神輿、山車ひとつの担当です。


だから、それらの神輿、山車が総勢ぞろいで諏訪神社境内に集まる”宮入”ってほんとうに凄いことなのです。


自分は、いままで30年間で、自分の地区でわっしょい!わっしょい!やってる神輿はよく見かけましたが、宮入はほんとうに初めてです。


さて、例大祭の本祭となる8月27日(日)。朝9時半から、例大祭の式典が始まります。


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それぞれ神社の貴族衣装をまとったおらが街市民なのかな?笛を吹きながら正門から入っていき、そしてその列に続くように自衛隊の方々などが列を作って本殿へ向かいます。笛の音色がいかにも神社の神事の行事をおこなうようなあの雅な雅楽の音色ですね~。この音色を聴くと、なんか身に引き締まりますね。



この方々は、国会議員の先生方や、この諏訪神社に多額の奉納金を納めていらっしゃる特別待遇の方々です。


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ここの打ち水で手を清めたり、口を漱いだりします。神の本殿の中に入る訳ですから、身を清める必要があります。


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そして諏訪神社の本殿の中に入っていきます。そして本殿の中で、例大祭の式典が始まります。関係者以外はシャットアウトです。長いですね~。9:30からスタートして10:30までの1時間やってました。


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さて・・・10時30分になりました。いよいよ宮入の時間です。境内に上がってくる登り道の下の方から遠くから、太鼓の音、ピーヒャラの笛の音、そしてわっしょい!わっしょい!の声が聞こえてきます。


おぉぉぉおおお~~~やって来た!やって来た!・・・です。


わっしょい!わっしょい!


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なにせ、12の神輿がこの境内に総勢ぞろいですから、入ってきた順番に端に並んでいきます。


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つぎつぎに神輿やってきます。

わっしょい!わっしょい!


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もうどんどん各地区の神輿が入ってきます。(笑)

わっしょい!わっしょい!


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あぁぁあああ~、もう歯止めが効かない~~~。

わっしょい!わっしょい!


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つぎからつぎへと違う神輿がやってきます。

わっしょい!わっしょい!


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もう説明はいらないでしょう!

これから最後までエンドレスでご覧ください。(笑)

境内では、拡声器を持った男の人が、景気づけに「つぎは、○○町内会の神輿だ~。

そ~れ、わっしょい!わっしょい!」


こうやってつぎつぎと境内に入ってくる神輿の町内会の紹介をしながら、わっしょい!わっしょい!なのです。


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・・・・・・そして、ようやく12の町内会の神輿が全部入りました。勢ぞろいです。

境内の最終形はこうなりました。(笑)


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圧巻・・・(^^;;



私の前には、お祭りのハッピを来た子供たちが・・・


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いま神社の本殿前に、各地区の神輿のリーダーに来てもらい、お祓いを受けているところです。


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宮入の儀式がひと通り終わりますと、休憩に入ります。この日も猛暑のそれはそれは暑い日でございました。わっしょい!わっしょい!担いでいた男、女の人は、それぞれドリンクを飲みながらお喋りをして休んでおりました。自分は、いま撮影している山の斜面から地上に降りて、それぞれの神輿をじかに間近で見てみたいと思いました。


以下が、おらが街で、各地区、各町内会で保有する自慢の神輿です。

この宮入が終わったら、それぞれの地区でこの神輿を担ぎながらわっしょい!わっしょい!練り歩きます。


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すごいですね~~~。

驚きました。すごい迫力でした。

町内によって、豪華絢爛な神輿もあれば、小振りな神輿もあって、町内会の規模の大きさによるものなのでしょうか・・・




これで自分の30年来の夢であったおらが街の諏訪神社の例大祭、そして神輿の宮入を観ることができました。いや~~~凄かったです。写真を通してよりも、やはり生で観る迫力、そしてそのわっしょい!わっしょい!などの大勢の声の生音、リアル感が全然違う。写真だけではその凄さを十分にお伝え出来ないのが残念です。



例大祭の本祭となった8月27日(日)の前日の8月26日(土)の夜には、宵宮(よいみや)祭といわれる前夜祭が17時30分ごろからあって、近くの小学校側の参道付近には多数の「夜店」が並び、夜にかけて順次営業を行ってました。


これは自分が毎年行っているいわゆるあのお祭りですね。もうお馴染みです。


・・・とっとっとっところが・・・


やっぱり4年ぶりということがあったのでしょうか・・・

みんなコロナで3年間の中止のうっぷんがあったのでしょうか。。。


もう信じられないくらいの劇混み状態で、もうびっくりしてしまいました。

30年間でこんなにぎゅうぎゅうだったのは初めてです。

なんじゃこりゃ~?と思いましたから。(笑)


みんな溜まってたんだね~、きっと。


その模様をちょっと紹介します。

お祭りの出店は、いかにも毎度のお祭り、そのままです。


もうこんなぎゅうぎゅう・・・信じられない!


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お好み焼きはお祭りの定番ですね。これは広島風お好み焼きでしょうか?


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これはコロコロサイズのじゃがいも焼きですね。北海道ではじゃがバターという食べ方が一般的で、ゴロッとしたじゃがいもをそのままホクホク焼いて、それにバターで食べるというスタイルですね。


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焼き鳥も定番ですね~。食べたかった~~~。


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ホルモン焼きですね。


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出た~。お祭りでは王道の焼きそばですね。食べたかった~。


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金魚すくいもキラーな出ものです。


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金魚すくいでは、子供の頃想い出があります。自分が小学生の時に育った北海道の町にもお祭りがあったのですが、母親からお小遣いをもらって、張り切ってお祭りに出かけたのですが、この金魚すくいで、やれどもやれども、すくいの網が敗れて、1回、2回やってダメだったら、それで諦めればいいものを、その店主のオヤジに騙されて、もっとやれ、もっとやれ、という感じでそそのかされて、結局お小遣いを全部巻き上げられた苦い思い出があります。あのときの子供心の罪悪感。いろいろな食べ物やいろいろなものを買いたかったのに、金魚すくいだけで、お小遣いをぜんぶ失ってしまった。家に帰ってママに対してえ~ん、え~んと大泣きした想い出があります。(笑)


いまでもお祭りで金魚すくいを見るとトラウマです。(笑)



お面もお祭りですね~。いろいろなお面があります。


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出た~~~。和牛串焼。


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大人になった現在。お祭りと言えば自分にとってはこれです!お祭りの出店で一番楽しみにしているのは、これです。タン焼き、カルビ焼きがメインで、タンがやはりメインかな。塩、タレどちらでもいけますが、やはり塩がいいですね。


これは食べ応えありますよね~~~。

かならず3本買います。3本も食べたら腹いっぱいになります。

ここで買って、それをそのままその場で立ち食いするのが、オツでお祭りなのです。


昔は1本500円で、3本で1,500円だったのですが、近ごろの原材料価格の高騰で、1本700円までに値上がっていました。驚きでした。今回はあまりに人混み大変で、その場で食べるのは不可能だったのでやめときました。



ヒエヒエだよ~。生ビール。


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霧島ハムということでしたが、なんかホットドッグみたいな感じで凄かったです。


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そして、これもお祭りにはかならずありますね。鉄砲で的を射撃して当たればもらえる、というやつですね。お祭りにはかならずありますね。


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日本のお祭りは、何年経っても進化しないところがいいですね。(笑)子供の頃からず~っと出し物は変わっていないような気がします。まっそれが日本のお祭りでいいのではないでしょうか。


子供の頃から、何年、何十年経とうが、やはりお祭りっていいものです。あのテントでのお店の通りを歩いているだけで、心安らぎます。お祭りってあの雰囲気がいいな~と思います。


やっぱりどんなに歳をとってもお祭りは好き。


日本人でよかったと思います。


そしてお祭りのある町はいいな~と思います。









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さらば!キングチャイナ [グルメ]

うちの街に住み始めたのは、ヨーロッパから帰った年の1995年。もう28年も住んでいる。


東京に住むようになって、こんなに長い間ひとつの街に住んでいるのは、いまだにロングラン記録続行中だ。


なぜこの街だったかというのは、帰任のときに住居を会社が補助してくれる仕組みになっていて、少々家賃が高くてもいいメリットがあった。(ただし有効期間がある。)


