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屏風絵を探せ!安土城再建への道 [城]

自分はお城が大好きなんだけど、専門的に詳しいかというとそうでもなく、なんちゃって城マニアに分類されると思うのだが、いつか日本の名城を訪ねつつ日本各地を行脚したい、という夢は持っている。(城郭考古学者 千田嘉博先生の”日本最強不滅の城ライブ”のノンノン版を実践したいのである。(笑))


もう何回も日記で紹介していると思うが、自分にとって1番のお城は、やはり織田信長の安土城である。お城好きの自分の原点のようなお城である。


すべてにおいて革新的な発想の持ち主だった信長による戦うためのお城というよりは魅せるためのお城という意味合いが多かったお城である。


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子供の頃にNHK大河ドラマでCGで再現された安土城の天主を見たのがきっかけで、そのなんとも奇異な意匠に衝撃を受けた。ふつうの伝統的な日本のお城の天守らしくないのだ。いっぺんにその姿に魅かれてしまった。


自分は、もう子供のころから本当に日本史が大好きで(日本史の授業が大好きで大好きで、その時代の人の暮らしを頭の中で想像するのがなによりも楽しかった。)、お城にも心惹かれていたのだが、いわゆる日本の名城と言われるお城の外観と比較して、安土城は、あまりに個性的で、非常に奇異な印象なのだ。


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どこか唐風というか南蛮風というか異国情緒なエキゾティックな感じがして、それが和様と混ざったようなまさに独創的。格好いいのである。


やっぱり信長らしいお城だと思ってしまう。


安土城が、日本の他の名城の外観と比較して、あまりにその外観が奇異と感じるのは、ずばり5階の朱色(赤)の八角形の円堂の外観のところなのだと自分は確信している。


城全体の外観のバランスを観たとき、この赤い八角円堂の部分が、思いっきりインパクトが強くて、我々への印象度を強くしているのである。


安土城は本当に格好いいです。


信長以降、名城がいろいろ建築されていくが、安土城はいろいろな面において、その先駆けとなったお城なのである。〇〇の元祖、オリジナルは安土城だった、という要素はすごく多いのである。そういう意味でも安土城は城のパイオニア的存在だったのだ。


でもこの安土城の天主の姿は、あくまで想像図でしかないのだ。1885年から2005年に至る120年間の間、7人の学者によって、その復元案というのが示された。


天主の復元案として、1994年、内藤昌による復元案が有名である。自分も子供の頃から内藤案で安土城をずっとイメージしてきた。


そこでやはり歴史のミステリーである。信長時代の本当の安土城天主はほんとうにこのようなデザインだったのか?それは自分のみならず、歴史ファンだったら、誰もがそのミステリーを知りたいと思っている。


安土城は1576年築城、1582年に焼失。

わずか6年程度で失われてしまったのである。


安土城は築城から消失までの期間が6年くらいしかないから資料が全然ないのだ。


つまり安土城天主の姿を記録した書類がどこにもなく、その本物の天主を見た人はだれもいないのである。



織田信長に仕えた旧臣、太田牛一という人がいて、彼が信長の幼少期から本能寺までを纏めた編纂した「信長公記」は織田信長の人生を記した公式資料としていまも絶対的な評価、立ち位置にいる。


安土城の中の構造は、その信長公記の中に結構詳しく書いてあるのだ。


どこそこの部屋は何畳あって、その隣の部屋にはこういう飾りがついているとか、いろいろ書かれている。でも残念ながら、外から見た構造についてはいっさい書かれていなく、外観がわからない。


安土城の全体の見た目の資料がほとんどない、と言っていい。安土城天主の内部が、吹き抜け構造であることは、そのような設計図資料が現存していることをなんかの番組で観た記憶があるのだが、外観がどうだったか、という資料はまったくないのだ。


だから安土城天主が本当はどんな意匠だったのかは、誰も知らないし、誰も見たことがないのである。歴史のミステリーなのである。


安土城天主でわかっていること。


内部構造:信長公記などから検討可能。

外部構造:外観を表す資料がない。


である。


当時実際に城を観覧した宣教師ルイス・フロイスなどが残した記録によって、焼失前の様子をうかがい知ることはできる。

ところが信長時代の安土城天主の姿の証拠となる資料が現存する可能性があるのだ。

それが「安土山図屏風」である。下の図は模写図である。


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信長が権力を誇示するために狩野永徳に安土城を描かせた金箔の屏風が、あるイエスズ会員の司祭に贈られ、彼が日本を離れるときに同行した天正遣欧使節によりヨーロッパに送られてローマ教皇庁に保管されているという記録があるのだ。


それが安土城の姿を知る決め手の一つと考えられ、現在に至るまで捜索が行われているが、未だに発見されていないのだ。


当時のその真の姿はいまや誰も知らない。


安土山図屏風は、宣教師の記録から、安土城と城下町を忠実に描いているとみられる。日本に来たイエズス会巡察使に信長が贈った後、天正遣欧使節に託されてローマ教皇グレゴリオ13世に献上された。バチカン宮殿(バチカン)に1592年まで存在していた記録があるが、その後約400年以上、行方不明になっている。


つまり、この屏風絵にこそ、信長時代の本物の安土城天主が描かれているのである。


「屏風絵を探せ!」


これは信長ファン、安土城ファンならずとも、歴史ファンだったら、誰もが熱望する信長時代の本物の安土城の姿である。


本当に数々の復元案で描かれてきたような姿なのか。

もし、全然違っていたらどうしよう?(笑)


自分は最近よくこういう夢を見るのだ。

ニュースでセンセーショナルに報道されているのである。


「信長が狩野永徳に安土城を描かせた金箔の屏風が、ヨーロッパの〇〇の国で見つかりました!」

「これは歴史的に大変な衝撃です。信長時代の本物の安土城はこんな姿だったのです!」


その屏風絵に描かれている安土城天主を見た瞬間、自分は衝撃を受けているのである。


復元案と全然違うじゃんか!

