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義経のスマホ [歴史]

菅田義経が登場したときは、真っ黒でサイコパスな感じでいままでの義経像にはない斬新で衝撃的な印象だったが、それも第20回「帰ってきた義経」の回のときは、日本中が大きな悲しみに襲われ、義経ロスが起こった。


やっぱり稀にみる素晴らしい義経像だったと思います。


そんな義経ロスをカバーするかのように、その第20回放映の翌日からスマホドラマの「義経のスマホ」がスタートした。


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結構話題になってます。そして自分もずっと観てきたのだけれど、かなり面白いし笑えるし、NHKもこんなことができるんだなぁ~とその意外なセンスに驚きました。


全編スマホだけで送るSF時代劇第3弾!“史上もっとも陰キャな義経”がスマホ片手に平安時代を駆け回る。頼朝挙兵のネットニュース、後白河法皇の動画配信、平氏とのクソリプ合戦、御家人たちの未読無視…激動の義経の人生がスマホ画面にギュッと詰まった5分×全8話!


「源義経がスマホを持っていたら?」という設定と全編スマホ画面のみという演出、“史上最も陰キャな義経”という新しい義経像、そして過剰に詰め込まれたパロディーと歴史小ネタで、深夜の5分番組にも関わらずTwitterのトレンド入りするなど大きな話題になっている。


である。


写真のように、画面の真ん中にスマホがあって、そこのLineでチャットをしていくというただそれだけである。そのチャットの内容が、義経の史実のできごとなんですね。


頼朝とはビデオ電話であったり、もちろんスマホの背景にはその歴史舞台があって、そこに登場人物がでてきたりする。


でも義経は、スマホを打つだけだから、絶対姿を現さないのだ。ただ声と、スマホをタイピングするその指が出るだけなのだ。


義経の言動は、すべてスマホのLineのチャットで表現されるし、そのLineを通じて他の登場人物と会話を進めていくのだ。


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史実は鎌倉殿の13人に準拠しています。でもかなりパロディっぽくかなり面白いです。笑えます。


もちろんLineのチャットだけでなく、スマホニュースが飛び込んできたりで、【速報】源頼朝、伊豆で挙兵!・・・のニュースを読んで、よし!兄上のところに行こう!とか。


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このように頼朝(塚本高史さん)から直接、ビデオ電話がかかってきて会話したりとか・・・


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またビデオ電話でなく、普通の電話もこのように梶原景時からかかってくる。梶原景時とはいろいろ対立したから、そんな有名な対立話をパロディ込みでする。


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Lineのチャットで使われる番組特製のスタンプがすごい人気なんですよね。(笑)特によく使われるのがアグリー。(合点!)このスタンプ欲しい~ってみんな言ってます。


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あくまで画面中央にあるスマホが主役。スマホで展開される会話だけで、義経の史実をなぞっていこうという感じだ。そして義経は、声とタイピングする指だけの登場。



源平クソリプ合戦!MAPアプリを頼りに屋島の平氏を急襲。SNSで拡散すべく、那須与一の扇チャレンジをビデオ撮影。スマホが捉えた絶体絶命の大ピンチ!?


「それあなたの感想ですよね?」平宗盛にクソリプを飛ばして悦に入るネット弁慶の義経。梶原景時からの電話を完無視し、屋島に陣を構える平氏を急襲する。



最終決戦壇ノ浦!先陣をめぐり梶原景時とメッセージバトル。「頼朝兄貴からの“いいね”が欲しい!」功を焦る義経が、あのスマホ“あるある”をやらかし大ピンチ!


SNSの壇ノ浦攻めグループ。平氏打倒の功を焦る義経は、みずから先陣を切ることを強引に主張する。頼朝に「お前が頼りだ」スタンプをもらっている自負。それが梶原ら御家人たちの反発を買い、ある重要なメッセージを未読無視していることに義経は気づいていなかった。・・・



こんな感じでスマホの現代感覚で、進行していく。結構巧妙でこれが笑えるんだな。(笑)


史実では義経は、頼朝と不仲になり、腰越で留め置かれ、鎌倉入りを許されなかった。でもこのSF時代劇では、頼朝が義経をブロックしてしまう(笑)ことで表現するんだな。



頼朝にブロックされた!?裏アカツイートが流出し、クソDMが義経に襲い掛かる。唯一の癒やしはVチューバーへの高額スパチャ。窮地の義経を救ったのは…。


頼朝は電話にも出ずメッセージも未読無視。さらに、ある御家人によってネットに拡散された義経の裏アカツイートの数々。襲い掛かるクソDMに所領没収。弁明することもかなわない義経は、失意の中で相談系Vチューバーの配信に高額スパチャを飛ばす日々…。


こんな感じである。かなり笑えます。


声とタイピングする指だけで姿を見せない義経は誰が演じているのか?番組から正式に公表されました。


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川栄李奈さんでした。


世の中、かなりどよめいてましたよ。(笑)そうだったのか~~~という感じで。


川栄さんが出演する「義経のスマホ」は、スマホ画面で進んでいく風変わりなSF時代劇で、源頼朝(塚本高史)、弁慶(小澤征悦)らは画面に映るも、義経は声とスマホの画面しか映らない。


だがしっかりと甲冑(かっちゅう)は着ていたようで、「実はばっちり装備しております いつでも戦えます よろしくお願いします」・・・だそうです。(笑)


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ばっちり装備しながら、スマホをタイピングしていたんですね。


じつはこのタイピングがすごいのだ。スマホを両手で持って、両手の親指を使って、超高速でタイピングしていく。すごいな!と思ってしまう。


いかにもいまのスマホ世代の若者という感じです。あんなにはとてもできないです。自分は片手で文字入力です。


あのタイピングの才能は舌を巻きました。


ちなみに、NHKの深夜0:25~0:30で放映されているたった5分の番組なんです。5分だからあっという間。


レコーダで録画より、やはりスマホで観るのが本筋でしょう。


NHK+(プラス)に入会しましょう。NHKは地上波、衛星で流したテレビ番組コンテンツを、インターネットで再配信しています。NHK+というのは、そういうネットでの番組再利用を視聴するアプリなのです。


登録無料だし、お金かからないです。ぜったい登録しておいた方がいいです。スマホで観るのに、自分はずいぶん重宝してよく使っているアプリです。


義経のスマホも、NHK+で過去分もいっせいに観れます。スマホで、義経のスマホって検索したら、その動画再生画面が出てきます。


それを再生するだけです。(視聴するにはNHK+のアプリを登録している必要があります。)期限付きコンテンツだから、時期が来たらサーバーから消去されちゃうので、観るならいまのうちです。


じつは、このスマホSF時代劇、義経のスマホが最初じゃないんですね。過去に、「麒麟がくる」の光秀のスマホとか、「新選組!」の土方のスマホとかあるんだそうです。(笑)全然知らなかったです。


NHKってこういう洒落たユーモアのセンスがあるんだな、と改めて感心しました。


全8話中、今日に第7話で明日最終回。ちょっと紹介するのが遅れて申し訳なかったですけど、いまからでも過去分を一気に観れるので、ぜひ観てみてください。1話がたった5分ですから、あっという間に追いつきます。


すごい面白いよ。







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双六 [歴史]

鎌倉殿の13人で出てくる双六(すごろく)。この時代の貴族や御家人たちの遊び、ゲームだったんですね。


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自分はドラマで出てくるその双六をみて、なんか妙に現代のあれに似ているな、と思いました。


そう!バックギャモン。


なんか、あまりにそっくりなんで、どうしても反応せざるを得ない。駒の並べ方といい、盤のマス目状の閾といい、なんかあまりに似ている。自分はドラマで最初に見た瞬間、これは絶対バックギャモンだと確信しました。



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自分は高校生のときに担任の先生に、コントラクト・ブリッジとバックギャモンを教えてもらったのでした。独身の数学の先生だったが、社宅に住んでいて、よく生徒達を自宅に呼んで勉強を教えてもらっていたのでした。そのとき、余興として、ゲームとかやっていて、そのときにコントラクト・ブリッジとバックギャモンという高尚なゲームを習ったのです。さすが、先生、大人だな~、と感心したことを昨日のように覚えています。