だから、いろいろな街の住まいの候補を見て回ったのだが、ここが一番しっくり来た。有効期間が過ぎて、補助がなくなり、家賃がバカ高いので、そして会社借り上げの住居だったので、前職退職とともに、引っ越した。


心機一転、違う街という手もあったが、それをサーベイするのが面倒で、人間歳をとると長い間住んだ街が勝手がよく、同じ街内に引っ越した。


この街は、昔の松下通信工業があった街で、大学の卒業時の会社見学で伺ったことがある。説明会での社員の方々が明るい雰囲気で大変印象がよく、うちの学生の中では人気が高かった。


帰任後にこの街に最初に住んだ高級マンションの真横は、現在のパナソニックの寮がある。(笑)もともとは松下通信工業用の寮だと思うが、松下通信工業はいまはなくなり、近くの鴨居に立派なオフィスのパナソニックがあり、通信関係はここに集約されているようで、ここの住人はそこに通っているんだろう。


なにかと縁がある街なんだろう。(笑)


正直この街に住み始めて、栄光から挫折まで、まさに天国から地獄まで経験した28年間だった訳で、地獄は、大病を患い3年間休職して、この街のマンションを無住居状態で3年間家賃を払い続け、自分の身ひとつで北海道の親元で療養したことだ。


そして復職する数か月前に、この街の自宅に戻ってきたとき、自分の部屋に戻ったときのあの部屋のかび臭いニオイ。(笑)


そして復職前の準備期間として、きちんと生活が営めるかどうか、ということで、うちのオヤジが自分の部屋に数か月同居して監視。きちんと自炊できるか、ふつうの生活が営めるか、そしてなによりも3年間不在だった部屋の大掃除。


病気前までは料理なんか作ることのなかった自分はそれではダメだ、とオヤジに言われ、実家で3年間療養していた時に、母親から料理の猛特訓を受けていたのだ。


そのおかげでまったくド素人から料理を作れるようになった。母親から、そしてオヤジといっしょに通った男の料理教室で学んだレパートリー、しっかり大学ノートに書いてある。これは自分の料理人生の中でお宝だ。



オヤジといっしょにこの街にあるイトーヨーカドーによく買い物に行きましたよ。自炊するようになってから、食材を買うのは、かならずここのイトーヨーカドーだった。イトーヨーカドーは、当時この街にあるスーパーマーケットとしては1番大きい規模で、この街に住み始めた1995年からずっと営業していていまに至る。


ときたま、イトーヨーカドーに行くことがあるんだけど、そうすると、なんか胸キュンしてせつなくなるんだよね。あの頃、オヤジと一緒に療養していた時代を思い出すのだ。ここにはほんとうに甘酸っぱい想い出がいっぱい詰まっている。


イトーヨーカドーが全国規模で閉店するニュースが出たけど、おらが街のイトーヨーカドーはなんとか難を逃れて欲しい気はする。


まさに復職前の数か月間、社会復帰を目指し、オヤジとこの街で一緒に暮らし、いまは亡きオヤジとの強烈な想い出として脳裏に刻まれている。まさに人生最悪の地獄だったときだったな。



そしてSNS生活を始めるようになってからも、この街にいるときで、そこから人生好転したような気がする。


まさに天国から地獄というのは言い得て妙で、自分の人生の縮図がこの28年間、この街に詰まっている。


だから去りがたいものがある。もっとお洒落で綺麗な街はいっぱいあるだろうけれど。




うちの街は、正直お洒落でもなんでもない。いろいろなお店がごっちゃに出ている商店街が特徴であって、そこのお店は、28年間も眺め続けると、いろいろな変遷があった。とくに飲食店なんかは、ものすごいサイクルで出店したり、閉店になったりで、その入れ替わりが激しい街と言える。


でも中には、自分が来た時から、ずっとやっているお店もあって、その中の代表格であった中華料理屋さんのキングチャイナが閉店になるという。(いまから4年前の2019年の話です。)



大ショックだった。


内輪向けの話題で大変恐縮だが、このキングチャイナ、この24年間でずいぶんお世話になった。


駅のすぐ傍にあって、とにかく飲食店は星の数ほどうちの街には存在するのだが、その中でも、”困ったときのキングチャイナ”という異名をとるほど、その安定したボリューム、美味しさ、そして安さは別格で、とにかく安定しているので、なんかお腹が空いた、というときは、星の数ほどたくさんある見知らぬお店に入って冒険するよりも、このキングチャイナに入ったほうが、よっぽど間違いないというか無難なのである。


この飲食店については、入れ替わりの激しいこの街に40年間もやっていた、この街の住民なら知らない者はいない超有名店である。


ツィッターで閉店の知らせを知った。


みんな驚愕していた。


そりゃ驚くよ。絶対閉店しそうにないお店だったから。


儲かってないから閉店するというのではないと思う。行列ができるほどではないが、いつ行っても店内は満員状態で、儲かってるんだろうな、いつも思っていた。


だからなぜなんだろう?・・・だ。


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だから今日を持って閉店になる訳だが、今週はいつ行っても大行列だった。


みんな、おらが街情報のツィッター、チェックしているんだね。(笑)おらが街情報のチェックにはツィッターはすごくいい。こんなところに新しい店がオープンとか、あるいは閉店になる、とか身近なローカルな情報なので、ふむふむなのだ。


とにかく24年間ずいぶんお世話になった。


何を隠そう、拙宅におけるオーディオオフ会のときに、オフ会終了後にゲストの方をこのお店で夕ご飯を御馳走したこともたくさんあった。


この店内の写真を見ると、「あ~!覚えている!」と思われる方も多いだろう。(笑)


普通オフ会でご馳走するのは、もっと個性のあるお洒落で変わったお店がイイのかもしれないけれど、たかが中華なんだけれど美味しいし、腹いっぱいになるし、ゲストの満足度が高いお店だった。



また、サントリーホール開館30周年記念ドレスコード・コンサートから帰った時に、ビシッと礼服で決めた格好しているのに、おらが街に帰ったら、急に腹が減って、このキングチャイナで、礼服を着たまま中華のご飯を食べたこともあった。(笑)


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本当にふつうのラーメン、餃子の中華料理屋さんなんだよね。

驚きはメニューがすごいたくさんバラエティーがあること。


定番メニューの他に、日替わり定食というローテーションで変わるメニューもあって、飽きることはまずなかった。


たぶん、このキングチャイナで、自分が一番注文したであろう、A定食(焼肉とオムレツ)。

ボリューム感満載だ。


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40年もやっていて、いつも満員だったのに、突然の閉店宣言。

儲からないという意味ではなく、もっと別な理由があるんだろうな。


復職してからすっかり自炊もしなくなり(笑)、いつも会社から帰ってきたときの晩御飯として重宝していたキングチャイナの閉店。


これは痛い!!!


そんないつもお洒落なフレンチとかイタリアンとか食べていられない訳です。(笑)



あとがき(2023/9/7補記)

いまこのキングチャイナのあった場所は、隣にあるバスターミナルの待合場所というかそんなスペースになっています。







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インディーズ・レーベルの終焉 [オーディオ]

北欧スウエーデンのインディーズ・レーベル BISレコードが今年で創立50周年を区切りに、Apple Music Classicに身売りすることになったそうだ。


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Gramphone



英国のGramphoneが情報ソースだが、衝撃的だ。


原文記事によると、ロバート・フォン・バールによって設立されたスウェーデンのクラシックレーベルであるBISは、Apple Music ClassicとAppleが所有するクリエイティブサービス会社Platoonの一部になります、とのこと。


”一部になる”という表現は微妙で、BISというレーベルが残ったままなのか、いまは詳しくわからない。BISの分解ということではなく、Appleに組み込まれるという感じなのだろう。



「数日前、BISレコードは50周年を迎えましたが、この半世紀の間に私たちの小さなチームが成し遂げたことを非常に誇りに思っています」


「BISの専門は、コアレパートリーに会費を払いながら、若いクラシックアーティストや興味深い生きている作曲家を育成し、私たち全員が将来にわたって代表する音楽の宝物を保護することでした。そのために、慎重に検討した結果、80歳になったばかりで、Appleファミリーの一員になることを決定したというかなり重大なニュースを発表できることに興奮しています。」


「私たちは、私たちの名誉ある歴史をどのように維持し、構築するかを長く懸命に考え、私たちの使命を推進するパートナーと、世界中の新しい聴衆にクラシック音楽をもたらすためのグローバルプラットフォームを拡大しました」


「Appleは、革新と音楽への愛情の独自の名高い歴史を持ち、 クラシックの次の時代の到来を告げる理想的な家であり、クラシック音楽とテクノロジーが調和して機能する未来を構築するための真のコミットメントを示しています。」


声明はまた、BISのすべてのスタッフがAppleに編入後も保持されることを言及している。


・・・だそうです。


この流れは、今年の3月にあのアリーナ・イヴラギモヴァを擁するHyperionレコードがユニバーサル・ミュージックに合併されたニュースを聞いたときにあ~ついにクラシックのインディーズ・レーベルも片っ端から大手メジャーレーベルに吸収合併され淘汰される時代がやってきたのかな~という予感はした。でもはっきり断言はできなかったので、様子見していたのだが、ついにBISもそうなってしまった、ということは、この流れは結構瀧水のように一気にやってくるかもしれない。


PENTATONEは?Channel Classicsは?CHANDOSは?Simaxは?