すごい地味じゃんか!(笑)


こんなオチなのである。(笑)


屏風探索は滋賀県が1980~87年に、旧安土町も2004~07年に探索し、バチカンやイタリアに研究者を派遣したが、重要な手がかりは発見できなかった。


自分は、人生を終えるまでの間に、この屏風絵が見つかってほしいと心から懇願しているのである。信長時代の本物の安土城天主の姿が、じつはどうだったのか、知りたいのである。


安土城を再建する、というファンたちの熱い要望がいまも寄せられている。



安土城の再建が進まない理由。それが「資料が少ない安土城」に要因がある。


安土城はなんで中々再建されないのか?


①再建するには情報が不十分(設計図が不明)

②発掘調査が進んでいない(まだ進捗2割程度)

③莫大な再建費用がかかる(数百億円誰が払う。)


①は1番ネックになっている。


設計図があったりとか、長い間建っているならば、それを描いた絵の資料が残っているかもしれないけど、安土城は築城から消失までの期間が6年くらいしかないから資料が全然ない。


安土城再建に関しては、いままでは文化庁は資料が少ないと再建を許してくれなかったのだが、2020年にはちょっと基準が緩くなったのである。


設計図がなくてよくわからない部分があっても史跡の魅力を高めるために整備をしてもいい=復元的整備、再建してもいい、ということになった、のである。


これは大きな譲歩というか、かなり革新的なことだと思うのだ。


文化財復元に関する新ニュース

文化庁が2020年4月に新しい基準を公表。


そうなると、安土山図屏風が、この安土城の外観の資料としてはかなり有力な手掛かりとなってくる。もしかしたら、それが現存しているかもしれない。


その屏風絵を見つけられるかどうか、それが安土城再建のひとつのポイントになってくるのである。


これが見つからないうちに再建してしまい、あとで屏風絵が見つかったときに、あっここ間違っていたなということが判明してしまう。(笑)そうなのだ。一度城を復元してしまうと、新たな史料が出てきた時に変更が難しくなるのである。


もうここまで資料があれば、もういいでしょう、というところまで調べ尽くさないといけないのである。

つまりいまや安土城「屏風絵」の存在が、安土城再建の大きな鍵を握っているのである。

滋賀県が県民に安土城を復元したいですか?というアンケートをおこなった。令和2年7月でのアンケートである。


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建物復元してほしい24.2%

積極的におこなわなくてもいい 29.6%


滋賀県の人はいまのところ積極的な整備をおこなわない、という人が多い。


(賛成派)

安土城は山のてっぺんにあるので、天主ができればそこに行くまでの街道にいろいろなカフェやお土産屋さんもできてお城好きの人がいっぱいやってきて観光地として栄える可能性がある。


(反対派)

いまの生活環境を変えたくない。人がいっぱい来てほしくない。


まっ賛成派、反対派と拮抗している状態であるが、もし屏風絵が見つかれば全然話が違ってくる。

そしてなんと!このたび三度、滋賀県も本格調査開始なのである。


屏風絵発見プロジェクト始動!

屏風が見つかれば、世論も変わる。


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滋賀県の三日月大造知事が安土城が書かれている屏風の情報を、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、フランス語、ドイツ語、英語、これに訳してネットで情報募集することをプロジェクトとしてやるそうなのだ。


今回、県が探索に再び乗り出すのは、築城450年となる2026年にCG(コンピューターグラフィックス)などを用いたデジタルデータ上での復元を行うため。屏風以外の新資料を探す目的も兼ねている。


滋賀県は、屏風探索を世界に発信するため、ホームページを10月26日に開設。屏風が移動した可能性が高い国々の言語であるイタリア語、ドイツ語など6か国語で情報提供を呼び掛けている。三日月知事も東京都内のローマ教皇庁、イタリアなどの大使館を今年度内に訪問し、探索への協力を要請するという。


2006年には豊臣秀吉時代の大坂城を描いた「豊臣期大坂図屏風」がオーストリアの古城で見つかった事例もある。県文化財保護課は「安土城は日本を代表する城郭だが実像が未解明。インターネット時代だからこそできる形で探索する。屏風に限らず、城に関する新資料の発見につながれば」と期待している。


ちなみに、こちらがその2006年、オーストリアのグラーツのエッゲンベルク城で所蔵されていた秀吉時代の大阪城と城下を描いた貴重な屏風絵である。


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2006年、エッゲンベルク城は所蔵していた17世紀初頭の大阪城と城下を描いた大阪図屏風が再発見されたことから、2009年10月大阪城と友好城郭提携を締結した。


