コロナ禍のストレスでイカれてしまった地球の歩き方 [海外音楽鑑賞旅行]
コロナ禍で海外へ旅行に行けなくなってから早2年、自分がお世話になっていた旅行会社やそのスタッフはどうやって過ごしているんだろうか、いつもそう思っている。
そんな中で、これまた海外旅行するときには、絶対必要なバイブル、地球の歩き方に関する投稿を見てしまい、唖然となってしまった。
自分の場合、やはりヨーロッパに行くときは、地球の歩き方は、絶対必須のバイブルであった。いくら内容があまり変わっていなくても、その年に旅行する場合は、その最新版を必ず購入したものだった。
世の中に、ガイドブックは数多あれど、海外旅行に関しては、やはり地球の歩き方の右に出るものはないと思う。
インターネット全盛のいまの時代、ネットでググれば大抵の情報はキャッチできるが、やはりあのようにきちんと決まったページ数にて、決まったフォーマットで簡潔にまとめてある本のガイドブックに勝るものはないと思う。
海外旅行に関しては、もうキング・オブ・ガイドブックの立ち位置ですね。
そのときいつも思うのは、地球の歩き方って、全世界を網羅しているじゃないですか?あの情報収集力ってすごいな、と思うんですよね。おそらく世界中にネットワーク網があって、そこからの情報収集だと思うんですが、あの内容の濃さ、精密度は本当に驚くばかり。
旅行ガイドブックというジャンルの中では、彼らの立ち位置は、ずっと王様のポジションで続くんだろうな、と思っていました。
でも、まさかのコロナ禍で、地球の歩き方の編集部がイカれてしまっている、とは思いもよらなかった。
それがこれだ!
地球の歩き方 ムー~異世界(パラレルワールド)の歩き方
販売前からSNSで話題となり、出版前に重版となったほどの人気なのだそうだ。
地球の歩き方と月刊「ムー」とのコラボなのだそうだ。月刊「ムー」というのは、日本を代表するオカルト雑誌。
どちらも創刊は1979年(昭和54年)の40年以上のベテランだ。
2021年春ごろから企画がスタートしたという「地球の歩き方ムー」。半年以上かけて、「地球の歩き方」の編集部と、「月刊ムー」編集部でアイデアを出し合いながら1冊にまとめられたものなのだそうだ。
月刊「ムー」って知らないんだよね。(笑)
情報量豊富で、分厚くてインドの2倍はあるそうだ。
1つのスポットに対して、「地球の歩き方」的視点と、「月刊ムー」的視点を同時展開していくことで、お互いを異世界として、パラレルワールド(同時並行世界)を感じてもらえるデザインにした・・・。
これがこの本の骨子みたいだ。
こんな感じ・・・。
古代エジプト・ミイラ続々と発見、ピラミッドに残る謎の空間は、シェルターは軍事基地か、太平洋の超古代文明大陸ムー、謎の円盤UFO・侵入禁止エリア「アメリカのUFO関連地域」・・・
地球の歩き方もついにこんなんになってしまいましたか?(笑)
地球の歩き方のTwitterでは、
地球の歩き方は地球を歩き続けます!
" 版元が変わるだけで滅びません。"
もしかすると来年は、ムー大陸やアトランティス大陸のガイドブックが出るかもしれません!!!
海外旅行が難しい状況は変わりませんが、引き続き地球の歩き方を応援よろしくお願いいたします!(ヨシ)
てな感じだったそうだ。
わかるよ、わかる、その気持ち。海外旅行できなくなったら、それこそ国別のガイドブックは売れないよね。もう彼らもガス欠で、緊急事態宣言の中を一生懸命生きながらえて頑張っているんだ。
自分は涙が出てきました。
この地球の歩き方ムー~異世界(パラレルワールド)の歩き方、自分は十分に同情するし、面白そうだから買ってみようかな、とアマゾンを覗いてみたら・・・
世界197か国のふしぎな聖地&パワースポット
世界のグルメ図鑑
世界なんでもランキング
世界のカレー図鑑
こんな感じ・・・
しかも悪乗りでこんなアイコラまで作られる始末。
地球の歩き方はヤケを起こしている。
コロナ禍のストレスで、編集部がイカれてしまっている。。。
もうエネルギーのぶつけ処がなくて違うところで吐き出しているんだろう。(笑)
なんか苦労が滲み出ているようで、涙が出てきました。ふつうの国別じゃ売れないから、少しでも違った目線で新しい新境地を開拓というところでしょうか?