この先どうなる?


自分のオーディオマニアとしての人生は、結局このSACD高音質レーベルのマイナーレーベルを推すことだった。

SACDサラウンド、マルチチャンネルで、そしてメジャーレーベルが契約しないようなクラシック業界でも無名な若いアーティストを第一線、表に出す、そしてメジャーレーベルが知らないような無名の作曲家の曲を発見してそれを世に知らしめることで、そのレーベルとしての存在感、オリジナリティ、独創性を売りにする。そういう戦略だった。メジャーレーベルに対するアンチティーゼのような存在でもあった。


クラシックのインディーズ・レーベルというのは、そこが魅力だったのだ。


音のクオリティがよくて、そしてそういうフレッシュな若手演奏家による音源。そこがインディーズ・レーベルの魅力だった。メジャーレーベルの音源が、ひどく退屈でつまらないものに思ったものだ。インディーズ・レーベルのほうが尖っている感じで格好良かった。


栄枯盛衰・・・


移り変わりの激しい技術の世界で、ずっと長く続けることの難しさということかな。


自分は配信時代になって、ずっと思っていたことがある。

それはレーベルとしての存在感、アピールが難しくなったな~と感じたことだった。

ストリーミングは、シングル単曲での勝負なところがあるので、いわゆるアルバムとしての魅力、レーベルとしての魅力がうまく出せないな~と感じていたところがあった。


昔は、PENTATONEの新譜、BISの新譜、Channel Classicsの新譜というように、レーベルの括りで、新譜を漁っていき、そのときにその毎月リリースされる新譜で新しい新人の若い演奏家の存在を知り、そしてその魅力を紹介する。。。そういうのが自分の常套作戦だった。だからレーベル単位なのだ。


なぜかというとレーベルごとに音の作り方、録音のクオリティや、録音のよさの特徴がすごい違うので、レーベルごとに括っていかないといけなかった。そのレーベルごとに違う音の作り方を楽しむのが、オーディオマニアの楽しみだった。レーベルごとに抱えている録音エンジニアのその技術にいろいろ違いがあって、それを楽しむのが、オーディオマニアの作法でもあった。いわゆる録音ポリシー、レコーディングポリシーみたいなものが、レーベルごとに存在していた。


また、そのレーベルごとに抱えているアーティストもそれぞれユニークでオリジナリティがあって魅力的だった。



ところがストリーミング時代になると、配信のリストは、レーベルとは無関係のアーティスト単位の検索であったり、聴きたい曲単位の検索であったり、あるいはその検索した楽曲に基づいて音声波形解析で似たような楽曲のリコメンドであったり。。その3パターンだ。


自分の嗜好とは関係ない新しい曲との出会い、驚きがなくなった。そしてレーベル単位で新譜を聴くということもなくなったような気がする。いままでレーベルという括りでそのカラーを打ち出してきたインディーズ・レーベルは、配信時代になると、その売り出し戦略が難しくなるな~とはずっと思っていた。


自分がずっと思っていたことだった。


物理メディアの衰退、配信時代への移行に伴って、やはりそのいままでの収入源、収益の上げ方の構造を根本的に見直さないといけなくなったのであろう。インディーズ・レーベルは配信時代を迎え、大きな岐路に立っているに違いない。


各々の経営者は、自分のレーベルをこの先、どのように末永く維持していくか、真剣に考えた末でのメジャーレーベルへの合併吸収ということなのだろう。なによりも、自分のレーベルに所属しているアーティスト達をこれからも守って行かないといけない。


う~む。時代だな~と思う。

技術の世界はやはり10年スパンで、どんどん激しく変貌していきますね。”同じ”をずっと続ける、ということはありませんね。


これからもクラシックのインディーズ・レーベルのメジャーレーベルへの合併吸収は続くかもしれない。自分達のアーティストを守っていくためには!


ところで、BISが身売りを発表したApple Music Classicalって知ってる?(笑)

日本にローンチしてましたっけ?


米国ではサービス開始しているのかもしれませんが、日本はまだローンチしてませんよね?


先の日記で、自分はストリーミングの場合は、ロック、ポップスとクラシックは同じ土俵上ではダメだ、ということを主張しましたが、Apple Musicは、クラシックのストリーミングを分けたんですね。それはいいことだと思います。


でもBISの今後の新譜がApple Music Classicalのほうにリリースされたら、日本では聴けないよ。(笑)


しかしBISのSACDサラウンドのあのサウンドがもう聴けなくなるかと思うと、悲しいな~。あのワンポイント録音のダイナミックレンジのすごい広い録音、録音レベルがすごい低いんだけど、それはいかにD-Rangeが広いかの証でもあった。BISの録音はどれもレベルが低かった。全体的な印象としてすご温度感の低いクールなサウンドだった。あれはSACDマルチチャンネルだからこそ味わえるサウンドなんですよね。


ストリーミングであのテイストが出せるのか?

Dolby Atmosなどの3Dオーディオ、空間オーディオであのテイストを出せるのか?


BISレーベルのヘッドクォーター


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BISのスタジオ


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BIS創業者のロバート・フォン・バール


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BISのあの独特のサウンドを作り出すトーンマイスターたち。BISの録音制作を手掛けてきたトーンマイスター5人が独立して、「Take 5 Music Production」という別会社を設立していた。この会社はどうなるのか?


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そしてなによりも、BISに所属しているアーティストたち。アンネ・ゾフィー・フォン・オッターやカミラ・ティリング、鈴木雅明&BCJ、小川典子、エフゲニー・ズドビン、その他もう数えきれないアーティストたち。これからこの人たちの音源を聴きたいと思ったら、Appleのストリーミングで聴くことになるのでしょうか?(笑)



まっロバート・フォン・バールも悩みに悩んだんだろうな・・・。自分たちのいままでの50年間で築き上げてきた財産(アーティストや音源)をどのように今後守っていくか。それがAppleへの売却という結論だったのだと思う。いままでの音源財産を全部ネットコンテンツ、オンラインコンテンツへの移行することを考えたんだろう。


英グラモフォン賞で、年間最優秀レーベル賞を獲得したこともあるBISレーベル。

まさにインディーズ・レーベルとして頂点にまで立った。後悔はないだろう。若いアーティストの育成を大いに評価された。その宝のようなアーティストたちや録音音源を守っていく上でも筋の通った戦略なんだろう。


この動きは、Appleによる専用のクラシックアプリであるApple Music Classicalの立ち上げや、3月のユニバーサルによるインディペンデントレーベルであるHyperion Recordsの買収など、クラシックレコーディング業界における今年の重要なポジショニングになると思われる。



アリーナ・イヴラギモヴァ擁するHyperion Recordsのユニバーサル・ミュージックへの合併吸収も衝撃であった。あのハイペリオン・レコードがDGやデッカと同じ会社の一部となるのだ。


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ユニバーサルミュージックグループ(UMG)は、マルチグラモフォン賞を受賞した英国のクラシックレーベル、ハイペリオンレコードを買収した。


ハイペリオン(1980年にテッド・ペリーによって設立された)は、ドイツ・グラモフォン(1898年設立)やデッカ・クラシックス(1929年設立)と並んでUMGのポートフォリオに加わる。ハイペリオン・レコードは、そのユニークなアイデンティティを維持しながら、ユニバーサルミュージックUK内の独立したレコーディングレーベルであり続け、サイモンペリーがディレクターとして残る。


UMGのGlobal Classics & Jazz担当社長兼最高経営責任者(CEO)であるDickon Stainer氏は、この買収を歓迎し、「Hyperionはレーベルの宝石であり、ペリー家が成し遂げた素晴らしい仕事を継続し、ハイペリオンがアーティストや音楽ファンの心の中で占める特別な場所を維持し、構築することにコミットしている」と述べた。



2023年7月には、英国の名門ハイペリオン・レコードのストリーミング配信がスタートした!