大人のゲーム、社交的なゲームとして、名高いコントラクト・ブリッジとバックギャモン。日本のみならず、世界的に協会が存在しますね。まさに大人のゲームです。


高校生のとき、自分でもバックギャモンのボードゲームを買って持ってました。家庭内で妹とよくやってました。


これは自分が思うことですが、このゲームは1人でもやろうと思えばできますね。1人遊びができるゲームだと思います。


大河ドラマで、鎌倉初期の時代の双六が、あまりにバックギャモンとそっくりなので、思いっきり反応してしまい、すかさず、バックギャモンについて調べてみました。



バックギャモンは基本的に2人で遊ぶボードゲームの一種で、盤上に配置された双方15個の駒をどちらが先に全てゴールさせることができるかを競う。世界最古のボードゲームとされるテーブルズの一種である。日本には飛鳥時代に伝来し、雙六・盤双六の名で流行したが、賭博の一種であるとして朝廷に禁止されている。


・・・とあります。飛鳥時代といえば聖徳太子の時代ですね???だから鎌倉時代よりはるか昔の時代からあったゲームだったのです。


自分は確信しました。この頃に双六と言っていたのは、バックギャモンのことに違いないということを。


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バックギャモンは、こうやって、最初に駒を配置して、サイコロの出た目に応じて駒を動かしながら、ぐるっと左回りに旋回して、自分の陣地に早く全部駒を寄せたら勝ちです。駒がひとつしか置いてない場合は、そこに相手からヒットされる可能性があります。そうするとハンディが出来てしまうのです。


高校生の時に買ったバックギャモンは、もうとうに紛失してしまいましたが、大人になって、社会人になってからバックギャモンをあらためて買ったのでした。もう20年以上前かな?部屋の中で誇りをかぶってました。


20年以上ぶりに開封するバックギャモン。開けたら、まだ買ったばかりの新品未開封でした。(笑)


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ひさしぶりにバックギャモンやってみたい~~~と思いました。コントラクト・ブリッジもひさしぶりにやってみたいです。コントラクト・ブリッジは麻雀と同じで、4人必要ですね。頭を使う非常に高尚なゲームで、大人の社交場の遊びとしてとても有名です。日本、世界レベルで、コントラクト・ブリッジ協会という組織が存在します。まさに世界共通レベルの娯楽のたしなみなのです。


コントラクト・ブリッジやバックギャモンって、もう日本でも世界でも大会がありますね。毎年日本や世界の都市を巡りながら、その大会が開催されているのではないでしょうか。世界中の腕自慢達が集まります。


外国人のみなさんと一緒の同じ時を過ごすには、こういうゲームを通じてが案外いいのかもしれませんね。



ところで、先日の鎌倉殿の13人。かねてより神回と噂されていた通り、衝撃的な展開でしたね。


佐藤浩市さん演じる”上総介広常”の無念の死に広がった衝撃。。。


自分はプライベートはもちろん、仕事でも辛いことがあっても、1日寝たら、翌日はケロッとするタイプですが、今回はさすがに翌日にも残りましたからね。(笑)


こんな展開になるとは、まったく思っておらず。ドラマ冒頭のクレジットで、善児(梶原善さん)があったとき、あっ今日もなんか悲劇が起こるとは予想しましたが。。


あまりの衝撃で相当ダメージ大きかったです。


鎌倉草創期って史実では本当に血みどろの抗争劇なんですが、そういう雰囲気を感じさせないように、どちらかというと、喜劇風なテンポで進んでいて、その合間に悲劇をちょこっと入れ込むみたいな感じでバランスとっていたと思うのですが、今回は、あまりに重い、というか。。。


自分が思うには、ここまで沈み込ませたら、次回からの展開に影響を及ぼすのではないか、またなにごともなかったように、あのテンポ、雰囲気で進めることってできるのかな、と心配しました。


それだけ衝撃でした、です。


頼朝がいる御所にて誅殺された後、そこにいた多くの御家人らが頼朝に一斉に忠誠を誓ったシーンは、物語の一つの分岐点と言えるものでしたが、自分はかなり拒否反応。


”頼朝嫌い”、”全部大泉のせい”  Twitterのトレンド、ネットで騒然となりました。(笑)


年寄りの傾向として、あの頃は・・・という論法だけは避けたいと思っていますが、やっぱり思い出しちゃうんですよね。


いまから43年前の1979年の草燃えるのときの”上総介広常”は、小松方正さんが演じられていて、あのようなキャラだから、”上総介殿”って、もう悪人キャラだったんですよね。


「頼朝に対して無礼だった」


「他の御家人に対しても横暴・横柄であった」


てな感じで、誅殺されても仕方がないような感じだった。


でもそれって時代が違うんだと思いました。あの頃は、巨人、大鵬、卵焼き、という感じで、主役はつねにヒーローのように扱われて、それに反する者はいつもダークヒーローに描かれていた。


ドラマ作りの時代の違いなんだと思いました。


佐藤浩市さんの”上総介広常”があまりに人間味溢れた素晴らしい人物として演じられていたし、あと御家人謀反はフィクションなので、あういう風に伏線を引いて落とし処を作るとは驚いたし、その後の手紙の件とか、尚更その悲劇のギャップが。。。いずれ誅殺されることはわかっていても、ここでか!という感じでしょうか。


三谷脚本の真骨頂という感じですね。あらためて感心したし、さすがにすごいと思いました。


小松方正さんが、「武衛(ブエイ)、武衛(ブエイ)」と頼朝のことを呼んでいたのを思い出しました。でも上総介が双六をやっている最中に梶原景時に殺害されるところはまったく覚えていないです。ひさしぶりに総集編DVDを見てみたいです。


青木 崇高さん演じる木曽義仲も、自分の昔のイメージと全然違って、義を通す真っ当な人物像に描かれていて、すごい新鮮味があります。そう描かれるからこそ、その後に待ち受けている悲劇の衝撃度合いが増大するという感じでしょうか。


史実通り、昔のイメージのままの継承ではあまりに面白くないし、フィクション含め、よりエンターティメントに展開するという感じなのでしょう。


頼朝のイメージも従来のドラマのように歴史上の英雄という面だけでなく、もっと冷酷な嫌な部分をどんどん出していくんでしょうね。


大物俳優ではできない、大泉洋氏だからこそできる頼朝になるのではないのでしょうか。


今回の惨劇で、自分はいよいよこのドラマの真髄が始まるな、と予感しました。これはまだ序の口です。


本当に始まるのは頼朝が死んでから。頼朝が生きている時代はプロローグに過ぎない。総集編は、頼朝存命時代は全部カットする可能性もある。



「鎌倉殿の13人」が本当に始まるのは頼朝が死んでからなんですよ。「強い権力を持った人が突然死んだあと、残された人たちがどうしていくのか。」それが今回の最大のテーマ。


三谷幸喜さんはこう言ってはばからない。


43年前では、純朴で好学の青年だった北条義時(松平健)は、頼朝死後の幕府内で繰り広げられた政争の荒波を乗り越えていくうちに次第に変貌を遂げ、政敵と見なした御家人を様々な計略をめぐらして容赦なく排除・殺害していく冷徹な権力者として、若き日とは全くの別人格となっていく様が描かれた。


子供時代の自分はその変わりようにあまりにショックで立ち直れなかったです。


鎌倉殿の13人では、北条義時がどのように描かれていくことになるのか、どのような変貌があるのか、あるいは根底にいい人を残しておく感じなのか。楽しみで仕方がないです。



「史実無視とか荒唐無稽とか言われまくり。」とか言われているけど、大河ドラマはまず”ドラマ”であるべき。エンターティメントとして満足できるものをつくりたい。


この言葉に大きく期待したいです。


今年の大河ドラマは、間違いなく43年前の自分の記憶を上書きして、間違いなくそれを超えると確信しています。







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腰越状の現代語訳 [歴史]

鎌倉殿の13人では、源義経を本当にブラックというかサイコパスに描いていて、ちょっと自分のいままでの義経像を根本的に覆すような衝撃を受けている。


逆に木曽義仲はすごく義に厚い真っ当な人物に描かれていて、義経=ヒーロー、義仲=悪役という従来のイメージが全く反対なのには恐れ入りました。


木曽義仲は、平家打倒に一躍名を馳せるものの、京で狼藉を働く、粗野で野蛮な悪党というイメージだったので、あれだけ、義に厚い正義の味方のように演じてしまうと、京の狼藉などの史実をどのように描写するのか、逆に楽しみになってきます。


巴御前の1本眉毛もカッコいいですね。(笑)


そんな源義経所縁の地、満福寺を訪れてきた。最初に訪れたのは、いまから5年前の2017年のとき、第1次鎌倉マイブームでアジサイを特集していたときだった。江ノ電とアジサイということで、この満福寺は絶好のシャッターチャンスの場所なのである。


まず、藤沢駅に行ってみた。江ノ電は鎌倉~藤沢間を走る電車である。一度でいいから、この鎌倉~藤沢間を最初から最後まで江ノ電に揺られて乗ってみたかったのである。


初めての体験。ここが江ノ電、藤沢駅。


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義経所縁のお寺、満福寺は、この江ノ電の腰越駅にあるのだ。


腰越駅。


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江ノ電らしい小さな駅。


江ノ電って、本当に街の中の密集した中を、ギリギリで走っているという感じなんですよね。


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江ノ電のあるところには、必ず江ノ電を撮るカメラマン、鉄ちゃんの姿があります。


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満福寺は、この腰越駅から歩いてすぐのところにある。


ありました!