頑張れ!
踏ん張れ!
くじけるな!
潰れるなよ!
オレは、この先、ずっと地球の歩き方を応援していくからな。
オレといっしょにこの難局を乗り越えようぜ!
いつか、また元通りに海外旅行がふつうにできるときが、必ずやってくる、と信じて希望を持って生きていこうぜ!!!
山優三辰 [海外音楽鑑賞旅行]
ベルギー・ブリュッセルは、自分が初めて海外生活をした都市なので、その想い出は忘れられないです。歳をとってくると、いくつもの持病を抱え、通院しないといけないので、旅行はできても、おそらくもう海外生活は無理かと思います。
人生の中で海外生活はどういう形であれ、経験したほうがいいと思いますが、やはり健康体の若いときにするものですね。
なので、ベルギーでの生活は、もう後生大切に想い出としてしまっておいて、ずっと懐かしむのだろうと思います。
新しい開拓はないですね、おそらく。
2016年にフラワーカーペット、ラーメン屋「やまと」など、ブリュッセルに旅行したときに、体験して、28年前を懐かしみましたが、そのときどうしても体験できなかったお店があります。
それは「山優三辰」。
ブリュッセルにあるお寿司屋、海鮮ちらしのお店です。
ラーメン屋「やまと」のすぐそばにあって、2016年に「やまと」に行ったついでに寄ろうと思いましたが、なんと休みだったんですよね。
今度、ブリュッセルに来れるのはいつになるかわからない。こりゃ残念だな~と思いました。
またいつか、行ける日が来て、自分のカメラで撮影して、自分で実体験して、あの頃を懐かしもうと思っていましたが、コロナ禍な世界になってしまい、もうしばらくは全然無理。
見通しもまったく立たない。
あきらめました。
やはりこのお店のことを自分の日記で熱く語らないと、すごい心残りです。
まったく見通しが立たないので、金沢のときと同じようにネット上で仮想トリップして、あの頃を振り返ろうと思いました。お写真をお借りして、自分の想い出とともに熱く語ってみたいです。
今回ネットで調べてみて、「山優三辰」という店名に違和感がありました。
山優ってなに?
自分の頃は、ただ単に「三辰(さんたつ)」でした。みんな三辰、三辰と呼んでいました。正式名称は、山優三辰というんですね。
いまのブリュッセルには、日本料理店はおそらく何十軒もあると思いますが、当時は、「やまと」と「三辰」が二大巨頭でした。
どちらも通った~。
すごい鮮明な記憶としていまでも思い浮かびます。
三辰の数件横に、ベルギーチョコレートGODIVAのお店があり、そこでよくお土産用のチョコを買ってました。
ブリュッセルの中央駅から歩いて15分くらいで、もっと近いメトロの駅もあるので、アクセスには困らないです。
自分のときは車で路駐です。
「やまと」はラーメン屋なので、日本からの出張者を連れていくには、あまり向いていなくて、「三辰」のほうが適切でした。
ベルギー料理なんてどうでもいいから、三辰にしてくれ!という方が多かったです。(笑)
おそるおそるネットで検索してみると・・・
おぉぉおお~懐かしすぎる!まったく変わっておらず。2016年に行ったときに、「やまと」の店主から、「三辰さんも全然変わってないですよ。」というお言葉をいただいていましたが、まったく一寸も変わってないです。
こんな感じの日本料理のお店でした。
店内は・・・こんな感じ。こちらも一寸もまったく変わっておらず。こんな感じの店内でした。懐かしすぎるな。(笑)また行きたくなってきた。
カウンターとテーブル席があって、カウンターは調理場に向かってコの字型に配置され、自分の決まった定番の席は、入り口付近のこのコの字のカウンターの中央席でした。毎回ここに陣取る。ちょうど下の写真の真ん中のグレーのセーターを着た男性のところです。
この三辰のご主人が大将の青木優さん。みんな優さんと話したくて、優さんの前のカウンター席は特等席です。
いまは大分現地人のお客さんにローカライズされたお店になったと思いますが、当時は、日本人駐在員のたまり場的なお店でありました。お客さんの大半が日本人だったような・・・
やっぱり異国の地で、異邦人である日本人が、暮らしていると、無性に誰かと日本語で思いっきり喋りとおしたいという衝動に駆られるんでしょうね。
大将の優さんは、そんな寂しい日本人駐在員の心のオアシス的な存在だったのです。やっぱり聞き上手、話振り上手なんですよね。
手を動かしながらずっと話を聞いてくれる優さん。
常連になる気持ちが分かります。