屏風絵はおそらく慶長12年(1607年)から慶長19年(1614年)の間に描かれたものと推定されている。豪奢な大阪城だけではなく、町屋や神社仏閣、500人もの武士や町人が色鮮やかに描かれていて、平和な城下の生活が活き活きと伝わってくる。この時代の大阪の情景を留めた絵は、現在ほとんど残っていないので大変貴重な屏風である。


この屏風絵は、秀吉の没後に制作され、生前は日本最大の権力者であり、死後は神として祀られた天下人秀吉の権力と栄華を特に賛美したものといえるのだそうだ。


当時、この秀吉時代の大坂城の屏風絵が発見されたときは大センセーショナルだったのだ。秀吉時代の大坂城の姿の証拠、エビデンスとして。


この屏風の秀吉の大坂城の天守を見てみると、自分が理解していた真っ黒なお城で派手な金の装飾を纏った華やかな天守というよりは意外に地味ですね。(笑)なんか、ふつうのお城の天守みたい。(笑)


信長の安土城の屏風絵がもし見つかったとしても、これくらいの小感動かもしれませんね。(笑)


滋賀県は、安土城の再建をけっしてあきらめていない。いまの時代にあった形で実現しようとしている。


2026年は安土城築城450周年を迎えるため、滋賀県は近江八幡市で取り組む「幻の安土城復元プロジェクト」について、拡張現実(AR)や仮想現実(VR)を使った城の見える化を実現させたい意向なのである。


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安土城の証拠となる現存する資料が少ないため、正直なところ安土城再建の道のりはかなり厳しい。でもAR(拡張現実)やVR(仮想現実)を使ってデジタル再現させようというプロジェクトであれば、再建による費用とかの問題もないし、あとは再現するための資料集めということになる。


こちらのほうが、実物の再建より、ずっと今風で現実性が高いのではないか、と自分も思う。ナイスアイデアだと思います。


見える化はARを使う場合、タブレット端末をかざすと現存する石垣の上に天主や屋敷などの建築物の立体画像が画面に浮かび上がる方式などが検討されている。VRならCG(コンピューターグラフィックス)で描いた天主などの映像を好きな角度から眺められるようなものになる見通しだ。


実際の建築物による復元の選択肢は残す方向だが、難しいとの見方が強い。特別史跡の安土城跡には史実に基づいた再現が求められ、そのための史料は現時点では十分とはいえない。


自分は、安土城再建を夢見る会に入会しているのだが、そのTwitter上で、「安土城をVRで再現する」という動画コンテンツを視聴した経験がある。


安土城天主だけではないのだ。その動画コンテンツを再生すると、本丸、二の丸、三の丸、大手門など、いわゆる安土城全部に関わる構造がCGで描かれ、道案内のように城内を進んでいく、というコンテンツである。


かなり興奮してドキドキしながら観たものである。

これは面白いアイデアだな、と思った。


滋賀県の「安土城デジタル復元案」も、そういう類の試みなのだと思う。今風でじつにいいアイデアだと思う。こちらも、もちろん天主だけではない。いわゆる安土山全般にエリアをひろげてAR/VRで再現するというものである。


鍵になるのは、その再現するための形をどんな歴史的資料を根拠として、そのデザインをするか、ということではないだろうか。


この滋賀県のニュープロジェクト、ぜひ応援したい。2026年にぜひ体験したいのだけれど、どうすればいいのだろう?


実際、滋賀県安土山まで出かけて、そこの風景をスマホやタブレット端末でかざすと、あるいはVRゴーグルをかけて眺めると、そこに安土城が再現するということなのだろうか・・・


ということは、滋賀県まで出かけないといけないということなのですかね?


でもやっぱりCGよりも現物がいい、という人もいるだろう。

安土城再建がなかなか厳しい道である理由にその費用面の問題もある。


安土城再建への道。


①建てたらいくらかかるのか?

城建築には木造と鉄筋とがある。


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お城の世界では、木造のほうが価値が高いのだそうだ。


安土城の鉄筋はすでに存在するのだ。テーマパークとしての安土城が現存する。安土城の鉄筋で300億かかったそうである。


でもやはり文化的なほうに価値を置きたい。

やはり木造である。


(自分はこの点、ちょっと認識が違っていたようだ。鉄筋のほうが建築強度的に全然いいと思っていた。木造だと長い経年とともに老朽化してしまい建築的に危険度が増すのでよくないと思っていたのだ。でもお城の場合は、文化財的には木造のほうが評価が高いんですね。しかも耐久年数も木造のほうが圧倒的に長い。ずいぶん誤解していました。)


でも逆に、木造は耐火構造にしないといけない。

300億より膨大に高くなることは間違いなしだ。


名古屋城も現在は鉄筋であるが、木造建築に復元したいという動きがある。名古屋城木造復元費用は、竹中工務店で見積もると504億だそうである。名古屋城再建費用の各部分でかかる費用を安土城に当てはめていくという方式で安土城再建の費用を見積もってみる。


ずばり安土城再建、木造で730億かかる。


安土城が再建できたとして、その後採算が取れるのか?その730億を回収するにはどれくらいの期間が必要になるのか。


収入・支出で分けて考えてみる。

安土城を再建したとして、考えられる収入と支出はつぎのようなものがある。


収入


天主入場料

税収増(経済波及効果に伴う)


