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I LOVE YOKOHAMA [街歩き]

横浜というのは、日本一エリアが広い市なので、自分も横浜市民なのであるが、いわゆる世間一般のイメージにあるようなお洒落なハマ、YOKOHAMAという風情とはまたちょっと違うんだな。横浜ってほんとうにいろんな顔をもつ都市なので。


1995年から、いまのおらが街に住み始めて30年。東横線ユーザーなのだが、それで灯台元暗しというか、渋谷方面にはよく行くんだけど、意外や横浜方面、そしてみなとみらい方面にはほとんどいかないんですよね。


東横線は、渋谷駅や横浜駅がまだ地上にあったとき、そして終点が桜木町だった頃。その後、横浜~桜木町間の東横線が廃止になり、みなとみらい線が開通した。終点は元町・中華街になった。


その変遷もリアルタイムで体験した。


でもこれまた意外や、みなとみらい線って普段あまり使わない。せいぜい行っても東横線の横浜駅まで。香川名物の骨付き鶏 一鶴の横浜店に行くときくらいだ。(笑)


横浜、YOKOHAMAはほんとうにおしゃれな観光都市で、デートスポットがいっぱいある魅力的な都市。おそらくいまではどこに行っても外国人でいっぱい。そんな素敵なエリアばかりである。


そんな横浜を紹介したいと思った。自分も若かりし頃に行ったきり、横浜エリアってずいぶんご無沙汰しているな~と思い決行することにした。


横浜は、おらが街もそうだけど、お洒落なハマ、YOKOHAMAのイメージだけではない。いろいろな顔をもつ。呑兵衛の聖地、野毛なんかもそうだ。横浜の別の顔だ。それこそ、横浜市民にしかわからないとっておきのスポットもあるであろう。


でも今回はそこまでやらない。大変だから。


本当に観光ガイドブックに載っているような、いわゆる横浜のポピュラーで代表的な観光スポットに焦点をあてていきたいと思う。


Facebookで横浜関係のコミュニティ、I LOVE YOKOHAMA、ぶらり横浜とかいろいろ入会している。結構毎日、刺激的なんだよね。その投稿写真が。(笑)かなりドキッとする感じで超刺激的。これは、ちょっと自分もリアルにその場所に行かないとダメだな、という気持ちにさせられた。


この刺激的な投稿が原因で、これは今やすっかり灯台元暗し状態の横浜にスポットをあてよう!という気持ちにさせてくれたのである。


今回の日記の連載のタイトルを、そのコミュニティの”I LOVE YOKOHAMA”とさせていただいた。


横浜は、やはり港、船なんだよね。ハマのイメージはやはりこの港、船から由来するところが多いと思う。自分は、生まれ育ったときから陸内地の出身だから、海とか船は慣れていなくて、どちらかというと怖い、というか恐怖感を抱く。とくにあの巨大な船の姿を見ると、すごい怖い。そういう恐怖感をまず抱く。


横浜は、江戸時代、開港に始まって、海外の文化がいち早く流れ込んできた街で、和洋折衷。海外からいろいろな文化が入り込んできたと同時に、日本の文化もこの横浜から海外へと輸出された。そんな文化交流のブリッジ、真っ盛りの街だったのだ。それ以来、商取引、人、モノ、情報の交流はここ横浜を通して行われるようになり、横浜こそが文明開化の象徴的な街となっていったのである。


横浜が、なにかこう異国情緒な雰囲気に溢れているのも、こういう歴史を辿ってきたのがその要因だと思う。横浜にお洒落な雰囲気が漂っているのはここに由来するのかなと自分は思っている。


いまの栄えている横浜のエリアというのは、昔は海だったところなのだ。その海を埋め立て地して整備して、その上にいまの横浜が成立しているんですよね。


横浜には西洋館がたくさんあり、どれも歴史ある素敵な建物ばかり。しかも、神戸や長崎の西洋館と違い、観覧するのにお金が掛らないというのも魅力の一つである。こういう海外異国情緒な点なところが横浜の一番の魅力のように思う。横浜で西洋館巡りはなかなか素敵だと思う。


今や横浜は国内有数の国際都市と言っても過言ではないであろう。


横浜のコンサートホールといえば、みなとみらいコンサートホールである。


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みなとみらい駅に直結していてアクセスもよく、新しいホールで、なかなか素敵なホールである。ワインヤードというよりは、拡張型シューボックスという趣で、ホールの響きもなかなかのホールである。


横浜のホールでしかも東横線のみなとみらい駅で、自分の家からは東横線1本直通ではるかに近いのだが、首都圏のホールに行く頻度に比べるとあまり通っていないかな。(笑)すみません。


ヤノフスキ&ベルリン放送響と河村尚子さん、そしてインバル・都響の「新」マーラー・ツィクルスでみなとみらいホールは通ったことあります。


ヤノフスキ&ベルリン放送響のときは、河村尚子さんピアノ独奏で、ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」。(あれ、4番だったっけ?)このみなとみらいホールって、ピアノの音がすごく綺麗に響くんですよね。クリスタルのように透明感ある透き通った響きで、自分はこのホール、ピアノの響きが綺麗だな~と大感動しました。河村尚子さんを初めて生で鑑賞できた日でした。ヤノフスキは、まだ東京春祭のリングをやる前だったので、日本での知名度もいまひとつでお客さんの入りもイマイチだったかな。(笑)