優さんと思いっきり、日本のことを喋りとおして、ストレス発散、すっきり明日からまた仕事に励もうという感じになるのです。
ちなみに、自分は優さんと話したことはなかったと思います。自分の席からは遠すぎました。また、自分は誰とも喋らない状態が数日、数か月単位で続いても平気な性格なので(笑)、さほどその必要性もなかったような感じです。
大将の青木優さんのインタビューが朝日新聞に掲載された(2007年)こともあったので、それをちょっと紹介しますね。三辰の歴史とか、苦労話とかわかると思います。
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ベルギー・ブリュッセル市内のすし店「山優三辰(やまゆう・さんたつ)」が来年(2008年)2月、開店30周年を迎える。オーナーは千葉県南房総市出身で板長も兼務の青木優(ゆう)さん(当時54、いまは69歳ですね))。高校卒業後、単身パリに渡り、板前の腕を磨いた。そして、現地の日本人駐在員たちの世話役も。欧州の「中心」に様々な国からやってきたお客で、店内は連日にぎわっている。
「らっしゃい!」「あがり一丁!」。店内を飛び交う威勢の良いかけ声。店のつくりも純和風だが、カウンターに座る顔ぶれは人種、国籍も多彩。「ほとんど日本語で通してます。その方が喜ばれるので」と青木さん。
南房総市千倉町生まれ。野球に明け暮れた高校生活も終わりに近づくと、将来の選択に悩む。
「ぬるま湯」と感じた生活を脱したくてパリの大学へ。身元保証人になってくれたパリの日本食レストランのオーナーの店を手伝ううち、板前の仕事の面白さにのめり込んだ。大学は辞め、板前に専念。すぐ店長にばってきされた。
間もなく、経営不振だった別のオーナーのブリュッセルの店の立て直しを頼まれる。軌道に乗せたが、その店のオーナーが金を持って姿を消してしまう。「従業員とその家族の生活を守るため」、親威から資金を工面してもらい自らオーナーに。78年2月、25歳だった。
最初はすし専門店でスタートした。持ち前の世話好きな性格から在ベルギーの日本人駐在員たちのたまり場になり、マージャンの会場にされた。徹夜のマージャンの合間に頼まれるラーメン、そば、カツ丼……いつの間にかメニューが増えてしまったという。
93年、それまでの欧州共同体(EC)から、欧州連合(EU)が正式に発足する。ブリュッセルがその中心だ。単一市場となった影響は大きかった。地中海のマグロも取り寄せやすくなり、新鮮なネタを安く提供できるようになった。
EUの中心に、世界中から人が集まってくる。パリから高速列車で1時間強、車で約3時間の地の利があった。評判を聞きつけ、ベルギー以外からの客も増えていった。
「今では日本人客は少数派」と青木さん。
ただ欧州暮らしが長い青木さんは、いまでも日本人駐在員やその家族から何かにつけて頼りにされているようだ。
館山市出身で、現在、妻と長男の3人でブリュッセルに駐在する会社員亀井千治さん(47)は「困ったことがあると、親身になって相談に乗ってくれるので心強い」と話していた。
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三辰は、やっぱり基本お寿司、海鮮ちらしのお店なんですよ。
それが売り。
とくにゴージャスな海鮮ちらしは、有名でした。
でも日本料理ならなんでもできちゃうところもあったんですよね。ラーメン、餃子、かつ丼、塩サバ定食のような和定食もの。もうなんでもできちゃう。
自分はお寿司や海鮮ちらししか頼んだ記憶ないです。
こちらが超有名な海鮮ちらし。
こちらがお寿司。
日本料理が食べたいな~と思ったら、みんなこの三辰にやってくる。
味は申し訳ないけど、そんなに鮮明に覚えていない。そんな取り分けメチャウマという記憶もなく、ふつうにお寿司や海鮮ちらしだよな~という感じです。
遠い異国の地で、このようなものが食べれるだけ、幸せに思え、という感じのほうが強かったです。
45年前の創業当初は、寿司やっても、最初は日本人しか来なかった。そのときは1年中休みなしで、開店当初からずーっと列ができていた。
もう休みなし。休みとってたら、できない、回転できない。やりきれないだけなんだよ。だからオランダ、ドイツ、イギリス、フランスから、日本人がヨーロッパ中からブリュッセルの三辰にやってくる。
寿司が当時まだ全然流行っていなかったから。当時1500人しか住んでいなかったから日本人。
外国人で1番最初のお客さんは、ベルギーの王様。
だからいまでも王様とか来るよ。(笑)
