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腰越状の現代語訳 [歴史]

鎌倉殿の13人では、源義経を本当にブラックというかサイコパスに描いていて、ちょっと自分のいままでの義経像を根本的に覆すような衝撃を受けている。


逆に木曽義仲はすごく義に厚い真っ当な人物に描かれていて、義経=ヒーロー、義仲=悪役という従来のイメージが全く反対なのには恐れ入りました。


木曽義仲は、平家打倒に一躍名を馳せるものの、京で狼藉を働く、粗野で野蛮な悪党というイメージだったので、あれだけ、義に厚い正義の味方のように演じてしまうと、京の狼藉などの史実をどのように描写するのか、逆に楽しみになってきます。


巴御前の1本眉毛もカッコいいですね。(笑)


そんな源義経所縁の地、満福寺を訪れてきた。最初に訪れたのは、いまから5年前の2017年のとき、第1次鎌倉マイブームでアジサイを特集していたときだった。江ノ電とアジサイということで、この満福寺は絶好のシャッターチャンスの場所なのである。


まず、藤沢駅に行ってみた。江ノ電は鎌倉~藤沢間を走る電車である。一度でいいから、この鎌倉~藤沢間を最初から最後まで江ノ電に揺られて乗ってみたかったのである。


初めての体験。ここが江ノ電、藤沢駅。


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義経所縁のお寺、満福寺は、この江ノ電の腰越駅にあるのだ。


腰越駅。


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江ノ電らしい小さな駅。


江ノ電って、本当に街の中の密集した中を、ギリギリで走っているという感じなんですよね。


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江ノ電のあるところには、必ず江ノ電を撮るカメラマン、鉄ちゃんの姿があります。


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満福寺は、この腰越駅から歩いてすぐのところにある。


ありました!


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ここが、源義経所縁のお寺、満福寺。鎌倉殿の13人の”源義経ゆかりの地”という旗がなびいています。


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なぜ、この満福寺が源義経ゆかりの地なのか、というと、平家滅亡に追いやった武勲をあげた義経であるけれど、朝廷からの官位を頼朝の許可なく、勝手に受けたことなどで、頼朝の怒りを買い、頼朝との不仲の溝ができてしまい、義経は、鎌倉入りしようとしたところ許可が下りず、この腰越の満福寺で留まざるを得なかったのだ。


そのときに頼朝に許しを得ようと思い、頼朝に対し、自分の心情を綴ったお手紙を書いたのだ。義経が手紙の内容を言うのを、武蔵坊弁慶が手紙に書き綴ったとされる。


このお手紙のことを”腰越状”という。


満福寺には、その腰越状をしたためる銅像もあった。


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手紙は大江広元に送られて、頼朝へ取り次いでもらったものの、結局義経は鎌倉入りを許されず京都へ引き返すこととなった。


この満福寺には、その腰越状の実物の展示や、腰越状の現代語訳が200円で売られていること、そして義経所縁のお寺ということで義経に纏わるいろいろ記念な展示があって、義経ファンには堪らないお寺なのだ。


2017年に行ったときは、単に銅像を見ただけで、あとは江ノ電とアジサイを撮っただけであったので、今回はお寺の中も参拝して、ご本尊様や、たっぷり義経所縁の展示を拝見してこようと思ったのである。


義経は、なぜ頼朝と不仲になっていき、悲劇の道を歩むことになったのか。


天才的な軍事戦略家であった義経は、きっと明るい未来が待っているに違いない、と前途洋々だったに違いない。頼朝と不仲になった理由として一番有名なのは、義経が、頼朝の許可なく朝廷、後白河法皇から官位をもらってしまったことである。


それがなぜそんなにいけないことなのか。


源頼朝という人は、鎌倉で坂東武者、東国武士団を束ねていく上で、自分と彼らとの間の関係を強固な結びつきとするために、絶対的な規則のようなものを作り上げたのだ。源氏は各地にたくさんいるのに、なぜ、頼朝のところに軍勢がみんな集まって巨大勢力になっていったのか、なぜ東国武士団は、みな頼朝に従おうとしたのか。


そのからくりは、頼朝は、彼らの所領を保証したからである。坂東武者にとって一番大切なことは、自分たちが代々受け継いできている所領、土地を守っていくこと。この所領は、お前のものだ、というようにお墨付きで、保証してあげる。


京の朝廷へは、頼朝を通じて、御家人たちの各々の所領を保証するという算段をとった。御家人たちは、頼朝を通じて朝廷から、自分たちの所領を、お前のものだときちんと保証してもらったのである。