インバル・都響は、マーラー・ツィクルスをやっているときで、「新」マーラー・ツィクルスというタイトルで、前期は東京芸術劇場、後期は横浜みなとみらいホールでやる、というものでした。自分はこのマーラーツィクルスは前期・後期とも全部チケットを購入して全曲通いましたよ。そのとき後期はみなとみらいホールなので、このホールにせっせせっせと通いました。ほんとうに懐かしいです。マーラー人生だった自分のマーラー生体験の貴重な体験のひとつです。




横浜市は、市町村別で全国最多の人口(2019年7月現在、約374万人)を抱える大都市であり、神奈川県では最大面積を誇る市町村でもある。


しかし、元来の「横浜」はごく限られた地域を指す地名で、現在の山下町(横浜市中区)付近を指していた。久良岐郡横浜村の周辺は入海になっており、現在の関内駅周辺や山下公園などは、関東大震災(1923年)後に埋立事業が行われるまでは海だったほどなのだ。かつての横浜村は入江の先端に突き出た小さな漁村で、1800年代の前半まで、わずか80数戸ほどの漁師小屋が並ぶにすぎなかった。


もともと神奈川県域では、鎌倉幕府の玄関港としての歴史をもつ六浦湊(むつらみなと)(横浜市金沢区)や神奈川湊(横浜市神奈川区)のほうが重要度は高かった。とくに神奈川湊は、港町が東海道の宿場町になったことで、陸路でも重要視された。


神奈川宿の位置関係を見れば一目瞭然、横浜村は東海道から外れた寒村であったが、そんな横浜村が国際港になったのには理由がある。


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1858(安政5)年、江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を締結。それまで幕府は長崎 (出島)で限られた相手とのみ貿易を行ってきたが、黒船の圧力に屈してアメリカと条約を結び、さらにはオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも修好通商条約を結ぶことになった(安政五カ国条約)。


そして幕府は、貿易を前提とする開港場として、函館、新潟、神戸、長崎、そして横浜の5港を指定したのである。


アメリカ総領事のハリスは、当初は神奈川宿の開港を求めた。当時の港の規模を考えれば、当然の要求でしょう。


しかし、幕府としては、外国人と日本人の接触は避けたかったのである。人の往来が多い東海道筋で開港するのを得策ではないと判断し、約9万両もの巨費を投じて横浜港を整備した。それ以前から横浜村に住んでいた住民を元村(現在の元町)へと移住させ、確保した用地に港湾施設を建設したのである。


日本人が外国人と交流をもつことに難色示した幕府は、横浜港に外国人居留地を設置し、その周囲に関所を置いた。このため、外国人居留地は「関内(かんない)(関所の内側)」と呼ばれるようになった。


そして1859(安政6)年6月2日(新暦7月1日)に横浜港は開港し、現在でも6月2日は開港記念日に定められているのである。



開港後の横浜は、西洋文化をいち早く取り入れる場であるとともに、日本文化を海外へ発信する場でもあった。来日外国人が洋画や写真技術を伝え、陶磁器や漆器など、日本の伝統工芸品が海外へ輸出されている。また、幕末には横浜の街や外国人を題材とした浮世絵が数多く制作され、異国情緒あふれる横浜の様子が紹介された。さらに、戊辰戦争を経て成立した新政権は、新橋―横浜間に鉄道を開通させるなどの欧化政策を推し進め、工業国家を目指す。その一方で、民権思想に触れた者たちは、藩閥色の強い新政権への反発を強め、県下に数多くの民権結社が組織された。


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「鎖国」下においてオランダ、中国、朝鮮、琉球との交流は限定的であった。18世紀半ば以降、工業化を進めた西洋諸国の船舶が日本近海へその姿を頻繁に現し、また1840年に隣国中国で始まったアヘン戦争情報は、「鎖国」日本を揺るがすものであった。


そして、1853年ペリー率いる蒸気船は、当時の最先端技術の象徴であり、新たな時代の幕開けを予兆させるものだったのである。かながわを舞台として、日本の近代は始まりを告げたのである。


世界へ開かれたみなとYOKOHAMA・文明開化の音


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安政5ヵ国条約の規定により、のちにYOKOHAMAとして知られるようになる神奈川は1859年7月1日(安政6年6月2日)に開港する。人家もまばらな砂州であった横浜は埋め立てられ、外国人が居住することが許された外国人居留地、日本人商人が店を構える日本人町、そしてその中間に官庁街がつくられ、商取引を行うことができる区域である開港場として整備される。人、モノ、情報の交流はここ横浜を通して行われるようになったのである。