支出


地代

維持管理費

行政コスト


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これらの収入・支出のペースで行くならば、建設費の回収期間 結論、約162年かかる。


あくまで試算であるが、ひいき目に見るならば、


信長にはブランド力がある。グッズ販売もきっと好調。

いまの安土城跡は単なる更地だけど、どんどん経済波及効果がでてきて栄えるに違いない。


そんな感じでしょうか・・・


いずれにせよ、現物の安土城再建には、やはり屏風絵の存在が必要なのである。本物の安土城とはどんな姿なのかを知った上でないと、なかなか再建に向けての動きは加速しないのではないでしょうか。いくら文化庁の文化財復元の基準が緩和されたとしても、です。


そういう面でも、やはり「安土城デジタル復元化プロジェクト」は、現実的な案だと思います。


安土城再建を希望する人は、ぜひYouTubeで「安土城再建への夢Channel」をフォローしてあげてください。結構旬でリアルな情報が得られますよ。自分も今回の日記の情報は、ずいぶんこのアカウントから勉強させていただきました。


安土城再建ももちろんだけど、江戸城再建も忘れないでね。自分はまだあきらめていません。江戸城寛永度天守をぜひいまの皇居の天守台の上に建てましょう!


東京の新しい観光地、経済効果抜群の効果があると思います!


ノンノンの日本最強不滅の城ライブ!来年は必ず姫路城に行くぞ!!!(すでに姫路、新大阪、京都の旅程でガイドブックと予習で旅日程も作成済みなのだ。もちろんグルメも。あとは費用調達の問題だけなのです。)










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秀吉の大坂城 [城]

城郭模型という模型のジャンルがあることを知った。城郭というのはお城のこと全般のことを指す。だから天守閣もそうだし、二の丸御殿や三の丸御殿なども全部のことを指すのであろう。


城郭模型であれば、自分は自分の好きなお城の原点である安土城の模型を作りたいな、そして部屋に飾っておきたいな、と思う。


この城郭模型を専門のお仕事とされている島充さんと素晴らしい方がいらっしゃる。


ご紹介は、もう少しあとにさせていただくが、彼が出された著書の表紙に、とても自分の心がググっと引き寄せられ、これは!と驚いてしまい、急遽、島充さんってどんな人?そしてその著書を購入して読んでみたのだ。


その中に散りばめられている彼の城郭模型の作品の数々、そして城郭模型の作成過程、そのほかいろいろなことを読んで、すごく感動してしまいした。


お城のことは、専門的なことはよくわかっていないけれど、とにかくお城が好きという、”なんちゃって城マニア”にとって、すごく素敵な世界だと思うし、自分をどんどんお城の世界に引き込んでくれる。


城郭模型の世界は、まさに男の世界だなぁーと思います。


こういう自分の世界をきっちり持っていらっしゃる方は素晴らしいな~と思います。


自分が島充さんの城郭模型の世界を知った、そのきっかけは、豊臣秀吉の大坂城、すなわち豊臣大坂城である。


以前、大阪に大阪城を体験しに行ったときに、豊臣大坂城と徳川大坂城との違いについて、お話したと思うのだが、いまの大阪城の天守の意匠というのは、正確には秀吉が築城したときの大坂城とはかなり違うのである。


秀吉の大坂城天守は、漆喰塗の黒いお城だったのだ。そこに黄金のいろいろな柄が塗装されている、見た目かなり派手な天守で、派手好きだった秀吉らしい天守だったのだ。


自分は、それを江戸城天守を再建する会の広島大学の三浦正幸先生のセミナーで、その秀吉時代の大坂城天守の外観をCGという形で見たことがある。


うわぁ、これは格好いいなーと思いました。


その秀吉時代の大坂城天守を城郭模型として、作られているのが島充さんの代表作だったわけだ。


これがその著書の表紙と、模型写真の秀吉が築城した当時の大坂城である。


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超カッコいい~。


大坂城というのは黒いお城だったのである。黒い漆喰塗りに黄金の意匠を施した、まさに派手好きだった秀吉好みのお城だったのである。


そして、これが島さんの城郭模型による秀吉大坂城。


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いま大阪にある復興大阪城天守もとても素敵だけれど、自分はこの秀吉時代の元祖大坂城天守にはかなり惹かれます。ググっと自分をその世界に惹きこんでくれます。


自分が島充さんの城郭模型の世界に興味を惹かれたのは、なによりもまずこの秀吉時代の大坂城天守の姿であった。


黒いお城で、黄金の意匠。

いかにも派手好きな秀吉らしい天下人のお城。



昭和34年(1959年)12月。大坂城総合学術調査のポーリングで、地下7.3mの地点に、漆喰で固められた古い石垣の層が確認された。その後にも数度にわたる発掘がおこなわれ、それらがすべて豊臣時代の遺構であると結論付けられた。


これによって現在我々が目にしている「大阪城」の表土部分は、秀吉が築城した当時のものより最大で10mも高い位置にあり、大坂の陣の後、徳川政権下で大量の盛り土が成された、まったく新しい城郭であることもわかったのである。