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創業以来43年、数多くの賞を受賞してきたクラシック・レーベルハイペリオン・レコードが、本日からストミーミング配信をスタートさせた。


ハイペリオン・レコードは1980年に設立されて以来、先駆的な録音を生み出してきたイギリスの名門クラシック・レーベル。マルカンドレ・アムラン、アンジェラ・ヒューイット、サー・スティーヴン・ハフなどの著名アーティストが在籍しており、レーベル設立以来、約2,500枚の録音をリリース。今年3月、ユニバーサル ミュージックグループの傘下に入ったことが発表され、話題を集めていた。


本日、ストリーミング配信が開始されたのは、ハイペリオンの歴史を代表する錚々たるアーティストの代表作を含む200作品と3枚の新作アルバム。新作は、グラミー賞を受賞したタカーチ弦楽四重奏団によるドヴォルザーク作品と、スティーヴン・レイトン指揮ケンブリッジ・トリニティ・カレッジ合唱団によるアンセム曲集、そして、高い評価を受けたオーランド・コンソートとなっている。今後、追加のカタログ・リリースが随時予定されており、

来年の春までにはレーベルが保有する全てのアルバムがストリーミング可能となる予定。



「ハイペリオン・レコードというかけがえのないレーベルにとって、世界中のストリーミング・プラットフォームに登場するということは非常に大きな意義があります」- ユニバーサル ミュージックグループ クラシックス&ジャズ部門統括 ディコン・スタイナー



BISもハイペリオンも結局この判断に到達した要因は、これからの配信時代に、きちっとした配信プラットフォームを基盤としたレーベルにお世話になりたいということなのだろう。BISもハイペリオンも自分たちでそういうプラットフォームは持っていなくて、特にBISなんかは、Channel ClassicsやPENTATONEと違ってことストリーミングに関しては、あまり大きなニュースになることもなく、配信というビジネスエリアではあまり目立った動きはしていなかったレーベルだ。


それが今回の決断の大きな要因になっているように自分は思うのだが、どうだろうか?


あくまで記事の文面を読んだ限りの印象だが、BISもハイペリオンもその音源やアーティストをそのまま維持しつつ、メジャーレーベルの”一部”となることを強調している。分解やマージということではなく、あくまで一部になるということである。だからそんなにいままで大きく変わることはないのではないだろうか?資本が違うようになった、というだけだと思う。


PENTATONE,Channel Classics・・・明日はどこのインディーズ・レーベルがメジャーレーベルに吸収されるのか?


クラシック インディーズ・レーベル、いま時代とともに大きく淘汰されようとしている。


ただひとつ、これだけは確実なことがある。


BSのSACDマルチチャンネルのディスクはそのうち廃盤になって入手困難になるであろう。そうすると、あのSACDサラウンドで聴いていたBISサウンドのあのテイストはほとんど聴くことが不可能になるということだ。ストリーミングの3Dオーディオ、空間オーディオではあのテイストは出せないんじゃないかな?いま所有しているBIS SACDは大事に永久に保持しておくべきである。そのうち中古市場で大変なプレミアがつくことになるであろう。(笑)








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アルブレヒト・マイヤー [クラシック演奏家]

これは常々思うことなのだけれど、自分がクラシックファンでありながら、急激に老いを感じるようになったのは、やはり世界中がコロナ禍のパンデミックになってからだ。日本のクラシック界はやはり外国人アーティスト、外来オケに頼るところが大きいビジネスで、それが軒並み来日できなくなったので、もう日本の若手の演奏家のまたとないチャンスとなった。


コロナ禍前までは、自分はリアルタイムの最前線のクラシックファンだと自負していたのだが、コロナ禍になって、まさに水を得たように若い演奏家たちがつぎつぎとデビューしていくのを体感して、急激に老いを感じるようになった。


若い指揮者、演奏家は、やはりこれからの新しい世代の日本のクラシック界を背負っていかないといけない。いままで多大なる業績を残してきた大ベテラン、いわゆる自分の世代のアーティストもどんどん高齢化していく訳で、このベテランたちが積み上げてきた歴史を新しい世代の指揮者、アーティストがどんどん次の世代へと引き継いでいかないといけないのだ。そうしないと明日の日本のクラシック界の未来はない。これはクラシック界に限らず、人間社会の自然の掟である。


もちろんそうなるように自分も若い人をどんどん応援していきたい。ところがもともと貧乏人なので、予算体力がついていけず、自分が身銭を切るならば、やはり自分の時代のアーティスト、自分がもっともクラシックに熱かった、入れ込んできた時代のアーティストのコンサートに費やしたい、と思うのが人情というものである。


人間の脳って、高齢化していくにつれて、吸収する情報の容量に限界を感じたり、吸収しようという意欲そのものが少なくなっていくように思う。新しいものをどんどん吸収していく、そういう積極性がなくなっていくのである。


いつのまにや、気づいたら、自分の青春時代に好きだったアーティストの音楽ばかりをふだん毎日聴いている・・・。高齢化する、ということはそういうことなのだ。


自分の仕事の技術関係についても全く同じ。自分がどんどん高齢化しているにも関わらず、世の中の技術の進化の流れって、そんな個人の事情なんてまったくお構いなしに、なにごともなかったのようにどんどん進んでいく。そんな個人の事情なんてまったくお構いなしにだ。その人が別にやらなくても、世界中の若い有望な技術者がやるだけなのだ。世間の技術の流れは高速スピード化でまったく容赦ないのである。それが未来永劫、永遠に続いていくだけなのだ。


それで、その技術の流れについていったり、合わせて行くのは、もう高齢化しているその人間の心の持ちよう次第なのである。自分を変えていくしかない。自分の心の持ちようしかないのである。それが脳の老化、劣化を防ぐ唯一の方法なのである。


自分側でそれを放棄した時点で、懐かしむだけの老化まっしぐらに行ってしまうのではないかと思うのである。急に老け込むというのはそういうことに起因するんじゃないかなと。


世間は、そんな一老人のことがどうなろうと関係なく、おかまいないしに進んでいきますから。もう自分が合わせて行くしか方法がないのである。いち個人の人生はもちろん有限なものなので、かならずこの壁、ギャップに遭遇するようになっている。どんな人間でもである。


自分は50歳代後半。まだまだ人生でもっとも輝いている働き盛りのときだと思うが、ヒタヒタと忍び寄る老化現象は、やはりどうしても日頃感じることが多い。


やっぱりそれは感情移入という点だ。若い頃というのは、やはり恋多き時代で、人に恋する、人に感情移入する、というのがとても多くあたりまえの事象であった。自分はとくに性格上、沈着冷静とは程遠い性格で(笑)、情感溢れる、つねに恋している、恋多き男である。


やっぱり熱い時代というのは、もう入れ込み具合が全然違う。心底恋してしまう。

そういう多感で繊細な心の持ち主なのだ。


自分が予算体力も十分にあって、クラシックを心底自分のモノにしたい、一生懸命勉強したいと思っていた時代に出会った、自分と一緒に育ってきたアーティストはやはり、自分の中に深く入り込んでいく。一生忘れられない存在になる。


いわゆる”自分の世代のアーティスト”である。


高齢化していくと、若いアーティストがこれからを背負っていくためには、一生懸命応援していきたいと思ってはいるものの、この感情移入という点で、いまひとつ深く突っ込んでいけない自分がある。


若いアーティストは、新鮮で可愛らしいし、パッとその場が明るくなるようなオーラもあって天使のようだ。可愛いし、頑張ってほしいといつも思っているけど、これと自分個人の本気の感情移入というのは、これまた違うんだよね。


どんなに歳をとっていっても、ジェネレーションギャップを感じずに、自分の愛情を注いでいける、深い愛を捧げられる。。。これがまさに理想の姿なのだと思っている。これから歳を重ねていく上での自分の目指したい姿である。