頼朝はここに目を付けた。坂東武者にとって一番大事なのは自分たちの所領であることを知っていて、この仕組みを作り上げた。御家人は、自分の所領を、頼朝、朝廷に保証してもらうかわりに、奉公を捧げる。鎌倉殿、いざ鎌倉!というように鎌倉殿に忠誠を尽くす。このギブ・アンド・テイクの関係を作り上げた。


鎌倉以降、江戸時代に至るまでの武家政権で、この土地を保証、その代わりにご奉公という関係性は受け継がれていくことになる。この関係を最初に作ったのが頼朝なのである。


だから、この御家人と頼朝との関係性の規則を破るのは、あまりにご法度なのである。


義経が、頼朝の許可なく官位(検非違使)をもらってしまうということは、そんな頼朝を勝手にスルーして、朝廷とやりとりをしてしまうことを意味していて、これは頼朝にとって、自分の権力の基盤のルールを根底から覆すことを意味していて、とても許せる行為ではないのである。


頼朝は、西田敏行さんの後白河法皇に、頼朝だけではなく義経をもうまく自分の力になるように天秤をかけるやり方に、”あなたは大天狗だ”と手紙を書いている。



史実でも義経は、軍事的なセンスには長けているかもしれないけれど、そのような政治的なセンスに疎い人で、空気が読めない人だったようなので、そのようなかけひきなどまったく知らぬ存ぜぬという感じで、自分はなにか悪いことをしたのか?という感じだったに違いない。


ここまでが、自分が普通に知っている一番有名な原因だ。


ここからさらに歴史マニアの層になっていくと、はたしてこの腰越状の真実はいかなるものなのか。吾妻鏡にある腰越状の描写は捏造に違いないとか、いろいろあって、自分もどれが真実なのか、わからない状況だ。


歴史マニア層で議論されている頼朝と義経の不仲の原因として、単に朝廷から勝手に官位を授かったことだけではない、という説もある。


一ノ谷合戦後に義経が無断で検非違使に任官したことが頼朝の怒りを招いたわけではなく、また壇ノ浦合戦後に義経が鎌倉に向かったときにすでに両者の関係が完全に破綻していたわけでもなく、義経が京に戻った後、平氏討滅の恩賞として頼朝から伊予守に推挙されたにも関わらず、検非違使にも留任して鎌倉への帰還を拒んだ時点で両者の仲は決定的に破綻したとしている。



頼朝が平氏追討の恩賞として当時受領の最高峰だった伊予守を与えたのも、通常は検非違使と同時兼任できないことから暗に京から離れ鎌倉に帰還せよとの意思を伝えたものだったのだ。でも結果的に検非違使と受領を同時に兼任できたのは、後白河法皇によるもので、義経を鎌倉から独立した独自の武力として活用しようとしたことに起因している。


義経が検非違使を兼任し、京に留まり続け頼朝による鎌倉召還を拒んだことで両者の仲は決定的に破綻したものではないか、という理論だ。


自分は、この説にはかなり説得力があって、自分のいままでの考え方から、この説にずいぶんぐらついているのが現状である。これが理由なら、そりゃ、義経も悪いし、頼朝が怒るのも無理ないよね、と思ってしまう。


まさにたぬきじじいの腹黒い後白河法皇らしいし、西田敏行さんが演じればこれは最高にそんな屈折した関係などもうまく演じてくれる感じがしますね。頼朝が手紙で、後白河法皇に、”大天狗”と送ったのはわかるような気がします。


語りだすと止まらないので、このくらいにしておく。この頼朝と義経の不仲の原因は、鎌倉殿の13人ではどのように描かれるのか、いまから本当に楽しみです。


さて、その腰越状の現代語訳は、ここで売っている。200円を出すと簡単に入手できる。


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ついでに、前回はできなかった満福寺の中を拝観させてもらうことにした。


玄関入ったところに、いきなり腰越状。(笑)


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これは、鎌倉時代の現物ではなく、江戸時代に創作されたものなんですね。


満福寺の中はとてもお洒落で可愛らしくて、義経ファンには堪らないお寺だと思います。


こちらは客殿のほうに行きます。客殿は全部で3部屋あります。


こんな客殿が広がります。


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義経が着ていた鎧なのでしょうか・・・


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部屋の上のほうには、こんな絵が飾られています。


源平八島大合戦


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勧進帳、安宅の関


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いずれも義経大活躍ですね。勧進帳は歌舞伎にもなっていて有名ですね。でも勧進帳は今回の大河ドラマでやるかな?タッキーが主役した大河、”義経”では勧進帳やりました。


ここが満福寺の大本尊さまです。すごいですね。


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満福寺は襖絵がすごいのです。義経の生涯を描いた襖絵。義経と弁慶の都落ちで奥州に向かう旅すがら。義経の鎧姿。まさに義経カラー一色です!