現在ある鉄骨鉄筋コンクリート造りの五重八階復興天守は、徳川再築時の天守台を利用した変則的なものである。


豊臣時代のそれは地下二階、地上は六階の黒漆喰塗りで、基本構造は安土城の天主をスケールアップしたものと想像されている。


秀吉時代の大坂城カッコよし!である。


これが自分のこの日記でとにかくアピールしたかったこと。


島充さんの城郭模型紀行という著書もさっそく購入させてもらった。


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島充の城郭模型紀行

島充(著)






基本は城郭模型の代表作の写真集なのだが、その中に説明文もいろいろあり、城マニアにとってはとても面白い。


とにかく写真集がとても素敵だ。


城郭模型の代表作として、


福知山城、二条城、備中松山城、大坂城、熊本城、松江城、彦根城、犬山城、名古屋城、姫路城、広島城


の11の作品の写真が掲載されている。


むさぼるように眺めさせてもらった。いいな~素敵な世界だなぁ。


ちょっと何点かピックアップして紹介しますね。



●二条城


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いま京都にある二条城は、天守が焼失してしまい、二の丸御殿が国宝に指定されてますね。自分も京都に行ったときは、この二条城二の丸御殿の中を見学してきました。徳川慶喜が大政奉還を言い渡したお部屋も見てきました。素晴らしかったです。


天守のある二条城は、いまではとても想像できませんが、この二条城にも天守閣は存在したのです。


天下人のお城は五重の天守というのが、基本ルールなのですが、その最初の天下人の五重の天守だったのが、この二条城天守だったと言われています。


平安京は皇室の権威と、宗教施設による精神的な防御が長く続いてきた。そのため、強力な敵が出現すると、たちまち略駄や大火が発生し、時の権力者は避難を余儀なくされた。


永禄11年(1568年)足利義昭を奉じて京に入った織田信長は、この欠点を克服するため、最初の二条城を造ったが、数年後に破却。現在の二条城は、そこから西南の位置に数町移動して造営されたものなのである。


上の城郭模型の写真は、そんな造営時の天守のあったころの二条城である。立派なお城だったんですねぇ。




●名古屋城


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名古屋城も実際現地の名古屋まで実物を見に行きましたが、ちょっと上の写真とは違いますよね。そうしたら、よく読んだら、この城郭模型は、焼失前の名古屋城天守のようでした。ずいぶんいまの天守とは意匠もデザインも違います。


名古屋城は、元来の姿である木造建築にしようという動きがありますが、素人の自分はどうなのかな、と思います。木造建築は長年経年すると木材が腐敗してきたりで安全性に問題がありますね。そうなったら、また破却せざるを得ないのではないのでしょうか。


木造の高層建築物は危険ですね。耐久年数と安全性から危険だと思います。




●熊本城


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なぜか、この城郭模型では、熊本大震災があって、瓦解してしまったときの熊本城天守を模型として再現しています。当時の記録をそのまま残すという意味合いでしょうか。


熊本城、小学生のときにオヤジの実家、佐賀県にいくときに、九州一周旅行をやったときに熊本県行きました。そしていよいよ熊本城、というときに自分は熱をだしてしまい、オヤジが大層残念がったという想い出があります。


熊本城の中には行けなかったけれど、街の中から天守の姿を遠く眺めた記憶はあります。また、ぜひ熊本城に行ってみたいです。


熊本城天守は、もう完全復興されたんですかね?




●姫路城


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姫路城は、来年の国内旅行の計画の中に入っています。(笑)ぜひ体験してみたいです。日本を代表する世界遺産。白鷺城ともいわれる真っ白なお城で本当に美しいお城です。




城郭模型ってとても素敵な世界でしょう~。こんな世界があるんだな~と感心しました。


そこで島充さんのご紹介。


福岡県生まれでいまも福岡に在住されているんですかね。小さなお寺に生まれる。慶應大学文学部美学美術史学専攻卒業。幼少より日本の伝統建築空間に魅せられ、模型作りに明け暮れる。


大学卒業後、寺務のかたわら模型製作を再開。2015年より作家としての活動を開始する。展示模型、メディア向け模型、鑑賞模型から創作模型まで幅広く手掛ける。


模型製作の域を超えた綿密な考証に加え、臨場感ある写実的な作風を特色としている。



自分は昔プラモデルを作った記憶があるのは戦艦大和。子供時代、戦艦大和が好きで好きで、そのプラモが欲しくてたまらなかった。


親にねだって、やっと買ってもらい朝早く起きては一生懸命作っていましたね。完成したときは宝物でした。


今この歳になって、プラモデル、はたして作れるだろうか?年々進む老眼に、細かい作業をやるときに手が震えるとか、あとそういう細かな作業やっているとき、神経がきちんと集中できないかもしれませんね。細かい作業は精神の集中力が必要です。


技術者、ハードウエアエンジニアを引退することを決めたのも、そういう体力的、精神的な限界を感じたためです。


CADパターン設計で、6層もある多層基板設計をCADでデザイン設計して、6層もあるから2層目は電源ラインで、3層目はGNDライン、それ以外は信号ラインとかで、設計した回路図通りに、部品配置のパターン設計をやって、完成したらそのP板を発注して結線がプリントアウトされた基板が出来上がる。


そこに部品を実装して、はんだ付けして、動かす。動かすためにはソフト屋さんの協力が必要な場合は、ROM/RAMにプログラムを書き込んでもらう。そして作業台でその基板の動作確認をして、性能評価をして、性能をあげていく。