この感情移入できない、自分を本気にさせられない。。これはまさに高齢化現象なのである。これはもう仕方がないのである。人間の気持ちの持ちようの老化というのは、そういうものなのである。


これはいまの自分だけに言っていることではない。いま若い人に至っても歳をとっていくと同じ現象になるのだ。その若い人たちが過ごした時代にもっとも自分が入れ込んでいたアーティスト、いわゆる自分の世代のアーティスト、そういうものが世代が変わったとはいえかならず存在するはずだ。時代がずれて経験するだけなのである。


そういう意味合いからも音楽評論家の先生方は、本当にすごい大変な仕事だと思っている。明日の日本のクラシック界を育てていくためには、若い演奏家をどんどん評価して、宣伝して、プッシュして行かないといけない。若い世代のアーティストを評論することで育てていかないといけない。


自分の世代のアーティストとなんら変わらないように、平等な扱いにてでである。


やはりそこはプロなのである。


我々のように気持ちが乗らないので、なんて甘っちょろいことは言えない。



常々、自分は高齢化するにつれて、人間って感情移入という動作が苦手になって、自分の時代のアーティストに固執してしまう生き物であること。そういう習性を持っていること。若いアーティストは本当に頑張ってほしいとは思うものの、どんどんデビューしてくる膨大な新人たちを自分の頭の中でうまく整理することができず、なかなか頭がついていけなく、予算体力の優先度からして、どうしても自分の世代のアーティストに回帰してしまう現象であること。


こんなことを沸々と考えるようになった。そういう老いを急激に感じるようになったのが、あのコロナ禍を経験してから、急激に若手主体の演奏会に切り替わるようになってからである。



じつに長い前ぶりであった。(笑)


いつかは語っておきたい、いまの自分に課せられている課題といおうか、ここはなんとかしなければな~と思っている箇所であった。


こういうことを考えたのは、今回この日記で取り上げるベルリンフィルの首席オーボエ奏者、アルブレヒト・マイヤー氏の新譜を聴いてレビューしたいからだ。アルブレヒト・マイヤー氏は、まさにもう自分の世代のど真ん中のアーティスト。深い愛情をたっぷり注ぎ込んでずっとその成長を見守ってきたアーティストである。


想うところも深く、いろいろ想い出もある。そんなときに、この自分の人生の課題を思いついて、つらつら~と書いてみたくなっただけだ。



ベルリンフィルの首席オーボエ奏者 アルブレヒト・マイヤー氏は、アバド・ラトル時代の(そして現在も進行形ではあります。)ベルリンフィルの顔ともいえる主力メンバーで自分がもっともクラシック音楽に熱かった頃、自分の情熱をすべて傾けていた時代だったので、この時代に旬だった奏者は、もう一生忘れることがない。(マイヤー氏は、もちろんいまも旬です。。笑笑)


結局、自分にとってベルリンフィルというのは世界No.1のオーケストラで、自分はカラヤンでその門を叩き、入門した。まさにクラシック勉強の時代で、アムスの同期友人から手ほどきを受けながら、膨大なカラヤンの音源、映像素材を片っ端から購入して、クラシック音楽を勉強していった。自分にとって、カラヤン・ベルリンフィルがクラシックへの誘い、入門であった。またカラヤン・ベルリンフィルはソニーとも非常に深い関係にあったので、いわばこれは自分が辿るべき正規ルートなのだという自負があったことも確かだ。


そして自分がリアルタイム世代として生きてきた同世代観を抱けるのは、アバド・ラトルの時代だったな~と思う。とくに自分が現地ベルリンまで聴きに行って、リアルタイムど真ん中として生きてきたのは、ラトルの時代だったと思う。自分にとって、ベルリンフィルの芸術監督といえばサー・サイモン・ラトルである。この時代が自分にとって、ベルリンフィルというオーケストラを自分のモノにできた、と感じた達成感みたいなものがあって、ラトルの退任と同時にオレのひとつの時代はお終わったな~と感じたことも確かだった。


アバドもラトルもマーラーを普及させていくための近代解釈論者としてのマーラー指揮者のような使徒を意識していたところがあって、こういう姿勢も自分のマーラー音楽傾倒に対して大きな影響を及ぼしたと思っている。


ペトレンコはぜひ頑張ってほしい。就任早々コロナパンデミックという大変な境遇ではあったが、徐々に巻き返してほしい。まだまだこれからである。やっぱりベルリンフィルの団員が選んだのはペトレンコで正解だったと思う。他の候補者を今思えば、とても長く勤まるとは思わず、ベルリンフィルの伝統を紡いでいくには無理があるかな、という印象はある。


あまりメディア戦略が苦手な寡黙なペトレンコではあるが、DCHで何度かその指揮振りを拝見したが、非常に柔らかい滑らかな自然調のスタイルでこれは、団員たちは演奏しやすいよな~と直感で感じたものだった。美しい指揮だと思う。そして徹底的にリハーサルするというか、計算に計算を重ねて緻密に音楽を作り上げていってから本番に向かうというようなスタイルと聞いている。基本はオペラ指揮者だとは思うが、非常に計算高い完成度の高い演奏パフォーマンスになると自分は予想する。まじめなペトレンコらしくていいと思います。ベルリンフィルの最高の技術をしてそれが実現できるのだと思います。オーケストラとの相性はいいと思ってます。



今年の秋のペトレンコ&BPOの来日公演は、でもちょっと高額チケットで無理だった~。(笑)

いまの自分にはもう無理かな~。ペトレンコぜひ頑張ってほしいけど、自分のベルリンフィルにかける意気込みは、ラトルの時代で終わったかな~ともやはり思います。


アルブレヒト・マイヤー氏は、そんなアバド時代の1992年にベルリンフィルに入団である。まさに1990年代組ということで、自分の記憶では、長年統治したカラヤン時代の団員たちがみんな定年退職でベルリンフィルを大量に退団していったそんな時代が1990年代だった。だからベルリンフィルにとって、1990年代と言えば、オーケストラの顔ぶれがガラ変したある意味世代交代の時期だったのだ。


そのときに大量に入団した1990年代組のひとりが、アルブレヒト・マイヤーだった。アバド&ベルリンフィルは、カラヤンの影響を排すべく、いろいろな試みをおこなった。それこそ団員たちのマエストロの呼び方から・・・怖かったカリスマのカラヤンと違ってとてもファミリーで親しみやすい雰囲気を作ろうとしたのがアバドだった。まず意識革命から、というところか。


自分は昔は、NHKのベルリンフィル定期演奏会という番組で、そして昨今はインターネットのDCHで、ずっとアルブレヒト・マイヤー氏を観てきた訳だが、同じ首席オーボエ奏者のジョナサン・ケリーとはいつも隣り合わせのそのツーショットが本当に絵になって、カッコいいな~と憧れたものだった。


自分にとって、ベルリンフィルのアルブレヒト・マイヤーといえば、同時にジョナサン・ケリーのことをかならず思い出す。この2人はかならず隣り合わせのlツーショットなのだ。あるいはフルートのエマニュエル・パユとのツーショット。


ジョナサン・ケリーもエマニュエル・パユも花の1990年代入団組。こうしてみると、長らく若き新しい世代のベルリンフィルを支えてきたメンバーは、もうみんなこの1990年代入団組なのだ。


ジョナサン・ケリー


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自分が盛んにンベルリンフィルを観ていた時代のジョナサン・ケリーはこんな風貌であった。ところが、ずいぶんしばらくご無沙汰して、つい最近のジョナサン・ケリーの近影を拝見すると、老けたな~(笑)という感じでショックだった。昔の面影がまったくなかった。頭髪もなくて丸坊主スタイルだし。男は高齢化すると、やはりビジュアル的に難しいですよね。(笑)


その点、マイヤー氏は、今に至っても、そんなに劣化は見られず、上手に歳を重ねているな~と思います。


これはかねてより自分の持論で、もちろん異論のある人もいると思うのだが、オーケストラの中心、肝となるのはじつは木管楽器だと昔から思っている。オーケストラの中段のど真ん中に配置されている木管群。そしてオーボエ奏者たち。


よくクラシック・コンサートの演奏会のビデオやライブ中継を見ると、そのカメラワークで、途中でパンで木管奏者、オーボエ奏者を抜く瞬間があってこれが妙にカッコいいのだ。いや~オーボエ奏者、木管奏者って華があるな~。カッコいいな~といつも思うのは、この瞬間である。