三辰では、「海鮮ちらし」が人気なんだけど、日本の築地、豊洲顔負けの新鮮さで、ネタはすべて現地の魚を使用している。
・・・優さんのお話です。
お酒類もあったと思います。でも自分は車なので、当然飲まなかったです。
いまコロナ禍の事情もあってテイクアウトもできるみたいです。こんな感じ。
ベルギーという国は、多国籍人種のるつぼの国で、公用語もオランダ語、ドイツ語、フランス語、それにベルギー語が混在するというすごい複雑な国です。
でもブリュッセルのレストランのメニューは、大半がフランス語で書かれていたような記憶があります。でも三辰では、優さんらスタッフは日本語で「らっしゃ~い」なんですよね。
店に入るとそのかけ声に、いやぁ~日本だな~と若返ります。外から店内に入ってくると、いきなり別世界です。おぉぉ~ここは日本!と思ってしまいます。
メニューも日本語メインだったような記憶があります。それに他国言語が添え字でついている感じ。
三辰は、ブリュッセルだけじゃないんですよね。アントワープや、ルクセンブルクにもあります。
アントワープは、ブリュッセルから北のオランダの方に車で1時間くらいのところにある街です。ここの三辰のアントワープ店もどんなものなのか1回だけ訪れたことがあります。
結構、店が狭くて暗い感じの照明だったような記憶があります。
懐かしいなぁ。
十分楽しめました。
後悔はないです。
またいつか行ける日が来ることを夢見て・・・。
ちなみにベルギーのブリュッセルですが、いまや日本料理レストランは、22軒もあるみたいですよ。テイクアウト専門店も3軒。
そのようなリストを見つけました。
ベル通 日本食レストランのリスト
やっぱりラーメン屋が多いですかね。現地の住所や電話番号も書いてあるので、ブリュッセル在住者の方にとっては重宝するリストではないでしょうか?
しかしいくら海外では日本食ブームとはいえ、自分の時代からすると隔世の感がありますね。
マーラーフェスティバル追悼 [海外音楽鑑賞旅行]
マーラーフェスティバルについては、自分は責任があると思う。ゆりかごから墓場まで。彼らが最終的にどうなったのかを説明する義務があると思うのだ。
衝撃だった去年の今頃。まさに3か年計画で予算案を立案し、日記で公表してからは、連日の特集日記連載で、毎日マーラー三昧。そうやって徐々に盛り上げていき、2020年5月に一気に爆発する予定であった。
そして世界中がまさかこんなにいっぺんに変わってしまうとは誰もが思わなかったコロナ禍。マーラーフェスティバルは、毎年開催されるふつうの音楽祭ではないのだ。20~30年に1回のレアな音楽祭なので、それだけ落胆も大きかった。
今回のフェストでは、マーラー財団(Mahler Foundation)と、とりわけ、マーラーの孫娘のマリナ・マーラーが協力体制にあった。
マーラーの孫娘マリナ・マーラー
Marina Fistoulari Mahler (1943)
Marina Fistoulari Mahler (1943)
マリナ・マーラーはいまやマーラーを知る生き証人のような存在。
またマーラー交響曲・歌曲全曲演奏会だけではなく、マーラーの所持品、写真コレクションなどマーラーに所縁のあるものも展示される予定であった。アムスやパリの美術館との手配も済んでいた。そしてシンポジウムや講演会なども連日開催予定であった。
これは観たかったし、聞きたかったなぁ。
ライブストリーミング配信も予定されていた。コンセルトヘボウでの公演の様子をリアルタイムでコンセルトヘボウ・ホールの向かいにある緑の芝生の公園のところに大スクリーンを立てて、パブリック・ビューイングもする。自分は2番「復活」だけチケットが取れなかったので、このPublic Viewingを体験する予定であった。
まさに十数日間、アムステルダムがマーラー一色に染まるフェスティバルであった。
今回のフェストのマネージング・ダイレクターはサイモン・レイニンク氏。
前回の1995年大会のとき、サイモン氏は、父といっしょにこのマーラーフェスト1995を楽しんだ思い出がある。学生時代にそんな経験をしていたサイモン氏が、いまや今回の2020年大会では、マネージング・ダイレクターを務めるというのだから、時代の流れ、経過に感慨深いものを感じる。
1987年の秋の10月のある夕方、サイモン氏が若い学生だった頃、父がいまや伝説となってしまったレナード・バーンスタインによるマーラー交響曲第1番のコンサートに連れて行ってくれた。そのアメリカ人は、「マーラーは、交響曲の分野で、20世紀の最も重要なイヴェントになると確信している。」と予言していた。