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ここが、源義経所縁のお寺、満福寺。鎌倉殿の13人の”源義経ゆかりの地”という旗がなびいています。


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なぜ、この満福寺が源義経ゆかりの地なのか、というと、平家滅亡に追いやった武勲をあげた義経であるけれど、朝廷からの官位を頼朝の許可なく、勝手に受けたことなどで、頼朝の怒りを買い、頼朝との不仲の溝ができてしまい、義経は、鎌倉入りしようとしたところ許可が下りず、この腰越の満福寺で留まざるを得なかったのだ。


そのときに頼朝に許しを得ようと思い、頼朝に対し、自分の心情を綴ったお手紙を書いたのだ。義経が手紙の内容を言うのを、武蔵坊弁慶が手紙に書き綴ったとされる。


このお手紙のことを”腰越状”という。


満福寺には、その腰越状をしたためる銅像もあった。


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手紙は大江広元に送られて、頼朝へ取り次いでもらったものの、結局義経は鎌倉入りを許されず京都へ引き返すこととなった。


この満福寺には、その腰越状の実物の展示や、腰越状の現代語訳が200円で売られていること、そして義経所縁のお寺ということで義経に纏わるいろいろ記念な展示があって、義経ファンには堪らないお寺なのだ。


2017年に行ったときは、単に銅像を見ただけで、あとは江ノ電とアジサイを撮っただけであったので、今回はお寺の中も参拝して、ご本尊様や、たっぷり義経所縁の展示を拝見してこようと思ったのである。


義経は、なぜ頼朝と不仲になっていき、悲劇の道を歩むことになったのか。


天才的な軍事戦略家であった義経は、きっと明るい未来が待っているに違いない、と前途洋々だったに違いない。頼朝と不仲になった理由として一番有名なのは、義経が、頼朝の許可なく朝廷、後白河法皇から官位をもらってしまったことである。


それがなぜそんなにいけないことなのか。


源頼朝という人は、鎌倉で坂東武者、東国武士団を束ねていく上で、自分と彼らとの間の関係を強固な結びつきとするために、絶対的な規則のようなものを作り上げたのだ。源氏は各地にたくさんいるのに、なぜ、頼朝のところに軍勢がみんな集まって巨大勢力になっていったのか、なぜ東国武士団は、みな頼朝に従おうとしたのか。


そのからくりは、頼朝は、彼らの所領を保証したからである。坂東武者にとって一番大切なことは、自分たちが代々受け継いできている所領、土地を守っていくこと。この所領は、お前のものだ、というようにお墨付きで、保証してあげる。


京の朝廷へは、頼朝を通じて、御家人たちの各々の所領を保証するという算段をとった。御家人たちは、頼朝を通じて朝廷から、自分たちの所領を、お前のものだときちんと保証してもらったのである。


頼朝はここに目を付けた。坂東武者にとって一番大事なのは自分たちの所領であることを知っていて、この仕組みを作り上げた。御家人は、自分の所領を、頼朝、朝廷に保証してもらうかわりに、奉公を捧げる。鎌倉殿、いざ鎌倉!というように鎌倉殿に忠誠を尽くす。このギブ・アンド・テイクの関係を作り上げた。


鎌倉以降、江戸時代に至るまでの武家政権で、この土地を保証、その代わりにご奉公という関係性は受け継がれていくことになる。この関係を最初に作ったのが頼朝なのである。


だから、この御家人と頼朝との関係性の規則を破るのは、あまりにご法度なのである。


義経が、頼朝の許可なく官位(検非違使)をもらってしまうということは、そんな頼朝を勝手にスルーして、朝廷とやりとりをしてしまうことを意味していて、これは頼朝にとって、自分の権力の基盤のルールを根底から覆すことを意味していて、とても許せる行為ではないのである。


頼朝は、西田敏行さんの後白河法皇に、頼朝だけではなく義経をもうまく自分の力になるように天秤をかけるやり方に、”あなたは大天狗だ”と手紙を書いている。



史実でも義経は、軍事的なセンスには長けているかもしれないけれど、そのような政治的なセンスに疎い人で、空気が読めない人だったようなので、そのようなかけひきなどまったく知らぬ存ぜぬという感じで、自分はなにか悪いことをしたのか?という感じだったに違いない。


ここまでが、自分が普通に知っている一番有名な原因だ。


ここからさらに歴史マニアの層になっていくと、はたしてこの腰越状の真実はいかなるものなのか。吾妻鏡にある腰越状の描写は捏造に違いないとか、いろいろあって、自分もどれが真実なのか、わからない状況だ。


歴史マニア層で議論されている頼朝と義経の不仲の原因として、単に朝廷から勝手に官位を授かったことだけではない、という説もある。


一ノ谷合戦後に義経が無断で検非違使に任官したことが頼朝の怒りを招いたわけではなく、また壇ノ浦合戦後に義経が鎌倉に向かったときにすでに両者の関係が完全に破綻していたわけでもなく、義経が京に戻った後、平氏討滅の恩賞として頼朝から伊予守に推挙されたにも関わらず、検非違使にも留任して鎌倉への帰還を拒んだ時点で両者の仲は決定的に破綻したとしている。



頼朝が平氏追討の恩賞として当時受領の最高峰だった伊予守を与えたのも、通常は検非違使と同時兼任できないことから暗に京から離れ鎌倉に帰還せよとの意思を伝えたものだったのだ。でも結果的に検非違使と受領を同時に兼任できたのは、後白河法皇によるもので、義経を鎌倉から独立した独自の武力として活用しようとしたことに起因している。


義経が検非違使を兼任し、京に留まり続け頼朝による鎌倉召還を拒んだことで両者の仲は決定的に破綻したものではないか、という理論だ。


自分は、この説にはかなり説得力があって、自分のいままでの考え方から、この説にずいぶんぐらついているのが現状である。これが理由なら、そりゃ、義経も悪いし、頼朝が怒るのも無理ないよね、と思ってしまう。


まさにたぬきじじいの腹黒い後白河法皇らしいし、西田敏行さんが演じればこれは最高にそんな屈折した関係などもうまく演じてくれる感じがしますね。頼朝が手紙で、後白河法皇に、”大天狗”と送ったのはわかるような気がします。


語りだすと止まらないので、このくらいにしておく。この頼朝と義経の不仲の原因は、鎌倉殿の13人ではどのように描かれるのか、いまから本当に楽しみです。


さて、その腰越状の現代語訳は、ここで売っている。200円を出すと簡単に入手できる。


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ついでに、前回はできなかった満福寺の中を拝観させてもらうことにした。


玄関入ったところに、いきなり腰越状。(笑)


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これは、鎌倉時代の現物ではなく、江戸時代に創作されたものなんですね。


満福寺の中はとてもお洒落で可愛らしくて、義経ファンには堪らないお寺だと思います。


こちらは客殿のほうに行きます。客殿は全部で3部屋あります。


こんな客殿が広がります。


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義経が着ていた鎧なのでしょうか・・・


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部屋の上のほうには、こんな絵が飾られています。


源平八島大合戦


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勧進帳、安宅の関


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いずれも義経大活躍ですね。勧進帳は歌舞伎にもなっていて有名ですね。でも勧進帳は今回の大河ドラマでやるかな?タッキーが主役した大河、”義経”では勧進帳やりました。


ここが満福寺の大本尊さまです。すごいですね。


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満福寺は襖絵がすごいのです。義経の生涯を描いた襖絵。義経と弁慶の都落ちで奥州に向かう旅すがら。義経の鎧姿。まさに義経カラー一色です!