・・・これは、ある意味プラモデル造りに相当する細かな作業だと思います。もう長年そういうことをやっていると嫌になっちゃいました。(笑)、


だからプラモ造り、いまできないんじゃないかな~とも思ったりします。


ぜひ安土城の城郭模型があったら、寄る年波に負けず、作ってみたいです。


城郭模型のアトリエや、制作時の工具や材料なんかもこんな感じで説明が書いてあります。すごいですねぇ。マニアックです。


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島充さんの模型のルーツは、年の離れた姉が進学の地に選んだのは信州、その引っ越しに同行した幼少の島さんが姉に連れられ初めて目にしたのが松本城。


その荘厳で美しい威容に強い衝撃を受け、そのまま松本城のプラモデルを買ってもらい、引っ越しの手伝いそっちのけで製作に勤しんだという。


それが記憶にある限り、島さんのプラモデル初体験ということだそうだ。


松本城、いいお城ですね~。もう何回も実物を見ましたが。このお城も最高に美しい荘厳なお城です。


城郭においては、昭和に再建された多くの天守閣を見て、その復元の正確さだけを基準として評価する向きもあるという。その見方を決して島さんは否定しないのだが、自身としてはもう少し広い視点で捉えている。それはいくら正確に復元したとはいえ、もともとの建物とは物理的にまったく異なるものだという動かしがたい事実。


裏を返せば、それは、失われた建物は二度と生き返ることはないという歴史の不可逆性であり、建物の尊さそのものである。そこを重視する。


だから新しく建てられた建物を見ても、消えてしまった元の建物の姿を安易に重ね合わせることはしない。再建に際し、誰がなにをもとに考証し、どのような設計がなされ、施工時にはいかなる理由で変更が加えられたのかという、再建された背景そのものに興味がわくのだそうだ。



秀吉の大坂城の意匠に思いっきり反応してしまったのがきっかけだったけれど、こうやって城郭模型というジャンルの世界を改めて垣間見て、大好きなお城のことはもちろん、いろいろ勉強させられることが多かったです。


楽しい夢のある世界ですね。






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東京町田で信長の安土城天主を体験する [城]

日本のお城の中で一番好きなのは、織田信長の安土城である。闘うお城というより魅せる城で、日本のお城で初めて天守閣というもの(信長の場合、天主閣)を兼ね備えた先駆けだったとされる。


やはり日本に代表される名城の数々と比較すると、その独特の意匠が堪らなく自分を惹きつける。


それまでの城にはない独創的な意匠デザインで絢爛豪華な城。
この独創的な意匠に、自分は一発でやられた。

なんか日本のお城っぽくない。南蛮の国や唐の国の風情がある。
それが和様と混ざったようなまさに独創的。
やっぱり信長らしいお城だと思ってしまう。


安土城は本能寺の変のあと謎の焼失にあってしまい、そのあと復元されていない幻の名城である。


1885年から2005年に至る120年間の間、7人の学者によって、その復元案というのが示されたが、 天主(ふつうのお城は天守と書くが、信長の安土城だけ天主と書く)の復元案として、1994年、内藤昌による復元案が有名であろう。


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でも安土城ファンとしては、信長が建立した安土城の当時の本当の姿はどんな感じなのだろう?という想いは永遠のミステリーとしてつねに自分の中に内在する。


信長が権力を誇示するために狩野永徳に安土城を描かせた金箔の屏風がアレッサンドロ・ヴァリニャーノに贈られ、彼の離日に同行した天正遣欧使節によりヨーロッパに送られて教皇庁に保管されているとの記録がある。それは安土城の姿を知る決め手の一つと考えられ、現在に至るまで捜索が行われているが、未だに発見されていない。


この屏風がなんとか発見されてくれないかな、とずっと思っているのである。その屏風に描かれた本当の安土城は、復元案と違って意外や地味だった(笑)とならないことを祈りたいが・・・。


なぜ、自分が安土城に惹かれるかというと、そして安土城が、日本の他の名城の外観と比較して、あまりにその外観が奇異と感じるのは、ずばり5階の朱色(赤)の八角形の円堂の外観のところなのだと確信している。


城全体の外観のバランスを観たとき、この赤い八角円堂の部分が、思いっきりインパクトが強くて、自分への印象度を強くしているのだ。


自分が子供心に、思いっきり衝撃を受けたのも、この5階の赤い八角円堂の部分だった。
子供の頃、NHK大河ドラマでCGで描かれたその画面を見て衝撃であった。

いままでの城にはなかった、まさに南蛮、唐の風情である。
さらに最上階の6階の金色の天主も最高だ。


そんな安土城天主がなんと!東京町田で観れる!


きっかけは、吉田類さんの酒場放浪記を観ていた時に、この町田の美術館の紹介があったのだ。えぇぇ~!うそ~町田で観れるの?