サイモン氏はこの日の夕方のことは、けっして忘れることのできなかった。
そしてその8年後、サイモン氏と父は、忘れることのできないマーラーフェスティバル(マーラーフェスト1995)を一緒に楽しむことになったのだ。
「アムステルダムは、私の第2の音楽の故郷だ。」
盟友メンゲルベルクとの出会いもあり、いままで音楽業界であまり評価が芳しくなかったマーラーが、アムステルダムでの予想を上回る暖かい大喝采を浴び、それを契機にアムステルダムに何回も足を運びようになり、自ら指揮をして何回も公演を開催した。
アムステルダムは、まさに熱狂の渦、興奮のるつぼと化した。
アムスでの滞在が作曲や編曲のきっかけになることも多かった。
アムスでの滞在が作曲や編曲のきっかけになることも多かった。
そんなマーラーとアムステルダムとの交友を祝して、いまからおよそ100年前にメンゲルベルクが第1回のマーラーフェストを開催した。それが始まりである。RCOを率いてマーラー交響曲全曲・歌曲を演奏した。第2回は1995年。ベルリンフィル、ウィーンフィル、コンセルトヘボウの3大オケで同様に全曲演奏。
そして100年目の節目に当たる2020年。まさに3回目のマーラーフェストであった。今回もベルリンフィル、ウィーンフィル、コンセルトヘボウの三大オケの夢の饗宴の他、ブタペスト祝祭管、マーラー・ユース・オーケストラなどの出演も予定されていた。
まさにHuge Dissapointment !と彼らが嘆いたのはよくわかる。
Huge Disappointedだよ、まさにこれは。。。
Huge Disappointedだよ、まさにこれは。。。
自分は泣いた。
2020年大会が中止になったときに、彼らのalternative solutionが、オンライン音楽祭。
Mahler Festival Online。
音楽祭をオンラインで配信するという発想は画期的であった。リアルタイム配信ではなく、過去の演奏会分の配信ではあったが。一石を投じたことは間違いない。
彼らはまだまだあきらめない。
1年延期するという。
マーラーフェスティバル2021を開催するという。
マーラーフェスティバル2021を開催するという。
東京五輪もそうだが、コロナ禍も1年経過した頃には落ち着いているであろう、という読みがあったのかもしれない。
マーラーフェスティバル2021は、規模を縮小した。全曲ではなく、第1番~第6番+大地の歌のみを行うというものだった。
そこには、ベルリンフィル、ウィーンフィルの名前がなかった。おそらく同時期のタイミングで、ライプツィヒ・マーラーフェスティバル2021が開催されるのでそのままアムスの方にも出演してもらうという段取りだったのだろう。
自分はずいぶん悩んだが、2021マーラー音楽祭には行かないことにした。規模が縮小で顔ぶれもレベルダウン。そこに旅行費用、チケット費用をかけるのは勿体ないと思ったのだ。またの機会があるに違いない。いま慌てることはないと思ったのである。
そんな経緯である。
それから1年経過した。
コロナ禍真っ盛りの散々な2020年だったが、マーラーフェスティバルのことは、すっかり忘れていた。そんな昨日、偶然とはいえ、大変ショック(ある意味想定できたことではあるが。)なニュースを知ってしまった。
マーラーフェスティバル2021開催中止。
「コンセルトヘボウが5月に予定していた「マーラー・フェスティバル」の中止を発表した。元々は昨年計画されたフェスティバルで、コロナ禍で延期されていたもの。世界の名だたるオーケストラに出演してもらい、交響曲の全曲演奏を行う予定だった。今年は1番から6番の演奏に規模を縮小し、18日から23日に予定されていたが、2年続けて開催が見送られることになった。」
おそらく延期はないであろう。中止だと思う。
何十年に1回のインターンバルの音楽祭であるから、完全にコロナが収束する時期まで待つに違いない。
同時期に開催予定であったライプツィヒ・マーラーフェスティバル2021は、2023年に延期のようである。
2021年に予定されていたマーラー・フェスティヴァルは2023年に延期されることが発表された。〈速報〉2021年のライプツィヒ・マーラー・フェスティヴァル、2023年に延期(2021年2月)
マーラーの没後110年となる2021年5月にライプツィヒで開催されるマーラー・フェスティバル。地元ゲヴァントハウス管を中心に各国のオーケストラを集めて、12日間で交響曲全10曲+大地の歌、その他数曲が演奏される。カペルマイスターとしていわば「ホスト」ともなるネルソンスはGHOを指揮し、2番と8番という合唱入り大曲二つを担当する予定であった。