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義経の最後、弁慶が仁王立ちで全身に矢を受けます。


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そして静御前です!大河ドラマ楽しみですね~~~。


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なぜかピアノというよりは、クラビアという呼び方が相応しいバロック的な楽器が置いてあります。


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天井もすごい模様です。


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お寺なので、位牌を安置しているお部屋もあって、そこの天井も芸術的なのです。


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源義経公慰霊碑


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弁慶の手玉石


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義経公手洗の井戸


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腰越状を書くために、硯に水をくみ上げるとき、弁慶がこの井戸から水をすくった、という伝説があります。


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弁慶の腰掛石


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まさに、源義経一色の楽しいお寺です。義経ファンには堪らないと思います。


帰りに、江ノ電とアジサイを撮るショットで有名なフレームです。


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家に帰ってから、腰越状の現代語訳を読んでみます。義経が兄弟の情に訴えて、お許しを得ようという感情が伝わってきます。


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腰越状


源義経おそれながら申し上げます気持ちは、鎌倉殿のお代官の一人に選ばれ、天皇の命令のお使いとなって、父の恥をすすぎました。そこできっとごほうびをいただけるものと思っていましたのに、はからずも、あらぬつげ口によって大きな手柄もほめてはいただけなくなりました。


私、義経は、手柄こそはたてましたが、ほかに何もわるいことを少しもしてませんのに、おしかりを受け、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いています。あらぬつげ口に対し、私のいいぶんすらもおきき下さらないで、鎌倉にも入れず、したがって、日頃の私の気持ちもおつたえできず、数日をこの腰越でむだにすごしております。


あれ以来、ながく頼朝公のいつくしみ深いお顔にもおあいできず、兄弟としての意味もないのと同じようです。なぜ、かようなふしあわせなめぐりあいとなったのでしょう。


亡くなられた父のみたまが、再びこの世にでてきてくださらないかぎり、どなたにも私の胸のうちの悲しみを申し上げることもできず、またあわれんでもいただけないでしょう。


あの木瀬川の宿で申し上げました通り、私は、生みおとされると間もなく父は亡くなり、母にだかれて、大和国(現在の奈良県)宇田の郡龍門の牧というところにつれてゆかれ、一日片時も安全な楽しい日はなかったのです。


その当時、京都も動乱がつづき、身の危険もあったので、いろいろな所へかくれたり、遠い国へ行ったり、そしていやしい人たちまでにも仕えて、何とかこれまで生き延びてきました。


忽ち、頼朝公の旗揚げというめでたいおうわさに、とびたつ思いで急いでかけつけましたところ、宿敵平家を征伐せとのご命令をいただき、まずその手始めに義仲を倒し、つぎに平家を攻めました。


ありとあらゆる困難に堪えて、平家を亡ぼし、亡き父のみたまをおやすめする以外に、何一つ野望をもったことはありませんでした。


その上軍人として最上の高官である五位ノ尉に任命されましたのは、自分だけではなく、源家の名誉でもありましょう。


義経は野心などすこしもございません、それにもかかわらず。このようなきついお怒りをうけては、この義経の気持ちを、どのようにお伝えしたなら、わかっていただけるのでしょうか。


神仏の加護におすがりするほかないように思いましたので、たびたび神仏に誓って偽りを申しませんと、文書にさしあげましたが、お許しがありません。せめて、あなたのおなさけによって義経の心のうちを、頼朝殿にしらせていただきたいと思います。


うたがいがはれて許されるならば、ご恩は一生忘れません。


元暦二年五月



源義経


進上因幡前司殿



情に訴えるお手紙。つねにつげ口のせいにしていて、自分はなんらやましいところはないと言っています。朝廷から官位を受けたことも源氏の名誉としていて、まったく悪びれたところがありません。義経は、やはり純粋でうぶで、政治的なかけひき、やりとりには疎い人だったのかもしれません。


そういうところが日本史上長らく言い伝えられてきた悲劇のヒーロー、判官贔屓たる所以なのかもしれませんね。







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大江広元 [歴史]

キタ~~~という感じですね。頼朝の知恵袋、まさにブレーンの存在。大江広元、ついに登場という感じです。結構、自分的には待ってました~という感じです。


この大江広元が登場してから、頼朝の依存度が激増していきますね。まさに右腕、ブレーンという感じで、つねに頼朝の傍にいて、常に相談されつつ事を進めていく感じになります。京都、朝廷事情に精通していて、坂東武者には足りない部分を、一手にこの大江広元が引き受けて、鎌倉幕府の基盤を築いていきます。


公文所、政所として、その別当として主に朝廷との交渉にあたり、その他の分野にも実務家として広く関与していくのです。まさに政治のための実務家なのです。文人政治家という感じですかね。頼朝は重用します。鎌倉幕府の中ではかなり重要な人物なのです。キーパーソンなのです。


「成人してから後、涙を流したことがない」と、後年自ら述懐したという逸話があります。大江広元の情に流されない冷静な人物像が反映された逸話で、なかなかニヒルな役でもあります。


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鎌倉幕府の一番の特徴は、全国に守護・地頭を置いたことです。守護は警察で治安を守る役割で、地頭は税金を徴収する役割ですね。この守護・地頭を全国に置くことで、頼朝、鎌倉幕府の全国支配が現実的なものになりました。


この守護・地頭を各地に置くことを提案したのは、大江広元の案だったとか。


頼朝の死後、後家の北条政子や執権・北条義時と協調して幕政に参与しました。承久の乱のときも、大江広元はあくまで鎌倉方に立って主戦論を唱えた北条政子に協調、朝廷との一戦には慎重な御家人たちを鼓舞して幕府軍を勝利に導いた功労者の一人でした。


朝廷官軍を鎌倉で迎え撃つという論を退け、いやいやこちらから京都に登って朝廷官軍を撃破するべき、という強硬論も大江広元のアイデアで、結局その通りになって、幕府軍を勝利に導いたのです。



だから、今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、登場から最終回まで、主役の味方として君臨していく役柄になるはずです。


三谷脚本の妙もあって、ドラマの全体のトーンとしてコミカル調が微笑ましいですが、本当はこの時代のドラマは、まさに血と血で争うドロドロの抗争劇なのです。(笑)でもそんなに暗くならないように、三谷脚本がバランスを取っている感じですね。


いまみんな仲良くやっている御家人たちも、ドラマ後半になっていくにつれて、1人1人とどんどん粛清され滅ぼされていく感じでしょうか。寂しくなります。


そんな中で大江広元はその抗争に巻き込まれることなく、つねに権力側に居て、最終回まで安心して観ていられる存在なのです。


いままでは御家人たち同士で和気あいあいという感じでしたが、大江広元が登場したことで、ドラマに1本の芯が入ったような感じになると思います。


そんな大江広元、ついに登場!という感じで、いやいや存在感ありましたねぇ。切れ者という雰囲気ありました。さすが!という感じです。自分的にはついにキタ~~~という感じです。



自分は、1979年の「草燃える」のときに、はじめて、この大江広元という人物を知りました。当時は、岸田森さんが演じられていました。


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岸田森さんは、もう故人ですが、当時はとても渋い名脇役というか、いい役者さんでした。石坂浩二さん演じる頼朝に、傍につねに岸田森さん演じる大江広元が居て、つねに相談されている、というシーンがすごく印象的でした。石坂さんの頼朝と岸田さんの大江広元は最高に絵になったコンビでした。そのときに大江広元って知的な人でカッコいいな~と子供心に思ったものです。自分は岸田森さんの大江広元の大ファンだったのです。


だから今年の鎌倉殿の13人で大江広元の登場を待ち望んでいたのです。いやぁ~初回からじつに存在感あってよかったです。只者じゃない雰囲気が溢れていたし、他の御家人とちょっとカラーが違うし、インテリの雰囲気がありますね。今後、大泉洋・頼朝の傍にいて、つねに相談してアドバイスを受けている図が日常茶飯事の通常になっていきますね。


大江広元を演じるのは、栗原英雄さん。


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すごい2枚目で、いい男だし、かなり存在感あって、只者じゃないなと思いました。役者としてオーラありますね。デキル男を演じるにはもってこいという感じです。セリフ口調も威厳あります。


岸田森さんの広元は、どちらかというと優男のインテリという感じでしたが、栗原さんの広元は、もっともっと存在感があって、威厳あります。


栗原さんは劇団四季にいらっしゃったんですね(1984年入団)。そして2016年の真田丸でテレビ出演デビューだとか。大変申し訳ないのですが、自分は存じあげませんでした。申し訳ありません。年齢は自分とほぼ同世代(1歳下ですが、社会人歴は先輩ですね)。