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義経の最後、弁慶が仁王立ちで全身に矢を受けます。


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そして静御前です!大河ドラマ楽しみですね~~~。


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なぜかピアノというよりは、クラビアという呼び方が相応しいバロック的な楽器が置いてあります。


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天井もすごい模様です。


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お寺なので、位牌を安置しているお部屋もあって、そこの天井も芸術的なのです。


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源義経公慰霊碑


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弁慶の手玉石


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義経公手洗の井戸


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腰越状を書くために、硯に水をくみ上げるとき、弁慶がこの井戸から水をすくった、という伝説があります。


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弁慶の腰掛石


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まさに、源義経一色の楽しいお寺です。義経ファンには堪らないと思います。


帰りに、江ノ電とアジサイを撮るショットで有名なフレームです。


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家に帰ってから、腰越状の現代語訳を読んでみます。義経が兄弟の情に訴えて、お許しを得ようという感情が伝わってきます。


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腰越状


源義経おそれながら申し上げます気持ちは、鎌倉殿のお代官の一人に選ばれ、天皇の命令のお使いとなって、父の恥をすすぎました。そこできっとごほうびをいただけるものと思っていましたのに、はからずも、あらぬつげ口によって大きな手柄もほめてはいただけなくなりました。


私、義経は、手柄こそはたてましたが、ほかに何もわるいことを少しもしてませんのに、おしかりを受け、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いています。あらぬつげ口に対し、私のいいぶんすらもおきき下さらないで、鎌倉にも入れず、したがって、日頃の私の気持ちもおつたえできず、数日をこの腰越でむだにすごしております。


あれ以来、ながく頼朝公のいつくしみ深いお顔にもおあいできず、兄弟としての意味もないのと同じようです。なぜ、かようなふしあわせなめぐりあいとなったのでしょう。


亡くなられた父のみたまが、再びこの世にでてきてくださらないかぎり、どなたにも私の胸のうちの悲しみを申し上げることもできず、またあわれんでもいただけないでしょう。


あの木瀬川の宿で申し上げました通り、私は、生みおとされると間もなく父は亡くなり、母にだかれて、大和国(現在の奈良県)宇田の郡龍門の牧というところにつれてゆかれ、一日片時も安全な楽しい日はなかったのです。


その当時、京都も動乱がつづき、身の危険もあったので、いろいろな所へかくれたり、遠い国へ行ったり、そしていやしい人たちまでにも仕えて、何とかこれまで生き延びてきました。


忽ち、頼朝公の旗揚げというめでたいおうわさに、とびたつ思いで急いでかけつけましたところ、宿敵平家を征伐せとのご命令をいただき、まずその手始めに義仲を倒し、つぎに平家を攻めました。


ありとあらゆる困難に堪えて、平家を亡ぼし、亡き父のみたまをおやすめする以外に、何一つ野望をもったことはありませんでした。


その上軍人として最上の高官である五位ノ尉に任命されましたのは、自分だけではなく、源家の名誉でもありましょう。


義経は野心などすこしもございません、それにもかかわらず。このようなきついお怒りをうけては、この義経の気持ちを、どのようにお伝えしたなら、わかっていただけるのでしょうか。


神仏の加護におすがりするほかないように思いましたので、たびたび神仏に誓って偽りを申しませんと、文書にさしあげましたが、お許しがありません。せめて、あなたのおなさけによって義経の心のうちを、頼朝殿にしらせていただきたいと思います。


うたがいがはれて許されるならば、ご恩は一生忘れません。


元暦二年五月



源義経


進上因幡前司殿



情に訴えるお手紙。つねにつげ口のせいにしていて、自分はなんらやましいところはないと言っています。朝廷から官位を受けたことも源氏の名誉としていて、まったく悪びれたところがありません。義経は、やはり純粋でうぶで、政治的なかけひき、やりとりには疎い人だったのかもしれません。


そういうところが日本史上長らく言い伝えられてきた悲劇のヒーロー、判官贔屓たる所以なのかもしれませんね。







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