たしかにオーケストラでは、弦楽器奏者がそのサウンドの大半を担っていることから、弦楽器奏者が中心という考え方が妥当かもしれないが、自分的には、じつは木管楽器、オーボエ奏者がオケの花形ポジションであるように思うし、その嫋やかな音色は、オーケストラ・サウンドの肝となっているように感じる。


自分のずっと昔から抱いている持論である。この持論は、ずいぶん昔から、このブログを始めた2013年頃からず~っと言い続けていることで、日記にも何回も書いてきたことだ。


”木管奏者、オーボエ奏者はカッコいいのである。”


この持論は間違いないと思っている。


自分の中でそのイメージを初めて確立させてくれたのが、ベルリンフィルのアルブレヒト・マイヤーとジョナサン・ケリー、そしてエマニュエル・パユとのツーショットだったのだ。


イケメン3人によるこのツーショットは、本当にサマになっていて、木管、オーボエ、フルートはカッコいい。演奏中にカメラに抜かれるその瞬間がカッコいい、と最初に思ったのがこの3人であった。


すべてがそこが原点になって、いまの自分の想い込みがある。(笑)



今日の日記の主役はアルブレヒト・マイヤー。


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1965年、ドイツのエアランゲンに生まれ、幼少の頃からオーボエを始める。バンベルク交響楽団首席奏者であったゲアハルト・ショイヤーに師事した後、国立パリ音楽院でモーリス・ブルグに師事する。クラウディオ・アバドの提唱により設立されたECユース・オーケストラに参加するなど、早くからその才能の片鱗を示す。


2年間の兵役を経てハノーファー音楽大学に入学、インゴ・ゴリツキに師事。1990年、バンベルク交響楽団首席オーボエ奏者に就任。1992年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団首席オーボエ奏者に就任する。


現在の活動


ベルリン・フィル首席奏者としての活動のほか、グスタフ・マーラー・ユーゲントオーケストラやザビーネ・マイヤー管楽アンサンブル、ベルリン・バロック・ゾリステンのメンバーとしても活躍し、アバドの指揮でモーツァルトのオーボエ協奏曲をドイツ・グラモフォンに録音している。



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天下のベルリンフィルのオーボエ奏者の首席をずっと背負ってきた巨人。まさにオーボエ奏者の憧れのような人である。自分もオーボエ奏者といえば、まずマイヤー氏を思い出す。


音色で聴かせる、技巧で聴かせるというのもあるんだけれど、音楽がとても大きくて、演奏に説得力があるという意味において、現代の巨人とでも言うべき奏者だと思う。


その演奏は表情の豊かさと息の長さと強靭さを併せ持ったフレーズ感覚を聴かせつつ、「それしかない」って思わされる演奏をしてくれる。彼がオケで吹いている姿を見るだけで、聴衆の一人としてものすごく安心させられる。(ここが一番大事。ベルリンフィルでマイヤー氏がいつもあのポジションで吹いているのを見るとなんともいえなく安心するし、今日の演奏はこれで大丈夫だと思いますね。)


そんな存在なのである。。。彼は。


ちなみに同じくベルリン・フィルの首席である私の推しのジョナサン・ケリーも素晴らしいです。ここで集中して取り上げたい気持ちはあったんだけれど、「スター奏者」っていう意味で言えば、長くベルリン・フィルに在籍してその地位を不動のものとしたマイヤーの方が認知度も高いと思います。いやでもケリーもめっちゃいいですよ!


自分はいち聴者としてしか接していないが、いっしょにリハーサルをした奏者のこのようなコメントをネットで拝見して、なかなか興味深かった。


●マイヤーのリハーサル


終わり方にとにかくこだわる人でした。リハーサルのほとんどは「終わり」についやしました。この徹底ぶりは初日からGPまですごかった。


最後3~4小節を何度か、いろんなパターンで試しました。例えば、最後の音に入る前で時間をたっぷりとる。または、もうちょっと前で、クライマックスを迎えておいて、流れるように終わる。強弱も色々試してみる。


それをいくつものパターンで試したら、もうちょっと戻ってコーダ(終結部)から最後までを、これを何度か。


先ほどの3~4小節の終わり部分に、うまく辻褄が合うように。最後たっぷり時間をとるなら、どこかで勢いをつけておく。とか、最後流れるように終わるなら、その少し前のクライマックスをどこで、どんな風にやっておくか。それを終結部全体でやったときに、変な流れにならないか。


何回かは、しっくりこないことがありました。 いわゆる変な流れ。 マイヤー氏でさえ首かしげて、「ごめん、もっかい、僕のために」と言って。もう一度違うパターンで試しました。


そんな風に入念なリハーサルはとにかく最後のみ。


最終的に、こうします。とは、決めませんでした。


いくつものパターンで、オーケストラがついて来てくれるのを見て、「何をやっても大丈夫ですね。本番楽しみですね」みたいな感じでGPも終わりました。


本番は、びっくりするくらい「自然」に、まるで何もやってないかの様に、終わってらっしゃいました。


 


大事なのは終わり方


特にバロック時代のゆっくりの楽章の終わり方って、難しいなと、自分の中でコンプレックスをこの時までもってました。終わり方って難しい。でも、この世界的に有名なマイヤーさんでさえ、これだけの時間を費やす部分なのだから、自分にとって難しいのは、当たり前だな。と。ちょっと安心しました。と、同時に彼のリハーサルの仕方から、意外と論理的に、数学的に解決できる問題なんだなと。  わたしの問題点はつじつまがあってなかったことだった。


終わり方というのが、いかに重要か。この時得た、大きな学びでした。


ちなみに、終わり 以外はほとんど「練習」しませんでしたが、始まり方も10パーセントくらいの時間はつかい、何回かリハーサル・打ち合わせをしました。それ以外の中間部分は、毎回一度ふらっと通しただけでした。


 


音楽は静寂からはじまり、静寂に終わる。それは人生のようだ。とバレンボイム(指揮者、ピアニスト)が本で言ってました。人生の始まりは、少し重要で、その後の間の人生はなるようになる。終わりだけは、こだわり 華麗に去りたい。


マイヤーの音楽はそんな感じでしょうか。


・・・・・・


これはなかなか興味深いですね。マイヤー氏の音楽、オーボエパートとしての作り上げ方が垣間見えるような感じで大変興味深かったです。



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アルブレヒト・マイヤーといえば、自分にとって大きな革命をもたらしてくれたのが、オーボエ奏者のソロ作品集である。2010年~2015年あたりだろうか。オーケストラの首席オーボエ奏者が、オーケストラ活動とは別で、ソロアーティストとしてオーボエ・ソロの作品集を出すというのが異常にブームだったときがあった。


普通であれば弦楽・管楽器などで演奏するバッハの作品、モーツァルトの作品を、いわゆるオーボエだけで奏でてることで音楽として楽しもうというコンセプトで、世の中のオーボエ奏者はこぞってこのバッハアルバム、モーツァルトアルバムを出していた。


普段はオーケストラの首席オーボエ奏者を担いながら、別の顔で、オーボエ・ソロ作品集をだすという扱いに、これは同じオーボエ奏者でも本当に限られたスターだけが甘受できる待遇なのだ、と自分は当時思っていた。


まさにオーボエ奏者であれば、誰しもが憧れる感じで、これがまた自分にとってオーボエ奏者がカッコいいと思ってしまうきっかけだったんだな。(笑)


自分にとって、それを最初に経験したのが、ベルリンフィル首席オーボエ奏者のアルブレヒト・マイヤーのバッハアルバムであった。のちにモーツェルトアルバムを出して、自分は迷わず買いました。大切なコレクションです。


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左がモーツァルトアルバム、右がバッハアルバムです。

バッハアルバムはいま廃盤になっているんですかね?販売されていませんよね。



このマイヤー氏のバッハアルバムは、自分にとってあまりに衝撃すぎるくらいインパクトが強かった。もともとはアムスの同期友人から紹介されて知って買ったものなのだが、これがカッコいい。オーボエでバッハの有名な曲を軽やかに吹いていく。イタリア協奏曲、オルガン・コラール、フルート・ソナタ、マタイ受難曲、カンタータ・・・あのバッハの有名な曲を片っ端から全部オーボエで吹いてしまう。


すごく洗練されていてお洒落だな~と思いました。

オーボエ1本だけでこんな世界が実現できるのか!