劇団四季で数多くのミュージカルに出演され、2009年退団。退団後は舞台や映画を中心に活動を続け、2016年に大河ドラマ「真田丸」(真田信尹 役)でテレビドラマ初出演を果たしました。


ご自身の演劇論として、


芝居で大切なのは相手役の反応や出方であり、それを敏感に受けそして返していく演技こそが最上の演技である。


「感情は自分で作るのではなく相手役からもらうもの。自分がどうしたいかというのを相手にぶつけた時に、相手役の反応によって初めて感情は生まれる」


「自分は自分の色だけでは生きられない役者。カメラマンや演出家の言葉が必要」「自分を常にニュートラルな状態に置くことも重要」。


役をもらい役に入ると、普段の生活もその役の感じでしかいられなくなりがち・・・だそうです。


出演作の中に、「私糖尿病ですって(2015年)」というのもあって親近感がわきます。(笑)


先日の初登場のときの印象は、これはかなり切れ者で、頼朝にグサッとささる確信論を告げ、もう周りの御家人もうかうかしていられない、という怖い存在のような感じでしたね。


大江広元は、実際の史実においても、大河ドラマにおいても、とても重要なキーパーソンなので、ぜひ注目してあげてください。


期待しています。


2017年の自分の第1次鎌倉マイブームのとき、源義経所縁のお寺として満福寺を訪れました。頼朝と不仲になり、平家を滅亡させたあと、義経は鎌倉入りを頼朝に拒否されます。そこで、弁明のお手紙、いわゆる腰越状をこのお寺で弁慶にしたためさせるのです。この腰越状は、大江広元に送られたと言われています。


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当時撮ったこの写真、すごく懐かしいです。この腰越状、いま現代語訳もふくめ、この満福寺で200円で売られているそうです。ぜひふたたび訪れて、現代語訳を読んでみたいです。どんな釈明の内容なのか・・・




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烏帽子 [歴史]

鎌倉時代、平安時代の男性は、必ず烏帽子をかぶる。これが織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の時代になると烏帽子をかぶらなくなる。もうじかにチョンマゲでもろだしである。自分はビジュアル的に烏帽子をかぶっていたほうが、カッコいいな、と昔から思っていました。


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白拍子も女性が男装しますので、烏帽子をかぶります。


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烏帽子はそもそも貴族の文化ですね。源頼朝の鎌倉時代の武士もその貴族文化から脱することができず、烏帽子をかぶる文化でありました。


自分はいつもこの時代のこの烏帽子をかぶった貴族や武士の歴史ドラマを見るたびに思うのは、それぞれの役者さんの頭のサイズに合わせて、ぴったしカンカンのサイズだということです。


そしてきちんとビシッと頭に固定されている。あれ、どうやって固定しているのかな?昔の貴族や武士はどのように頭に烏帽子を固定させていたのかな?


そして寝るときとか、烏帽子を脱ぐことってあるのかな?という疑問を常日頃から持っていたのです。


そこで、ちょっと自分的にこの烏帽子について、少し調べてみよう、詳しく知ってみたいと思うようになりました。



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烏帽子は、公家や侍(仕える下級貴族)たちの日常のかぶり物として徐々に庶民にも広まっていき、武士たちも着用するようになりました。


小結(こゆい)という烏帽子の内側の紐(ひも)を髻(もとどり)の根元に結びつけて固定します。


→ここです。ここです。これが烏帽子と頭を固定させるテクニックです。髻(もとどり)については、あとで説明しますね。



平安時代には羅(うすもの)つまり薄い布でできていたため軽く小結だけでも十分に固定できました。特に侍(下級貴族)たちは折烏帽子にしてかぶっていたため侍烏帽子とも称されていました。武士(武装農民)たちも侍(下級貴族)に習い折烏帽子を用いていったと思われます。


そもそも長髪は大陸の影響を大きく受ける貴族の特徴であり、武士(武装農民)は元々は農作業や狩猟、領地争いにおける戦争で邪魔になるため古代から短髪だったという説もありますが、平安時代ころには武士(武装農民)たちもしだいに長髪になっていたと思われます。


●髻(もとどり)は髷(まげ)とは違う


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飛鳥時代以降大陸から伝わり、髻は冠や烏帽子また兜などをかぶるために頭頂部で髪(肩を越すぐらいまで伸びた髪)をまとめて結って立てている部分で、このような貴族の髪型を烏帽子髪もしくは烏帽子下と言いました。


武士(武装農民)たちも髻をして烏帽子をかぶるようになりましたが、室町時代以降には月代(さかやき)を剃って頭頂部で曲げて結うようになり髷(まげ)と言われるようになり、烏帽子そのものをかぶらなくなりました。


→髻(もとどり)というのは図のように、長髪を上のように束ねることを言うんですね。確かに江戸時代の髷(まげ)とは違いますね。


そして烏帽子の内側の紐(ひも)と、この髻(もとどり)の根元を結び付けて固定させていたんですね。


でも、これは大昔の髻(もとどり)の髪形にしていた貴族や、武士だからそのように固定できましたけど、大河ドラマでの現代の役者さんたちは、普通の短髪の髪形なんですから、どうやって烏帽子を頭に固定させているんでしょうね?(笑)ビシッと固定されていて、ちょっとやそっと動いても、ズレませんよね。


●髪型は人に見せられない


髪型は実際に文献や図面資料に見られることはほとんどありません。冠や烏帽子を人前で外すことはいわば人前で下着(パンツ)を脱ぐぐらい恥だったからです。ただし自宅や親しい人との寛いだ場では冠や烏帽子を外すこともあったとされます。


とはいえ前述したように恥を感じるのは貴族にとっての風習であり、貴族に習って着けていた武士(武装農民)らは室町時代以降はしだいに日常的にかぶらなくなっていきます。織田信長などをテーマにした戦国時代のドラマや映画などでは烏帽子姿の武士が少ないイメージで、しだいに月代をしている武士たちも見られるようになります。


→烏帽子を人前で脱ぐこと、髪型を人前でさらすことは、下着、パンツを脱ぐくらい恥ずかしいことだったんですね。(笑)鎌倉殿の13人で、大泉頼朝と小栗義時が、露天風呂に入るシーンのときに2人とも烏帽子をかぶっていたので、お風呂入るのに、それってありなのかな?と不思議に思いましたが、全然史実に沿った正しい時代考証だったという訳です。


烏帽子はもちろん寝るときも外さないです。烏帽子をかぶったまま寝るみたいです。



●「てっぺん」の語源は髻と烏帽子を出すための兜の孔


平安時代までは兜をかぶるときに髻と烏帽子を兜の天辺の孔から出して固定しました。


冠や烏帽子だけでなく、兜も頭頂部で結わなければかぶることができないので、必然的にかなり高い位置で結っているのが分かると思いますが、天辺の孔が語源となり最も高いところを「てっぺん」と言うようになったとされています。


鎌倉時代以降は兜の天辺の孔から髻と烏帽子を出さなくなり(戦いのなかで掴まれてしまったり孔を弓矢で狙われるため)、髻を結わずに烏帽子をかぶるようになります。また室町時代から戦国時代にかけてしだいに烏帽子そのものがかぶられなくなっていきます。



→つねに烏帽子をかぶることが慣わしとはいえ、戦の兜をかぶるときは、どうやっていたんだろう?というのは、やはり疑問ですね。上記のように、まっだんだん烏帽子をかぶらなくなっていった、というのが歴史の史実なんですね。


情報引用元:

平安時代の烏帽子についてのあれこれ



でも昔の人にとって、烏帽子を脱ぐということは、パンツを脱ぐことと同じくらい恥ずかしいことだった、というのは驚きました。だからお風呂に入るときも寝るときも烏帽子をつけたままだったようです。


自分の長年の疑問がひとつ解けたような気がします。




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大河ドラマ館 [歴史]

大河ドラマ館というのは、毎年開催されるものなんですね。その年の大河ドラマのゆかりの地にちなんだ場所を選んで開催されます。もちろん一か所ということもなく、ゆかりの地にちなんで複数場所で開催されることもあるようです。


自分はいままで大河ドラマ館は行ったことがないです。今年初めて行ってみようと思いました。


鎌倉殿の13人は、鎌倉幕府の草創期から武家政権の確固たる地位を築いた承久の乱までが描かれますので、今年は鶴岡八幡宮の境内にある鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムで開催されます。