ようやくワクチンが出てきてコロナの収束にも期待を持てるようになった時期であるし、時期的によくわかる状況ではある。
でも悲しいなぁ。
自分は昨日このニュースを知ったとき、なんか自分の一世代が終わった、という悲しい気持ちになった。自分の人生をかけてきたものが、崩れ去るときはこんなにあっけないものなのか、悲しい。
世の中、生きていくことだけで大変な人がいっぱいいるし、METのように音楽業界に携わる人たちは、給与も満足に支払われていない状況下でもあるから、音楽祭が中止になったくらいでなんだ!と言われそうだが、でもやっぱり、なんか全てが終わったな、という感慨深い気持ちである。
それは主催者側もそうであろう。
我々以上に大きな損失であるし、開催中止に関わる多額の負債を負うことにもなるから、ある意味我々以上に相当状況は重い。
この音楽業界にとって闇の状況はいつまで続くのであろうか?
自分は、マーラーフェスティバルに追悼の意を評して、この日記を書くものである。
瞬間ではあったけれど、夢を見させてくれて、どうもありがとう。
またいつか復帰できる日が必ずやってくる。
何年後かに開催されるマーラーフェストで、目の前にそびえ立つコンセルトヘボウの前に立ち、
「こんなに劇的な人生が、いまだかつてあったであろうか!
どんな脚本家でもこんなに劇的なストーリーは書けないと思う。」
どんな脚本家でもこんなに劇的なストーリーは書けないと思う。」
と一緒にむせび泣こうではないか。(笑)
そんな日が必ずや来ることを夢見ています。
フェスティバルは中止になってしまったが、マーラーフェスティバル2020に向けての自分の熱い想い、連載した数多くの熱い日記の数々は永遠に残るのである。
こればかりは失いようがない。
ノンノン日記の家宝とも言える存在である。
自分の財産である。
自分の財産である。
こんなに短期間に集中して、マーラーのことを勉強して、聴いたことは、おそらく人生初めてである。そしてなによりも驚いたのは、自分がこんなにマーラー音源(映像素材も含めて)を持っていたのか!という驚きであった。
自分のクラシック人生にとって、マーラーという作曲家はとても特別な存在になるであろう、いままでも、そして今後も。
奇しくも、コロナ禍でソーシャル・ディスタンスを要求され、大編成でのコンサートの実現が難しくなってしまった昨今、マーラーの交響曲は、いまの時代のもっとも正反対に位置する作曲家になってしまったのである。
ふつうにコンサートホールでマーラーの交響曲が聴けるようになるのは、いったいいつになることであろうか・・・。
今回のフェスティバル中止の報を聞いて、まず自分が決断したのは、バーンスタインの1968年に発売された最初のマーラー交響曲全集のSACDシングルレイヤー全集を買うことだった。
2018年にソニークラシカルからリリースされ、マーラー日記連載しているときに、その存在に気付いたのであるが、価格帯が2万円台で高いな~と思い、そのときは決心がつかないでいた。
でも欲しかった。
今回のタイミングで、思い切ってオーダーすることにした。
マーラーの死後、マーラーの作品はほとんど演奏される機会がなかった。マーラーのよきサポー ターであったメンゲルベルクや、直弟子であったブルーノ・ワルター、そしてマーラーから作曲や 指揮法を学んだオットー・クレンペラーは、確かにマーラーの作品を取り上げ録音を残した。
しかしマーラーの作品を後世に渡って真に世に普及させ、商業的な成功に導いたのはレナード・ バーンスタインであることは誰も異論はないであろう。
昨今のマーラーブームの礎を築いたのがバーンスタインなのだ。
バーンスタインは、自分のことを”マーラー音楽の使徒”と考えていたところがあって、”We Love マーラー”のキャンペーンもやったりして、その頃はあまり演奏される機会のなかったマーラー音楽をこの世に普及させていこうという使命感に燃えていた。
「マーラーは、交響曲の分野で、20世紀の最も重要なイヴェントになると確信している。」と予言していた。
「つぎの時代には、必ずマーラーが来る」と言ってはばからなかった。
1960年4月16日、マンハッタン・センターでのブルーノ・ワルターによる「大地の歌」のセッションを訪れたバーンスタイン