もう自分はびっくりして、急いで美術館名をメモして、ネットで場所を確認して、昨日さっそく行ってきたというところである。


昨日はまさに衝撃であった。自分が恋焦がれていた安土城天主が、つい目と鼻の先の町田で体験できるなんて。夢のようである。昨日は興奮が収まらず、日記を書くまでの平常心になるまで、丸1日かかってしまった。


なぜ、そんなことが可能になったかというと、東京・町田市で住宅や不動産を手がける太陽グループの山中泰久氏が大の信長ファンで、その信長に纏わる蒐集したコレクション、およそ600点を管理する一般財団法人太陽コレクションが、東京町田にそのコレクションを展示する美術館を開設した、ということらしい。


「泰巖(たいがん)歴史美術館」。


「泰巖」は、織田信長の戒名である「総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀」の一部。「泰然自若として威厳のある」という意味だそうである。


2020年3月22日にオープン。その直後にコロナ禍にあってしまい、2020年6月に再オープン。まだオープンしたばかりで、知名度も上がっていない状態なのであろう。昨日訪れたときは、自分は開場時間の1番乗りで入ったせいもあるのか、客は自分しかいなく、あとで老夫婦が1組という感じである。


信長好きの個人コレクションから美術館へ。

信長好きが高じて600点のコレクション蒐集!


資産家というのは、本当にお金持ちだと思うが、これだけのコレクションをするだけでも、その月日と総費用はいったいいくらになるのであろう?


お金を持っている人は、本当に持っているんだな、と驚くばかりである。


泰巖歴史美術館は全部で5Fのフロアからなる。

1F/2Fが「信長の生涯」で安土城天主の原寸大の模型が展示されている。
自分の最大の目的である。


3Fが「信長の時代」で、信長の一族や家臣、信長と同時代に活躍した信長を取り巻く戦国武将たちにまつわる展示物。


4Fが「合戦の時代」で戦国時代、ドラスティックに変化した「合戦」にまつわる展示物。


そして5Fが「信長と茶の湯」で、茶の湯の精神である無駄のない清浄な世界を象徴する白をベースとした空間に茶室(待庵)を展示。信長が奨励した黎明期の茶道文化の体感、である。


さっそく行ってみる。


アクセスは小田急の町田駅の北口である。自分は間違えて、JR(横浜線)の町田駅の北口と勘違いして、1時間近く路頭に迷いました。(笑)小田急の町田駅北口のほうである。お間違いなく。徒歩5分くらいであろうか?


泰巖歴史美術館が見えてきた。


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エントランス。


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入場料は1500円でした。安い!


そこで係員から簡単な説明。写真撮影は、安土城天主はご自由にどうぞ。松図もご自由に。それ以外は写真撮影禁止ということであった。


まず安土城天主。

1Fと2Fを吹き抜けで設置されている。


これだけの巨大のオブジェを写真で撮影するとき、その構図をどうするかは、かなり悩ましいところだと思う。巨大すぎて1枚のフレームに収まらない。最近流行りの広角レンズで1枚に歪んで収めるというあのテクを使わないとダメであろう。


まずは自分の憧れの的である安土城天主のショット。
障壁画は狩野永徳によるもの。その復元図である。


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2Fに上がると、天主閣と同じ高さ。天主閣は有事の際以外は使われない事が多いのであるが、信長はこの天主に居住したと言われている。


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ほぼ原寸大ということである。
もうまさに圧倒されました。
原寸大で自分の目の前にそびえ立っているんですから。
自然と涙が溢れ出て止まりませんでした。


あらためてその絢爛豪華な天主にうっとりである。
自分の憧れていた安土城天主。


自分はこの安土城天主の5,6階部分の原寸大の模型というと、滋賀県にある安土城天主 信長の館という施設を思い出す。この信長の館でも、この安土城の天主の5,6階の部分を実寸大ということで、復元して展示しているのだ。


1992年に開催されたスペイン・セビリア万博で日本館のメイン展示として出展されたもので、豪華絢爛な安土城、信長の世界観が見事に再現されていて、金箔10万枚を使用した外壁、金の鯱をのせた大屋根など圧巻なのである。


それと今回のこの町田の美術館の模型と違うのか、比較して確認してみたくなった。(意地悪ですね。(笑))


写真を比較すると、やはり両者でかなり違うようである。


まず狩野永徳の障壁画が全然違うし、町田のほうにある5階の朱色の八角堂の中の上り龍を絡ませてある柱などは、滋賀県の信長の館には存在しない。6階の金色の天守の中に描かれている障壁画も違うようだ。


自分は歴史学者ではないし、専門家ではないので、ここでどちらが正しいとはとても断定できないけれど、滋賀県の信長の館は1992年当時の時代考証、そして町田のほうは最新の時代考証によるもので時代の経過による研究レベルが違ってきたものなのであろう。



この2Fの部分にシアターがあって、信長の人生を19分のビデオが制作されていて、鑑賞できるようになっているのでこれはぜひ観るべし!(制作はNHKでした。)


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信長の人生は、もう大河ドラマを含め、イヤと言うほど知っているが、改めてビデオで観ると興味深いし、面白い。


音声がメチャメチャ音がいいです。2chだと思うが、まるで映画サラウンドを聴いているみたいな臨場感、音場感で圧倒されました。(たぶんサラウンド音声なのでは?サラウンドSPが見当たらなかったけれど。)