最初の頃の北条家が伊豆にあったときの物語にあわせて、伊豆の国大河ドラマ館が先にオープンしていました。それに続き、ドラマもいよいよ鎌倉入りということで、鎌倉にもオープンということです。


この日は、快晴。鶴岡八幡宮はとても人の出が多かったです。


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ここが舞殿ですね。静御前が頼朝、政子の前で、静の舞を演じた場所です。頼朝・政子の前で静御前が舞を奉仕したときは、鶴岡八幡宮若宮の回廊に舞台を設置して舞がおこなわれたそうですが、大火で燃えてしまい、後年その跡地に、この舞殿が建てられたのだそうです。


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鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムはここです。鶴岡八幡宮に入って、少し歩いたところ、舞殿まではいかなく、その横から入る感じです。境内の横のほうに鎮座しています。


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ル・コルビュジエに師事した建築家・坂倉準三が設計し、2016年3月に惜しまれながら閉館した「旧神奈川県立近代美術館 鎌倉」。この建物を再利用した文化施設が、この「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」なのです。


このときの改修は丹青研究所が改修設計を担当。基本方針は1951年の建設から15年後、新館が建設された1966年当時の姿に戻すことだったといいます。


とても近代的で美しい建物です。


大河ドラマ館閲覧は、コロナで混雑防止のためチケットが時間割制になっています。当日券を窓口で買ってもいいし、あらかじめネットで購入して、QRコードをプリントアウト、あるいはスマホ端末で掲示して、係員が同じくスマホでスキャンするという感じです。


自分は、12:00~12:30のチケットを購入したので、先に着いてしまい、時間調整のためミュージアムに併設されているカフェでお茶をしました。


とても素敵なカフェです。


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後ろに展示されているこの大銀杏の樹木は鶴岡八幡宮の石段の左にあり、2010年3月の早春の嵐で倒木になってしまったもの。長らく鶴岡八幡宮を見守ってきたかつての姿を偲び展示しているそうです。


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いよいよメイン・エントランスに向かいます。


ここが当日券売り場。


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メイン・エントランスはここから入ります。初日の開場日では、ここでテープカットされていましたね。


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鎌倉殿の13人の世界のはじまりです。出迎えてくれました。


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脚本家の三谷幸喜さん。このドラマの成功は三谷脚本にかかっていますね。いまの時代、現代にあうドラマのテンポ感の良さ。そして1話1話に、必ず芯となる史実のテーマを盛り込んで、劇場型の盛り上がりの展開となるように1話完結型を志しているように思います。捨ての回というのがないですね。平坦な進め方はしないです。必ず1話1話にドラマを作っています。


また前振り、タネの仕込みなど非常に巧妙で、毎回面白くてさすがだな、と思います。激多忙でしょうが、体調に気を付けて1年間頑張ってほしいです。



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音楽のエバン・コールと語りの長澤まさみさん。主題歌かっこいいです。ぜひサントラ買いたいと思います。長澤さんの語りは、物語中もいいですが、じつは冒頭のテーマ曲の巻末に、その回の状況背景を語るシーンがいいですね。毎回違いますね。ここだけでも毎回出演ということになりますね。



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小栗旬・北条義時。期待しています!1年間の長丁場だけど、コロナにはじゅうぶん気をつけて 頑張ってほしい!オレの心深くに43年間居続ける松平健・北条義時をみごと上書き、塗り替えてほしい! ぜったいできる!と思う。北条義時はドラマ前半では好青年なのだけれど、後半になっていくにつれて、政子との連携プレーでどちらかというと冷徹な男に変貌していってしまう。いや言い換えればそうならざるを得ない状況に追い込まれていく感じなのだが。最後、承久の乱で、武家政権を盤石な確固たる地位として築いたのは間違いなく北条義時。自分はこのドラマの場合は、承久の乱が最大の魅せ場、一番頂点の瞬間だと確信しています。


松平健・北条義時がそうだった。好青年から悪役へ、そこら辺の変わり身を三谷さんがどう描いて、小栗旬氏がどう演じていくのか、本当に楽しみです。これは自分の勘なのですが、三谷脚本では悪役も好かれ役のように描かれるので、もっと明るい感じ、正義の味方のような感じなのかな、と予想しています。


北条義時と言えば、小栗旬と自分の頭に埋め込まれ、これからの時代は、そのイメージがずっと続くのは、もう時間の問題でしょう。それだけ期待しています。



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大泉洋・源頼朝。最初キャスト発表の時。え~~~、本当に大丈夫?大泉氏の普段のキャラを知っているので、とても心配だった。歴史上の人物で、自分にとってもっとも重要な源頼朝。頼朝のイメージを壊さないようにしてほしいな~と心配していたが、まったくの取り越し苦労だったようだ。もう上出来。いい感じである。


存在感、貫禄も出てきた。いつものキャラだけではなく、こんな役も無事にこなしてしまうほど大泉氏は非常に器用な役者さんなんだな、と改めて見直してしまいました。もう9回まで進んだが、源頼朝=大泉洋というイメージが定着してきた。逆を言うと、いままで演じられてきたイメージとは正反対の、逆にいままでの頼朝像にはない、情けないところ、弱いところも十分描き出されていて、これは大泉氏しかできない、という幅広さもある。ぜひ自分を見返してほしいと思います。



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小池栄子・北条政子。北条政子は生涯に渡って、尼将軍、気性が激しい、悪女というイメージで捉われることが多くいままでの大河ドラマでもそうだった。だけれど、三谷脚本では、そういう従来のイメージを変えるんではないか、という期待をしている。なんか小池さんのいままでの演じ方を見ているとそんな気がする。その当時の政子の置かれた立場をよ~く配慮した上での人間味あふれる政子を演じてくれるのでは、と。小池さんにはそんな政子がぴったりですね。


頼朝の時代は、あくまで妻としての立場だけれど、頼朝の死後、政子は一気に主役に上がっていく。政権の表舞台に現れてくる。小池政子は一気に主役になります。そしてもちろんこのドラマの最大のイヴェント、承久の乱ではあの政子の天下の名演説。これをどのように小池さんが演じるのか。小池さんにとって最大の魅せ場であることは間違いないでしょう。期待しています。



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菅田将暉・源義経。この人は、まさに衝撃の登場でしたね~。(笑)まさにサイコパスの世界。これで三谷さんの本ドラマでの義経の描き方がわかりましたね。野性味あふれて、戦の天才、サイコパス、でも純真そのもの。間違いなく政治的な振舞、考え方が超苦手。この1番最後の理由から、頼朝と決別していきますね。源義経といえば、やはりどうしても判官びいきで美化、悲劇のヒーローのように描かれていくことが多いですから、そういう路線とは距離を置いたあきらかに違う義経像が見れますね。


菅田さんはまさにはまり役ですね。もう笑っちゃうほどぴったしカンカンのはまり役です。いい配役キャストだったな~と感心します。義経は、やはり華がある存在なので、源平合戦、そしてその後の悲劇に至るまで目が離せません。自分は、義経はものすごく楽しみにしている1人です。



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北条時政・坂東 彌十郎。この方は自分にとって最大のヒット。じつに素晴らしい役者さんだと思いました。じつにいい味出しているなと。ドラマのオアシス的存在ですね。癒し・和みをもたらしてくれますね。ドラマの最大の注目人ではないでしょうか。ネットでは時政パパの愛称で、みんなから愛され好かれている。


草燃えるでは、北条時政は金田龍之介さんが演じられていたのですが、あれこそが北条時政という感じで、自分の中には永遠に刷り込まれていたので、その時政のイメージを一新しましたね。愛すべき、憎めない、でもやるときはやる、頼りになる時政パパという新しいイメージ像を作り上げてくれました。


ドラマ後半に、時政は、義時から追放されることになるのですが、どんな感じになるのか、楽しみです。坂東 彌十郎さんは、趣味でスイスの山歩きが大好きで、いままで33回スイスに足を運んだ趣味人でもある。応援していきたいですね。



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大倉御所。源頼朝は鎌倉の大倉に御所を開いたと言われています。いわゆる大倉御所。鎌倉での政治の要となったところです。この大倉御所のジオラマも展示されていました。ジオラマは写真撮影禁止です。撮影禁止といわれているものを撮ってはいけません。(笑)自分は、展示の中で、これが1番興味深かったです。