そんなバーンスタインは、生涯においてマーラー交響曲全集を何回も作っているが、その中でもその1番最初となった記念すべき全集が、1968年に当時のCBSソニーからリリースされた14枚組LPのマーラー全集である。
まさに録音史上初の「マーラー交響曲全集」の快挙だったのである。
マーラーを今後普及させていきたいと思っていたバーンスタインにとって、マーラーの全集を作ることはどうしても実現させないといけない壁だったのである。
この全集こそ、20世紀マーラー演奏史上最大の金字塔であった。
1960年、マーラー生誕100年を記念してニューヨークで開催された「マーラー・フェスティヴァル」に際して録音された「第4番」を嚆矢に、1967年まで8年の歳月をかけて、ニューヨーク・フィル定期での演奏と並行して「第3番」(1961年)、「第5番」「第2番《復活》」(1963年)、「第7番《夜の歌》」「第9番」(1965年)、「第1番《巨人》」(1966年)、「第6番《悲劇的》」(1967年)の順でセッション録音が行なわれ、その間、1966年のロンドン響客演の折りに「第8番」が収録された。
この時点でこれら14枚分のLPとして発売された9曲の交響曲は「GMS 765」という特別なカタログ番号が付され、箔押し・ビニール・クロス貼り・アルバム式・シリアル番号入りの濃紺のボックス・セットに収められ、録音史上初の「マーラー:交響曲全集」の誕生を見た。
参考 アメリカ初出LPボックスのアルバム(左)、アルバムの背にはられていたマーラーの肖像のメダル(右)
参考 アメリカ初出盤のマーラーの肖像をデザインしたLPレーベル(左)、アメリカ初出盤のシリアル番号を手書きしたステッカー(右)
さらに1969年にバーンスタインがニューヨーク・フィル音楽監督を退任後、1970年代に「大地の歌」(1972年、イスラエル・フィル)と「第10番~アダージョ」(1975年)が録音され、より完璧な交響曲全曲録音が完成した。今回のボックス・セットは、「大地の歌」「第10番~アダージョ」を含む交響曲全曲と、「第10番~アダージョ」の初出盤にカップリングされていたジャネット・ベイカーとの「亡き子をしのぶ歌」(1974年、イスラエル・フィル)を収録したもの。
バーンスタインはこの後、1971~76年にかけて「大地の歌」を含む映像による交響曲全集、1985~88年にはマーラーと縁の深かった3つのオーケストラを使ったデジタル・ライヴ収録による8曲の交響曲(第8番、「第10番~アダージョ」、「大地の歌」が未収録で、それぞれ1974年・75年・65年の録音が充てられて全集化)を残しているが、この第1回目の全集にこそ、バーンスタインのマーラー音楽の使徒としての熱い使命感が溢れんばかりに込められており、21世紀となった今でもその鮮烈なメッセージを伝え続けているのである。
まさに、この第1回目の全集こそ、マーラー録音史上もっとも重要な位置をしめる音源なのである。
1967年10月、「マーラー:交響曲全集」のLPアルバムを手にして喜ぶバーンスタイン。アルバムのボックスケースを持っている左の人物はプロデューサーのジョン・マックルーア、バーンスタインの右はフェリシア夫人、コロンビア・レコード社長クライヴ・デイヴィス
情報引用元:
ソニークラシカル:20世紀マーラー演奏史上最大の金字塔。SA-CDシングルレイヤーで全集化。
https://www.sonymusic.co.jp/artist/LeonardBernstein/info/498242
https://www.sonymusic.co.jp/artist/LeonardBernstein/info/498242
この記念すべき第1回目のCBSマーラー全集を、ソニークラシカルが、SACDシングルレイヤー全集としてさらにボックス化したものなのである。
レナード・バーンスタインによる第1回目のマーラー交響曲全集は、20世紀におけるマーラー演奏史に残る金字塔の一つ。グールドのバッハやストラヴィンスキー自作自演などと共に、ソニー・クラシカル・レーベルに残された最も重要な録音といえる。バーンスタインの生誕100年を記念して、2007年にアンドレアス・マイヤーによってDSDマスタリングされた音源をSACDシングルレイヤー9枚にまとめボックス・セットとして発売、というものである。
日本独自企画で完全限定生産である。
2007年アンドレアス・K・マイヤーのDSD音源を使い、シングルレイヤー用にカップリング 9枚組(非圧縮、1枚最大109分)。
非圧縮というのが素晴らしいではないか!