明治政府はまた、新橋-横浜間にわが国初の鉄道を敷設するなど、西洋文明を採り入れた近代化政策を進めていく。横浜と神奈川県域は外国文化摂取の最前線として機能したのだ。


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情報引用元


横浜がなぜ開港の地になったのか?寒村にすぎなかった地が大都市へ~神奈川県の歴史~



【テーマ4】近代「横浜開港と近代化」(神奈川県立歴史博物館)




外国人居留地だった関内。関内もなかなか縁のある街。いまでは毎年の会社の定期健康診断で自分が通う中央診療所がある街だ。かならず1年に1回は顔を出す。ここには横浜スタジアムがある。そして宮崎の居酒屋さん、いっちゃが関内も。。。関内にあったラーメン二郎もなかなか自分の好みに合った美味しい二郎を食べさせてくれるお店だった。


またなによりも、みなとみらい線ができる前までは、横浜中華街には、関内・石川町からアクセスしていたのだ。関内は中華街にいくための街というイメージが強い。いまやみなとみらい線で、元町・中華街駅からそのまま地下通路でダイレクトアクセスですよね。便利な時代になったものです。


江戸時代の鎖国から横浜開港による明治時代の文明開化の象徴的な街であった横浜。


そんな明治時代の横浜の風景も、いまや令和の時代の横浜。

こんなに風景が変わっている。時代の変遷というものです。


インスタグラムで、そういう昔の横浜の風景と、いまの横浜の風景を比較して懐かしむ。。そういうとても粋なアカウントがある。@yokohama_meiji_romanticさんなのだが、ここは数枚のお写真をお借りして、その横浜の変貌をご紹介したいと思う。


みなとみらい21


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赤レンガ倉庫


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横浜中華街


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馬車道


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大さん橋


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さて、


I LOVE YOKOHAMA


これから横浜の素敵な魅力をいろいろ紹介していきたいと思う。紹介と言っても、べつにそんなにかしこまったことではなく、自分が直接その横浜の観光スポットに出向いて、自分のカメラで写真を撮って、自分の肌でその感動を実感し、その感想を述べる。そしてその場所に纏わる歴史やいろいろなうんちく、そしてもしあるならば自分のその地に対する想い出や想い入れ。そして特産物、ぜひここに来たら通うべきレストラン、食事処などのグルメ情報。。。そういうのをノンノン・スタイルでご紹介できれば、と思う。


なんてことはない。いつもやっている街歩き日記の横浜編と考えてもらえればいい。


ただ、横浜は大変大きな都市なので、観光スポットも膨大にあり、この連載、かなり長編の大作となりそうだ。今年春に決行したDX時代のコンサートホールのときの連載を、はるかに上回る連載となりそうである。ぜひ楽しみにお付き合いください。


この横浜エリアの散策は、猛暑だった8月からスタートした。まだ全候補地、完遂していなくて、いまだにongoingの状態である。



東京2023 酷暑日連続 23日 記録更新中!

毎日36度の灼熱地獄。


顔、腕、足真っ黒に日焼け。全日程とも快晴・酷暑。 皮むけてきた。体重激痩せてきた。血糖値(HbA1c)極めて良好!毎日グルメ爆食いだったにも関わらず。たぶん運動のせいだ。運動療法も効果あるんだな。


毎日、午前9:00~午後15:00のもっとも暑いときに実行した。夕方遅く涼しくなってからというのは性格的に待ってられない。


横浜を散策と言えば、イコール灼熱の太陽ギンギラの真夏の日というメモリアルが一生脳の中に埋め込まれることになるだろう。


汗びっしょり。帰宅したらもうグッタリ。帰宅したら、冷や水のシャワーを全身に浴び、それでも体は火照っていて、クールダウンするのに、4~5時間かかった。それを毎日やっていた。


1日のペットボトルの消費量 6~7本。カバンの中に常時詰め込んでいた。歩きながらカバン重かった。(笑)灼熱の太陽の中、汗ダクダクになりながら、熱中症、脱水症状に陥らないように、歩きながら水分補給をこまめに取ることを心掛けた。


まさに苦行、修行と言ってよかった。(笑)

こんな爆暑いときに、わざわざ外を歩くか、というところだが・・・


目的地に大体一発では辿り着かないので、必ず迷うので、迷いに迷って、人に聞きながら、さらに迷って・・・もう1日のトータル歩く量はスゴイ。


1日平均、膨大な距離を歩いた。この灼熱の太陽地獄の中で。


自分にとって、「横浜、YOKOHAMA=灼熱の真夏の太陽」。


これはずっと自分の脳裏の中の深いところに刻まれることであろう。


何十年ぶり、いや何世紀ぶり?とも言われた今年夏の記録的な猛暑続き。秋はやはり芸術の秋で気候的にも過ごしやすいし、精神、食欲、芸術、すべてにおいて快適なシーズンだけど、自分は夏が大好き。夏男なので、夏が終わってしまうとなんか寂しく感じてしまう。秋になると急に時が進むのが早く感じる。


自分にとって、この記録的な猛暑続きの灼熱の太陽の夏。

まさに最高の夏であった。(笑)



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