オーボエのソロ作品というのを初めて体験したのが、このアルブレヒト・マイヤーのバッハアルバムだったのだ。ベルリンフィルの首席でありながら、ソロでこんなことも披露する、というそのポジショニングがすごくイケていてセンスがあるように感じてしまいました。


このマイヤー氏のバッハアルバム、2004年頃かな?当時、iPodに入れて、通勤時間に必ず毎日聴き込んでいましたよ。懐かしい~~~。このバッハアルバム、いまや廃盤なのは、ちょっと残念過ぎますね。


それからである。世の中のオーケストラのオーボエ奏者がこぞってオーボエ・ソロ作品集を出すようになったのは・・・バッハのオーボエ作品というジャンルは、オーボエ奏者にとって、ひとつの定番なのかな、と常々感じていた。ホリガー、ウトキン、ボイド、マイヤーなど 名だたる名手が同じような選曲のアルバムを作っていた。


ロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団の首席オーボエ奏者であるアルクセイ・オグリンチュク氏のオーボエ・ソロ作品とか。BIS録音でしたね。最高に録音が素晴らしく、オーボエ・ソロ作品集としては最高傑作だとも思っています。



アルブレヒト・マイヤーは、そんなオーボエ・ソロ作品を最初に自分に教えてくれたオーボエ奏者だったのです。


そんないろいろ深い想い出のあるマイヤー氏なのであるが、ご存じのょうに最近ベルリンフィル関係すっかりご無沙汰で、メンバーの活動もさっぱりご無沙汰。最近の樫本大進氏が、ひょっとして体どこか悪いのではないの?と思うくらい激痩せしていたのを写真を見て驚いたくらいですから。(笑)


それで、ひさしぶりにアルブレヒト・マイヤー氏のオーボエソロ作品としてどんなものがいままでリリースされていたのか確認してみたら、かなりリリースしているんですね。驚きました。まったく知らなかったです。(笑)


DG STAGE+でそのアルバムを全部聴けるみたいですよ。


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モーツァルト、ヴァッスクス、ベーテリス、R.シュトラウス、・・・などなど。


そして最新のアルバムということで、またしてもバッハアルバムをリリースしたみたいです。2023年8月4日リリースですから、まさにホヤホヤです。



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Bach Generations~バッハ一族3世代の音楽 アルブレヒト・マイヤー、ベルリン・バロック・ゾリステン、ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ




ヨハン・セバスティアン・バッハ[1685-1750]とその一族による作品のオーボエ編曲集。世界最高のアンサンブルのひとつ、ベルリン・バロック・ゾリステンと共演しています。


演奏されているのは、ヨハン・セバスティアン・バッハの大叔父であるヨハン・クリストフ[1642-1703]で始まり、2人の息子カール・フィリップ・エマヌエル[1714-1788]とヨハン・クリストフ・フリードリヒ[1732-1795]で終わるバッハ一族の3世代の作品。このコンピレーションはバッハ家への音楽による招待状と言えるかもしれません。


これまたチャレンジングなコンセプトですね~。


DG STAGE+で新譜群はストリーミングで聴けちゃいますが、敬意を表して、この新譜はCDとして購入しました。


最初の出音の暖かいオーボエの音色。あ~なんとも懐かしいこの郷愁を感じるような音色。

オーボエの音色ってほんとうに心から癒されますね。すごい暖かいです。


リード作り、ふくめ、いちばん演奏するのが難しい楽器でもあるオーボエ。


今回入っているバッハの曲は、バッハ一族三世代にいたる親族の曲を集めたものということですが、どれもいままで聴いたことのあるようないかにもバッハという感じのメロディで、全然違和感なかったです。


とくにいちばん冒頭に入っているチェンバロ協奏曲第4番イ長調 BWV.1055。

これはもうお馴染み。マイヤー氏の最初のバッハアルバムでも入っていましたし、他のオーボエ奏者のバッハアルバムではかならず入ってくるキラーコンテンツです。勢いのある陽気な作品で、おそらくケーテン時代の作品と言われている。私たちにとってはコレギウム・ムジクムのために、1730年代後期にライプツィヒでバッハが編曲したチェンバロと弦楽版のみで知られていますが、ソロとトゥッティの生き生きとしたかけあいは原曲がむしろもっと早い時期のものであることを示唆しており、おそらく1721年頃ケーテンで書かれたものと思われているようです。オリジナルのソロ楽器はオーボエだったのではないかという声も多くあるそう。


ほんとうにバッハの息遣いが感じられる、いかにもバッハらしいアルバムでした。

やっぱりバッハとオーボエは相性がいいと思います。


この録音の前にマイヤー氏は、ライプツィヒの聖トーマス教会を表敬訪問していて、教会前のバッハの像やバッハのお墓を目の前に、バッハの偉大さへの敬意、そしてこの録音にかける意気込みを語っていました。


録音もすごく良くなっている。やはり録音技術も日々日進月歩で進歩していますね。

自分の頭の中には、あのマイヤー氏の最初のバッハアルバムのイメージ、録音のテイストがいつまでも残像として残っているので、それと比較すると最初の出音で、うぉっこれは音がいい!という感じで、驚きました。


まず情報量が断然違う感じで、オーボエの基音に対し、もっと柔らかい細やかな音色の響きや余韻など、いわゆる倍音成分が豊かにそこに重畳されている感じで、かなり情報量多いな、という感じです。音場もずっと豊か。柔らかい音触で情報量が多いのです。もう聴けば明らかです。


これはもう言葉で説明するもんじゃありません。聴けばわかるはずです。聴けば一聴して、もう昔と全然違う感じで、音いい!と思いますから。


いかにも新しい最新録音技術という感じです。


同じバッハアルバムでも、廃盤になってしまった最初のマイヤー氏のバッハアルバムより、今回のほうが数段レベルの高いバッハアルバムとなったと言っても過言ではないでしょう。




マイヤー氏と共演しているベルリン・バロック・ゾリステン。


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最高のオーケストラから最高のメンバーが集まった、夢のバロック・アンサンブル。バロック音楽の権威としても知られる元ベルリン・フィル第1コンサートマスター、クスマウルが率いる超豪華メンバー。オリジナル楽器全盛の風潮に一石を投じ、モダン楽器ならではの音色とダイナミックな表現で、バロック音楽に新鮮な息吹を与えている。その演奏はバロックに食傷気味の聴衆をアッと言わせ、日本でも大反響を呼んでいる。95年に、17・18世紀音楽の最高レベルの演奏を聴かせるという目的で結成。意図して現代楽器を使用し、バロックと現代の「合成」をアピールしている。


ブックレットの写真を見ると、町田琴和さんも参加されていますね。

町田さんも、ベルリン・バロック・ゾリステンには古くから参加されているベテランですよね。




2023年1月28日~2月1日、ベルリン、シーメンスヴィラで録音収録されたもので、プロデューサー、編集、ミキシング、マスタリングは、クリストフ・フランケさんだ。録音エンジニアは、セバスティアン・ナットケンパー氏。じつにいい仕事をしている。レーベルはDGから出ているけど、録音スタッフは、ベルリンフィル・メディアのメンバーということであろうか。


じつにいい仕事をしている、と思いました。

グッジョブ!です。



アルブレヒト・マイヤーは、自分とほとんど同い歳ですね。(1歳、マイヤー氏のほうが下)ベルリンフィル・メンバーとしての任期もいよいよ大詰め。最後の集大成を決めないといけない時期にも来ているのであろう。


でも、これからもますますソロ・アーティストとしてずっと活躍していくような明るい将来が待っているような気がします。それだけのじゅうぶんなキャリアを積んできた訳ですから。


まさに自分の世代、ど真ん中のアーティスト。自分の想い入れも深く、ずっと自分の中に深く入り込んでいるアーティスト。


一生忘れられないオーボエ名手であることだけは間違いないと思います。











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東大学生食堂の赤門ラーメン [グルメ]

東京大学。昔受験生だったころ目指していた時期もありました。(笑)東大といえば“日本一”、伝統や歴史、最先端の研究、リベラルアーツ・・・。そんなキーワードを思い浮かべる人が大半かと思うが、「学食」もまた、東京大学を知る上で欠かせないキーワードの一つなのである。


そんな東大の学生食堂でランチを食べてみたいとかねてより思っていた。



東大本郷キャンパスの学生食堂は、キャンパス内でもっとも広い中央食堂(526席)をはじめ、第二食堂(314席)、銀杏メトロ食堂(264席)、農学部の食堂(254席)の4つ。ほかにも洋食店・日比谷松本楼の別業態やスターバックス コーヒー ジャパンが入っていたり、昼時にはキッチンカーが来たりと、学生はランチを選び放題であり、毎日熾烈なランチ戦争が繰り広げられているそうだ。


そんな中で、今回チャレンジしてみたのが、東大本郷キャンパスのメイン食堂である「中央食堂」。赤門と並ぶ本郷キャンパスの象徴、「安田講堂」前広場の地下にある食堂だ。オープンは昭和50(1975)年。当時としては類を見ない学生食堂として誕生し、50年近く東大生の胃袋を支え、今では修学旅行のツアールートにまでなっている人気スポットだそうだ。(笑笑。。。ホントに~?)