これはオーディオマインドをかなりくすぐります。
これはオーディオマインドをかなりくすぐります。
2018年のバーンスタイン生誕100周年を記念した企画だったんですね。
これは欲しいなぁ~とつい思ってしまった。
このCBS全集は、自分はCDでは持っているのである。
でもやはりSACDシングルレイヤーの全集はとても魅力的。
そしてこのボックスならではのいろいろな特典があって、バーンスタインのマーラーを極めるにはこのボックスはどうしても欲しいと思っていた。2万円台なので、貧乏な自分は地団太踏んでいたが、昨日のフェスティバル中止の報を受けて、自分がまず思い浮かべたのは、このボックスを買おう、ということだった。
完全限定生産で、在庫がなくなり次第終了となります、だそうだったので、ずっと気になっていたのである。発見した去年春のときは買えなかったのであるが、売り切れ、なくなったらどうしよう、とずっと心配していた。2018年に売り出されたものなのに、まだあるいうことは、あまりに高価だから、みんな手を出せなかったということなのでしょうか。またマーラーは難しい、という理由もそこにはあるのであろう。
さっそく届いた。
さらに各ディスクにはアメリカ初出のオリジナルLPジャケット・デザインを採用し、収容ボックスには「GMS765」のデザインのイメージを再現。
写真で見える白い冊子のライナーノーツには、個々の交響曲の初出時のライナー翻訳のほか各曲の歌詞対訳、「GMS765」の解説に掲載されていたバーンスタイン自身による有名なエッセイ「マーラー:彼の時代が来た」(1967年「ハイ・フィディリティ」誌掲載)、ロバート・セイビン「ニューヨークのマーラー」、ハンス・ファンテル「マーラー、人と音楽」、2009年に海外で全集ボックス化された際のティム・ペイジ「バーンスタインのマーラー」、エリック・ライディング「バーンスタインの転換点、マーラー」を掲載。
サービス満点のすごい特典つきなのである。
自分の宝物になるであろう。
まず2番、3番を聴いてみたが、素晴らしい。これはいまからの60年前の1960年代の録音なんですよね。その解釈という点で、現代のマーラー録音とまったく変わらない、違和感を微塵も感じないのは、当時のバーンスタインの解釈が、現在のマーラー解釈の基礎を成しているその証なのではないだろうか。
同じユダヤ人で、同じニューヨークフィルの音楽監督であることからバーンスタイン自身が、自分の姿をマーラーと重ね合わせて、ある意味陶酔している・・・それがこの半端ではない没入感ぶりの演奏となっていることは間違いなく、レニーらしい情熱的でこってりとしたマーラーを堪能させてもらった。
録音も期待通り素晴らしかったです。
音の鮮度感、迫ってくるような音の凄み、文句ない名盤である。
さすがSACDシングルレイヤーである。
音の鮮度感、迫ってくるような音の凄み、文句ない名盤である。
さすがSACDシングルレイヤーである。
これから全曲ゆっくり堪能させてもらう。
これを以て、マーラーフェスティバルへの惜別の念は表現できたのではないか、と思う。ここまで書けば、自分もすっきりして、悔いはなくなりました。綺麗さっぱりの気分である。
明日に向かって、また新しい目的を見つけて、歩んでいくのである。