へー頼朝の鎌倉幕府って、こんな建物、部屋造りだったんだな~と驚きました。頼朝の居室、政子の寝室などすごい興味深いです。どんな歴史資料をもとに造られているのか、興味がありますね。いわゆる根拠です。


同時に思ったことが、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国時代は、戦からの防御として、濠のある天守閣のあるお城を築くじゃないですか。敵がちょっとやそっとでは攻めてこれないように。


でもこの鎌倉時代の大倉御所は、そんな対敵侵入、対敵攻撃のような仕掛けがないんですね。豪華だけど、丸腰のような屋敷でした。やっぱり時代が違うんだな~と思いました。


まっ鎌倉の土地の構造自体、三方を山に囲まれて、片方は海、敵から攻撃を受けにくい要塞のような土地ではありましたが。。。



サイネージで登場人物を紹介します。


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ドラマで使用される舞台衣装が展示されています。


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体感コーナーといって、手でスワイプするだけで、いろいろな説明が現れるそんな仕掛けがあるような展示物でした。さすがNHKですね。


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ここは、お客さんが男性なら烏帽子をつけて、記念撮影できる、そんな記念ショットのできる場所でした。あなたも鎌倉幕府の御家人という感じでしょうか。


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大スクリーンで、お客さんが足元に描かれている丸枠に入ってもらって13人揃ったら、同時に手を上げたら、なんかこの大スクリーン上で面白いことが起こるんですね。スミマセン、自分はこれをそのまま素通りしてみただけなので、そして13人まだ揃っていなかったので、何が起こるのか、よくわかりません。これは行ってからのお楽しみですね。


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4Kシアター。ドラマが4Kでスクリーンに放映されていました。常に満員の人気コーナーでした。大迫力で高精細でしたね~。自分も家に4K TVが欲しくなりました。


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展示空間はこんな感じです。


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以仁王や後白河法皇の院宣です。


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頼朝が使っていた数珠、そして政子の化粧道具です。


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時代考証・坂井孝一先生が紐解く”鎌倉時代の知られざる本質”本ドラマの坂井孝一先生は、時代考証。大河ドラマにとって、史実とどう摺り寄せていくか、時代考証はとても大事、要ですね。三谷さんが脚本を書いたら、それをまず時代考証の先生方に添削してもらうんだそうです。そして修正を盛り込んだ形で、再度三谷さんが書き直して、本番の脚本となるそうです。



人物相関図も大きくパネル化されていました。


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大河ドラマゆかりの地をマップ化したものも大きくパネル化されていました。これはいいですね!パンフレットみたいな携帯用として欲しかったです。自分は今年は、大河ドラマにゆかりのある土地をいろいろ行脚したいと思っているので。


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1Fには、お土産コーナーがありました。鎌倉、鎌倉殿の13人に因んだいろいろなお土産が所狭しと並んでいました。


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義時の野望というおみやげもありました。(笑)


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初めての大河ドラマ館。楽しかったです。これでますます大河ドラマを楽しく見れそうです。来年の1月まで、開催されているようですので、ぜひ足を運ばれてはいかがでしょうか。素晴らしく感動すると思います。





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静の舞 [歴史]

静御前は、京の白拍子。

白拍子は、今様などを歌いながら男装で舞う女性のこと。


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母は磯禅師。



伝説によると・・・


1182年(寿永元年)、後白河法皇は、神泉苑に白拍子100人を呼んで「雨乞いの舞」を舞わせます。99人までが舞っても雨は降りませんでしたが、100人目の静が舞うと3日間雨が降り続いたのだといいます。


その後、「住吉での雨乞い」の際に源義経に気に入られて妾となったのだと伝えられています。



静は、兄の源頼朝と不仲となった義経が都を落ちるときも行動を共にしていました。「吾妻鏡」よると、1185年(文治元年)11月、都を落ちた義経一行は大物浜から九州への船出を試みますが、船が難破して海を渡ることができず、家人はバラバラとなり、その夜は四天王寺に宿泊。


義経は2日ほどここで待つように告げて行方をくらましますが、やがて迎えの馬がよこされ、3日かかって吉野山へ。


吉野山で、義経は静と分かれることを決意し、義経は金銀の財宝一式を静に持たせ、護衛の男たちをつけて静を京に送り返そうとしました。ところが、途中でその護衛の男たちは、静から金銀財宝を奪い取り、逃げていってしまったのです。


静は1人で深い雪の山の中を彷徨うこととなってしまいました。


11月17日、蔵王堂(金峯山寺)に辿り着いたところを捕えられたのだといいます。 



12月8日、蔵王堂の執行(長)から、当時京都に滞在していた北条時政に身柄が引き渡された静は、翌1186年(文治2年)3月1日、母・磯禅師とともに鎌倉に送られてきました。


頼朝は、鎌倉に来た静に舞わせようとしますが、静はそれを断り続けます。


この事は以前から命じていたところ、病気のためと称して断ったり、わが身の不遇はあれこれ言うことはできないといえども、義経の妾として晴れの場に出るのはすこぶる恥辱であると言って渋り続けていたのですが、政子が「天下の舞の名手がたまたまこの地に来て、近々帰るのに、その芸を見ないのは残念なこと」としきりに頼朝に勧め、「八幡大菩薩に供えるのだから」と言って静を説得。別離からまだ日も浅く、気が塞いでいるので舞う気にならないとその場になっても固辞するのを、再三の命によって舞うことになったそうです。


そうして、4月8日、八幡大菩薩に献舞するということで説得され、鶴岡八幡宮の若宮の回廊で舞を披露することとなります。


静は、義経を慕う今様(いまよう・歌謡)にあわせて舞います。


工藤祐経が鼓を畠山重忠が銅拍子を担当しました。


吉野山 峰の白雪 ふみわけて

入りにし人の 跡ぞ恋しき


(吉野山の白雪を踏み分けて山深くお入りになってしまった義経様が恋しい )


しづやしづ しづのをだまき くり返し

昔を今に なすよしもがな


(静、静と繰り返し私の名を呼んだあの人の輝かしかった頃にもう一度戻りたい)


~梁の塵を動かすほどの見事な舞~


「吾妻鏡」には、「まことにこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし。上下みな興感を催す」と記されています。


参列した者のほとんどが「静の舞」に心を動かされたということなのかもしれません。


頼朝は、静が義経を慕う歌をうたったことから激怒しますが、妻の北条政子は「私が御前だったとしてもあのように舞ったでしょう」と言ってとりなしたのだと伝えられています。


「吾妻鏡」と「北条九代記」によると・・・

1186年(文治2年)4月8日、鶴岡八幡宮で舞った静御前。


若宮の回廊に舞台が設置され、工藤祐経が鼓を、畠山重忠が銅拍子を担当。


静は、白雪曲(はくせっきょく・古琴曲)に舞うかのごとく白い袖をひるがえし、歌声は黄竹子(こうちくし・呉声歌曲)を歌いあげるかのように美しく、その声は空いっぱいに響き渡り、梁の塵を動かすほどの見事さで、見ていた者は上下の別なく感動。



しかし、静が歌ったのは義経を慕う歌。


吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

(吉野山の峰の白雪を踏み分けて、山深くお入りになってしまった義経様の跡が恋しい)


しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな

(糸を繰り返し巻いてできる苧環(おだまき)のように、時をも繰り返して、華やかであった昔と悲しい今を変えることができればよいのに)



頼朝は、


「八幡宮の御宝前で芸を披露するなら、鎌倉幕府の永遠の栄華を祝うべきであるのに、はばかることもなく義経を恋い慕って、離別の悲しさを歌うとは、とんでもない」


として激怒しますが・・・


政子は頼朝にこう言います。


「かつて流人として伊豆にいらっしゃったとき、あなたと私は結ばれましたが、「平家全盛の時だけに、平家に知られたら大変なことになる」と恐れた父の時政は、私をひそかに家の中に引き込めました。


それでも私はあなたを想い、暗い雨の夜に灯もともさず、激しい雨に打たれながら、あなたの所へ逃げていったのです。


石橋山の戦いの折には、一人で走湯権現に逃れ、あなたの行方を知りたい一心で、夜となく昼となく肝をつぶし、毎日生きた心地もしませんでした。


今の静の胸中は、かつての私の胸中と比べて「そうだろう」と思わせるものです。


静の貞節さを思うと、まことに趣深く感じられます」


この政子の話に頼朝は怒りを解いたのだとか・・・


そして、卯花重(うのはながさね)の衣を脱いで、御簾の外に出すと、静はこれを頂戴してうちかぶり退場したのだといいます。



・・・・


これが静御前においてもっとも有名な静の舞のシーンです。


情報引用元:

静の舞~鎌倉と静御前~



このシーンは、「鎌倉殿の13人」でどのように描かれるのか、ホント楽しみですね~。自分が史実で知らなかったのは、頼朝の長女、大姫も、静に南御堂にて舞を納めてもらっていたんですね。


大姫は、自分が愛してやまない悲劇のヒロインなのです。感情移入してしまいます。大姫も「鎌倉殿の13人」でどのように描かれるのか楽しみです。


また、


5月14日には、工藤祐経・梶原景茂・千葉常秀・八田知重・藤原邦道が静御前の宿舎に行って宴会を催しました。


静御前の母の磯禅師が芸を見せてくれたのだといいます。ところが、飲みすぎた梶原景茂が静御前を口説くという不始末を起こします。


静御前は涙を流しながら・・・


「義経様は頼朝様のご兄弟。私はその妾です。御家人の身分で普通の男女のように思っているのでしょうか?義経様が浪人の身になっていなければ、貴方のような者と対面することもなかったはず。ましてや言い寄るなんてもってのほか!」


と抗議したのだといいます。


これも初めて知る史実でした。


そして静の悲劇。義経の子を身籠っていて、女の子であればそのまま返却、もし男の子であれば殺める、ということで、結局男の子。


安達清常に由比ヶ浜に捨てるよう命じられる。これに先立ち安達清常が使いとして赤子を受け取ろうとした。静はまったくこれを出さず、(赤子を)衣にまとい抱き臥し、叫喚数刻に及ぶが、清常は厳しく催促する。


磯禅師が恐縮し、赤子を取り上げて使いに渡した。この事は、政子が頼朝に嘆願し宥めたが叶わなかった。


そして由比ガ浜の海岸に破棄されたんですね。


9月16日 静と母・磯禅師ともに京に帰洛。憐れんだ政子と大姫が多く重宝を賜う。


大姫優しんですね~。政子も歴史では尼将軍として恐れられることが多いですが、普通の女性、母親としての心優しい気持ちが溢れていますね。静の舞に頼朝が激怒した折にも、なだめるなど、政子はつねに静の味方だったのです。


結局、静は、この京に戻ってからは、その後の消息の情報は、どこの史料にも記載されていなくて、不明なのです。


日本史の中に燦然と輝く判官びいきの源義経と静御前のロマンスと悲劇。この鶴岡八幡宮で、頼朝・政子の前で踊る「静の舞」こそ、最大の魅せ場なのです。



この静の舞は、実際生の舞踊として鑑賞することが可能です。


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静の舞は、毎年鶴岡八幡宮で開催される「鎌倉まつり」で奉仕されることになっていて、美しくも悲しい、静御前の物語をしのび、鶴岡八幡宮舞殿で古式ゆかしく再現します。



例年であると4月の第二日曜日であることが多いようです。でも本年度2022年度は、まだ正確な日程は決まっておらず、鎌倉市の正式なアナウンスを待ってからにした方がよいと思います。




静の舞は、鶴岡八幡宮の舞殿でおこなわれます。頼朝・政子の前で静御前が舞を奉仕したときは、鶴岡八幡宮若宮の回廊に舞台を設置して舞がおこなわれたそうですが、大火で燃えてしまい、後年その跡地に、この舞殿が建てられたとか。


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今年は、大河ドラマの関係もあって、ぜひ実際行ってみて、生で鑑賞してみたいんですよね。


コロナ禍の去年は、オンラインでの配信もあったようです。静の舞とはどのようなものなのか、観てみたい自分は、さっそく拝見してみました。


静の舞は16分くらいです。

雅ですね~~~。素晴らしいです。


演者:花柳流 花柳 静美々

先導:鎌倉芸能連盟 会長 中村省司


唄:和歌山 富朗

三味線:東音 大宮悟

    東音 穂積 大志

小鼓:福原 鶴十郎

大鼓:福原 貴三郎

笛:福原 百貴

後見:花柳 花人



当時は、唄は静本人が歌っていたんでしょうね。そして工藤祐経が鼓を、畠山重忠が銅拍子を担当。そうでないと静の意思によるあの義経を想う歌は出てきませんね。


この鎌倉まつりでは、唄と踊りの演者は役割・担当を別に分けています。


静が義経のことを想い慕った、


吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき


しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな


のフレーズは、16分ある舞のうちの冒頭の6分くらいのところに現れます。残りの10分は、また別の唄なんです。たぶん残りの唄は後年の創作なんでしょうね。


歴史の史料、史実としては、この有名なフレーズしか残されていない訳ですから。


花柳流による見事な舞でしたが、じつに雅で優雅な美しい舞でした。これは生で観てみたいです。


大河ドラマとの連携もあるかもしれませんね。この鎌倉まつりの静の舞は、4月の第二日曜日とのことですから、そのタイミングに合わせて、三谷脚本のほうも進められて、そのときの同日にドラマのほうもそのシーンなのかもしれません。



さて昨日、「鎌倉殿の13人」の第6次キャスト発表がありました。もう6回目ですが、静御前は誰なのだろう、ということで当初から注目していたのですが、なかなか発表されずおそらく発表する側もサプライズキャストということで、タメがあるのかな、と思っていたりもしました。


やはり最も華がある注目のキャストだけに、発表するにもじらす作戦、インパクトを強くするような演出があったのかも?


戦前では5人くらい、いろいろな女優さんの候補が挙がっていて、SNSや紙面を賑わしていた。自分もその中の1人だと思っていました。


ところが発表されたのは、


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であった。びっくり。まったくの予想外だった。自分も知らない女優さんでした。お父さんが石橋凌氏、お母さんは原田美枝子さんのサラブレッドです。


静御前の場合、単に綺麗な女優さん、というだけではダメなんですよね。静の舞、日本舞踊がきちんと踊れないといけない。美人であることと踊れること、この両方のセンスが必要なのです。


あと年齢の問題もある。菅田将暉・義経と同じか、歳下でないと。。

この3つをクリアしないといけない。



石橋静河さんのプロフィールを調べてみました。


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4歳よりクラシックバレエを始め、15歳でボストン、カルガリーのバレエスクールに留学後、2013年に帰国し、コンテンポラリーダンサーとして活動する。


これらの体験からバレエ志望であり、両親の仕事を見て簡単な世界ではないと女優を夢見てはいなかったが、アメリカ・カナダへのバレエ留学中に演劇の面白さに衝撃を受ける。コンテンポラリーダンサーとして活動しつつ「もっといろんな人、いろんな面白いことに出会いたい」と考えていた時に「芝居をやってみては」と事務所から声をかけられて、2015年始めより女優としての活動を開始する。


特技は英会話とダンス、趣味はギター。


すごいじゃないですか!!!

ダンス、踊りがもっとも得意。これは確かに静御前にはうってつけというかはまり役ですね。静御前の役をやるうえでの3つの条件をすべてクリアしていますね。


よくピンポイントで探し当ててきました。三谷さんドラマの場合、三谷ドラマの常連、仲がいい俳優さんが選ばれる場合が多いので、三谷さんの知り合いだったのでしょうか?


これは素晴らしい女優さん、見事な選択眼ですね。


出演作も俯瞰してみると、本当にまだデビュー、活動したての女優さんのようで、2019年~2022年度の現在に至る期間に、映画、ドラマ、舞台で活躍しているようです。


まだ活躍しだした短期間なのだけれど、結構作品数が多く、露出度も多いみたいです。露出度は多いのかもしれないけど、自分は全然知らなかったです。(笑)すみません。。。


自分的には、配信ドラマで、東京ラブストーリーの赤名リカ役をやっているのが、かなりアンテナにビビッと反応してしまいました。


このドラマは、まさに自分の世代のドラマでしたから。月刊スピリッツに掲載されていた漫画のときから読んでいて、それがフジの月9でドラマ化されたときも見てましたよ~。たしか1991年でしたね。


鈴木保奈美、織田裕二、一世風靡しました。ひとつの時代でした。


いやぁ~本当に楽しみですね~。


自分は源頼朝、東国武士団の男らしい世界が大好きですが、義経・静御前はとても華があるので、今回の大河ドラマの中でも大きな魅せどころになりますね。


源義経を虜にした都随一の白拍子、静御前。


菅田義経がサイコパスな描き方をされているのには驚きましたが、その義経との物語、本当に楽しみです。







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