大学の学生食堂に、学生じゃないよそもんが勝手に入って食べていいのか?と思うかもしれないけど、この中央食堂だけは、一般の人も利用できるオープンな学食なんですね。平日だけでなく、土日もやっている。なんせ、修学旅行のツアールートになっているくらいだから(笑)本当にオープンで、自分もちょっと東大生になった気分が味わえたりする。平日はもちろんランチタイムは学生が利用するので、11:30~13:30の間は学生優先の利用でお願いします、という但し書きはある。


中央食堂は2018年に東京大学創設140周年記念事業としてリニューアルされたため、内装もきれいだ。それ以上に、“誰にでもオープンな学食”でありながら“学生ファースト”だという点が魅力的なのだ。



また、11~21時までという学食とは思えない長時間営業なのも学生にとってありがたい。ランチタイムとあわせて18時前後も混雑する時間帯で、どうやら大学院生が研究の途中で夜ご飯を食べに来るなど、学内に遅くまで残っている学生や職員が多く利用しているらしい。



大学関係者以外でもだれでも利用できる東大中央食堂。


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じつはあの孤独のグルメにも登場しているんですね。


原作・久住昌之・画・谷口ジローの原作漫画にも登場しているし、これは自分の記憶だけど、松重豊さんの実写版ドラマでも東大中央食堂は取り上げられていたと思います。


うほ ここからか?

秘密基地食堂だ。

洒落たことするな

さーすが。


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お、この構造ホントに・・・

学食サンダーバード基地!


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中央食堂名物 赤門?

しかもいちいちハーフがある。


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よし!引っかかったところでエコノミー定食に

麺ハーフ、赤門


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安田講堂。学生時代憧れました~。


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中央食堂はこの安田講堂の真下にあるのだ。東大のシンボルの安田講堂を見ることができて、しかも学食も体験できる、ということで、この中央食堂が修学旅行のツアールートになっているんですね。(笑)



こんなところから入ります。まさに秘密基地食堂。(笑)


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中央食堂は、昔は2階にメニューのサンプルが掲示されていたコーナーがあって同時に、ここに券売機があったのです。そして実際の食堂の1階に降りていくみたいな。


でもいまやメニューのサンプル、券売機は全部撤廃されていました。じかにオーダーして、それをレジに持って行って、そこで直接お会計です。


この2階に食堂を横断する渡り廊下があってそこから食堂を一望できます。


まさに。。


お、この構造ホントに・・・

学食サンダーバード基地!(笑)


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学食の1階に降りていきます。


メニューはこうやって電子掲示板になっています。今風ですね。


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自分はもうなににするか決まっていました。東大中央食堂の1番人気、名メニュー赤門ラーメンです。東大学生食堂に来たら、かならずこれは経験しないといけません。



券売機はありません。学生は、食事カードみたいなICカードを持っていて、それに現金をチャージするようなマシンがありました。その食事カードでレジで電子決済です。一般の人は現金決済です。


さっそく学食でオーダーします。トレイを持って学生に混じって・・・あ~なんかドキドキ。(笑)恥ずかしい・・・。でもあきらかに学生じゃないおじさんとか一般の人も多かったです。


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学生のオーラはやはりすごいですね。なんか学生ってのびのびしている。まったく警戒心がないというか、すごいのびのびオーラがすごい。自分のように40年間厳しい社会、人間関係の荒波に揉まれて生きてくると、どうしても縮こまった萎縮した人柄になってしまいますが、学生ってほんとうにまだ人生未体験ゾーンが多くて、そんな萎縮することが全然なくのびのびオーラが本当にすごい。


眩しかったです。(笑)



ここがレジ。ここで決済。自分の場合、一番端の1番,2番のレジで現金決済。一般の人の現金決済と学生の食事カードの電子決済とでレジが分かれています。


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そして、いよいよボクも東大生に混じりながらランチ。夢にまで見た東大学生食堂で東大生といっしょにランチです。


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これが赤門ラーメン。


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ふつうのラーメンのようなスープと麺というよりは、麺の上に赤い辛い餡が乗っていて、それを麺とかき混ぜながら、いわゆる”まぜそば”のような感じで食べるのが赤門ラーメンである。餡かけ麺なので、最初からかき混ぜて食べるのだ。自分は中サイズにした。



この中央食堂には、1日200~300杯は売れる名物麺がある。その名も『赤門ラーメン』。安田講堂と並ぶ同大の象徴・赤門をイメージしている。


赤門ラーメンは平成5年、駒場キャンパス(同目黒区)で誕生した。1,2年生は駒場で学び、本郷へ通うようになるのは、学部によっても異なるが基本的には3年生以降だ。シェフの土肥明さん(現中央食堂)が「がんばって本郷に行くぞ!」という学生へのメッセージも込めて開発した。


中華麺の上に、もやしをたっぷり乗せ、キムチのもととパプリカパウダー、豚ひき肉などで作った赤いあんをたっぷりかけている。ピリッとした辛さとコクが広がる汁なし麺で、小・中・大と3サイズから選べる。多くの人が注文する中サイズは生協組合員価格で408円。


土産品として『赤門拉麺Tシャツ』も販売されている。



中央食堂は、大学創設140周年記念事業の一環として、同30年4月にリニューアルオープン。オムライス専門店やイスラム教徒も安心して食事ができるハラルコーナーも登場し、メニューは約150種類と充実した。それでも赤門ラーメンは人気1位を誇るメニューのままだという。


東大学生食堂の1番人気、名物メニューをここに食す。


真っ赤な餡。超辛いという触れ込みだったのだが、思っていたほど激辛ではないため食べやすくて美味しかった。まっあえていえば麻婆麺みたいな感じだな~と思いました。


あっという間に瞬殺で食べ終わってしまった。あっけなかった。


赤門ラーメン、確かにいただきました。

美味しゅうございました。



東大学生食堂、中央食堂はどんな印象だったか?


今年の7月に自分の母校である北大で北大学生食堂、同じく中央食堂でひさしぶりにランチを食べた。北大中央食堂では、やはりコロナ対策の敷居板などの装備が物々しかった。


それでも尚、学生同士たむろいながら、一緒にグループでご飯を食べている場合が多く、食べながらぺちゃくちゃおしゃべりを楽しむ。そういういかにも学生っぽい雰囲気だった。


でもここ東大学生食堂である中央食堂は、かなり雰囲気が違うと思った。


基本、孤食が多いような気がする。


一人の男子学生は、席に座るや否やラーメンをたいらげ、すぐに去っていった。ここ東京大学本郷キャンパスの食堂では、彼のように滞在時間が短い学生もよく見られ、大勢で来て長時間おしゃべり・・・といった“学食あるある”な光景はあまり見られない。一人で来てサッとごはんを食べて帰る、そんな学生が多い。


そのため“回転が速い”らしい。(笑)なんだかとても東大生らしい。もちろん数人で来ている学生の姿も見られたので、その過ごし方は自由だ。


なんか北大学生食堂とはえらい雰囲気が違うな~と思いました。


東大中央食堂。なんか毎日ここでお昼ごはんを食べたいです。(笑)

すごい清潔で綺麗な学食で、メニューも豊富で美味しい。

学生の中に混じって食べるのは楽しいです。


家の近くにあったなら、毎日お昼ごはんはここで食べるのになぁ~と思っていました。


食堂の上の2階には素敵なカフェがあって、そこで学生たちは勉強しながらそれぞれの時を過ごしていました。


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