とにかくこの安土城天主の原寸大模型が、東京町田で観れるのである。
町田ですよ、町田!すぐそこです。


今後の自分の都内のスィートスポットになりそうです。
間違いなく何回も通ってしまうでしょう。


1Fにはその天主のすぐそばに松図の復元も展示されている。


天瑞寺(てんずいじ)(京都)「松図」は、天正16年(1588)、豊臣秀吉が実母である大政所の寿塔として創建した客殿を飾る障壁画の一部である。


作者は狩野永徳。


明治7年(1874)に客殿が破却され、障壁画は現在も所在不明。それを実技的見地から原画復元を試みたものだそうである。


これも写真撮影OKです。


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信長人生年表。(全戦闘史)


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織田信長


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(c)泰巖歴史美術館FB

信長の肖像画は、いわゆる教科書の有名な図や、イエズス会士の画家ジョバンニ・ニコラオが描いた絵をいままで拝見してきたが、この肖像画は自分にとって初めてである。信長ってやっぱりこういう顔だったんですね。自分がいままで見てきた肖像画には共通点があります。それがやはり信長のご尊顔なのでしょう。



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(c)インターネットミュージアム


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(c)インターネットミュージアム



つぎに3Fの「信長の時代」へ。このコレクションで非常に貴重だと自分が思ったのは、古文書。いわゆる信長が誰にあてた手紙であるとか、朱印であるとか、そういう書面類のものである。


信長の一族、家臣、そして同時代の戦国武将らによる書状類が並ぶ。


信長が最も恐れたのが、“甲斐の虎”武田信玄と“越後の龍”上杉謙信。信長は両者との決定的な対立を避けており、その関係を物語る書状は注目される。


これは本当に圧倒されます。秀吉が北政所にあてた手紙であるとか、武田信玄から織田信長への感謝状「お味方くださること、頼もしく」などもうたくさん。


しかし、よくこれだけのものを蒐集したな、と本当に驚くばかりである。


4Fは「合戦の時代」。1番人気らしいです。室町幕府の権勢が低下し、守護大名に代わって全国各地に戦国大名が勃興。領土拡大を目指して他の大名と争い、合戦の時代に突入する。


集団での戦いや、鉄砲の登場など、戦術の変化もあり、戦国時代の甲冑は大きく発展していった。展示室には武器も展示。重要文化財を含む日本刀の他、奥には火縄銃がずらり、である。


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(c)インターネットミュージアム


最後の5Fは、「信長と茶の湯」。


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信長は松永久秀から茶の湯の世界を知り、その世界に傾倒していく。松永久秀はその後信長に謀反を起こし、数多の自分の財産の茶器といっしょに自決することになるのであるが。(去年の大河ドラマ麒麟がくる、で鮮明に描かれていましたね。)


いままで戦の恩賞として土地を与えていたいままでの慣習から、その恩賞に茶器を与えるなど、茶道具そのものに価値観を与え、利用したのも信長であった。


京都・妙喜庵にある国宝の茶室「待庵」を再現、展示ケースには茶道具が並ぶ。茶の湯を愛した信長。“名物狩り”で畿内と近隣諸国から茶道具を集め、しばしば茶会を開催した。茶の湯を利用した統率「御茶湯御政道」は、秀吉の時代にも引き継がれていくことになる。


この展示されていた京都・妙喜庵にある国宝の茶室「待庵」を見て自分が思ったこと。
昔の人は小さかったんだな、ということである。(笑)

いまの人間のサイズではとても狭くて入れないくらい小さな茶の間である。
感覚的にそんなことを思いついてしまいました。


以上が、泰巖歴史美術館の全貌である。


とにかく予想を大きく上回る充実ぶり。日本史ファンはもとより、織田信長ファンにとっては堪らない展示品なのではないか、と思います。自分はもう堪りません。(笑)


おそらく歴史学者を専門職とされている先生方にもとても価値観の高い希少資料がかなり展示されていて、参考になるのではと思います。


一介の信長ファンで資産家の方が、自分の趣味だけで、これだけの骨董品、貴重資料を蒐集して美術館にまで展開してしまう、というのは本当に驚きとしか言えないのですが、やはり自分でコレクションして自分内で収めているだけでは我慢できなくなって、みんなに公開して見てもらいたいという気持ちが大きくなったんだと思います。


そしてついには安土城天主の原寸大模型まで作ってしまった。(笑)


あえて1点、自分が思ったこと。


それはこれだけのコレクションですから、その場で観ても、もう興奮状態。しかも写真撮影禁止ですから、展示物をその場でいっぺんに理解することは、なかなか難しいと思いました。自分は何回も通わないとダメだな、と思いました。


公式HPは非常にあっさりした記述であまり詳しくは展示物の内容について書かれていない。実際美術館に行く前にもう少し、ここが見どころとか、鑑賞のポイントみたいなコツが書かれているものが公式HPに記載されているといいと思いました。


織田信長ファンだったら、ぜひ1度はこの美術館行かないとダメでしょう。

この東京町田にある泰巖(たいがん)歴史美術館、ぜひ行かれてみてください。


織田信長は、気性が激しい、残虐、パワハラとか言われていることは有名ですが、その一方で過去の伝統的なものの考え方に捉われず、つねに新しい文化、新しい考え方、制度をどんどん導入していったアイデアマンだった人。


自分は男として、後者の才能にとても尊敬の念を抱いています。


過去の大河ドラマでもやはり織田信長役をどの役者さんがやるかは、いつも注目の的。
男らしいところがいいですね。


泰巖(たいがん)歴史美術館



泰巖(たいがん)歴史美術館へのアクセス












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