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マーラー交響曲第3番 [クラシック雑感]

毎年3月~4月になると上野の桜とともに、「東京・春・音楽祭」が開催される。この時期に東京文化会館に通わないと、なんか1年が始まらないというか、クラシック・シーズンの新年の幕開けが始まらないような気がする。


毎年欠かさず通うのは、N響・ワーグナーシリーズと川本嘉子さんのブラームス室内楽だ。


最近、プッチーニシリーズというのがシリーズ化されるようになり、読響がオーケストラを務めている。やはりワーグナーだけのドイツ・オペラだけ取り上げていたのではバランスが悪いということで、両雄のイタリア・オペラの大作曲家のプッチーニの作品を取り上げていこうというのは、とてもいいことだと思う。


ワーグナー・シリーズと同じく演奏会形式で、独唱のソリストが主役である。


オペラ界を俯瞰したならば至極当たり前のことですね。


プッチーニは、「トスカ」、「蝶々夫人」、「ラ・ボエーム」、「マノン・レスコー」、「トゥーランドット」など、本当にこれぞイタリア・オペラともいうべき名作中の名作の宝庫を生み出してきた大作曲家である。


ワーグナーに負けていませんね。これだけの名オペラを演奏会形式で楽しめる。ワーグナーシリーズと同様、この音楽祭の看板人気シリーズになっていくことは間違いないであろう。大スペクトラムな感動の渦が巻き起こるに違いない。



でもワーグナーもプッチーニともなると予算が大変ですね~~~。


自分は、東京・春・音楽祭の中で、毎年必ず注目しているシリーズがもうひとつある。


東京春祭 合唱の芸術シリーズ


である。自分は合唱がとても好きなので、いつもこのシリーズはとても気になる。合唱のあの人間の声の厚み、そしてあのスケール感のある美しさ。本当に聴いていて壮大で美しいものの権化ですね。合唱をともなう演目はとても壮観です。


東京オペラシンガーズがレギュラー出演で合唱としてのレベルの高さも折り紙付きだ。


モーツァルトの「レイクエム」やベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」など例年とても魅力的な合唱の演目を披露してくれる。


今年は、なんと!マーラー交響曲第3番だという。


東京春祭マーラー3番.jpg


ちょっといままでの毛色とは趣が違うとても魅力的な演目だと思う。自分は思わず反応してしまい、今日チケットを取ってしまいました。


マーラー3番ってそんなに合唱って入っていたっけ?(笑)第5楽章の児童合唱団のところだけじゃなかったっけ?と思うが、でもマーラー3番をこのシリーズで採用してくれる、というのは嬉しいのひと言である。


指揮は、アレクサンダー・ソディ、管弦楽は東京都交響楽団、合唱は東京オペラシンガーズに児童合唱は東京少年少女合唱隊、アルトは調整中だそうである。


もう申し分ない布陣ですね。本当に楽しみです。


自分はマーラー交響曲第3番は、正直その晩年に良さがわかった大曲であった。最初はどこか苦手な意識があって、いまひとつのめり込めないというか、好きではなかった。


ところがいまでは、マーラーの11曲の交響曲の中では、トップクラスで大好きな曲である。


なんでいままでこんな素晴らしい大曲を理解できなかったのであろう、という気持ちで一杯である。


9,6,5,2番がまず派手で大好きのトップグループ、4番は小曲だけど好き、8番は滅多に演奏されない大曲だけどまぁまぁ好き、1番はとても有名な曲でマーラーを代表する曲だけど個人的にいまひとつ地味に思ってしまう曲、大地の歌は1番好きな部類に入る壮大なスペクトラル、10番は未完成曲だけどアダージョは本当に美しくて好き、7番が1番難解で苦手意識がある曲。


全11曲を分析するとこんな個人嗜好。


マーラー3番はこの中で苦手の曲の部類だったけれど、いまや大好きのトップグループに属すると言っていいだろう。


きっかけは、いまから8年前の2013年、2014年のインバル&都響の「新」マーラー・ツィクルスを完遂したあたりからであろうか。東京芸術劇場、横浜みなとみらいで足掛け2年に渡って、マーラーの交響曲の全曲演奏会。


このあたりから、マーラーの3番っていけるんでない?なんでこんな素晴らしい曲が理解できなかったのであろう、という気持ちが湧いてきた。


なぜマーラーの3番が苦手だったのか。


それは曲全体としての構成感、骨格感が自分の中できちんと把握できていなかったことにあるのではないか、と思っている。


100分を超す大曲で、クラシックの交響曲の中でもとりわけ長い曲として有名な3番。


これはあくまで自分の私観だけど、クラシックの長い交響曲で、好きになる、好きになれない、の区分けが発生してしまうのは、その曲全体の構成をきちんと自分の中で捉えられるかどうかにかかっているのではないか、と思うからだ。


交響曲は第1楽章(ソナタ形式)、第2楽章(緩徐楽章)、第3楽章 (メヌエットもしくはスケルツオ)、第4楽章 (ソナタ形式またはロンド形式)のようにきちっとした構成感があって、いわゆる物語を語っているかのように、大河のように流れるストーリー性を感じるものだ。


その全体の物語の骨組み、骨格感が自分の中で、きちんと捉えられる、消化できるようになったら、その曲のことが好きになれる、つまり自分のものになった、と初めて言えるのではないか、と思うからだ。


好きになれない交響曲は、聴いていてどこか発散気味というか、収束しないというか、自分の中できちんとした曲としての型、構成感として全体像を捉えきれないときに”消化不良”という現象が起こるのだと思う。


J-POPSやロックのように3分くらいの曲だとイントロがあって、導入旋律があって、サビがあって・・・という全体像の構成感がつかみやすいので、キャッチーなメロディを持つ曲は、一瞬にしてその人の中に入りやすいしヒットする確率も高い。


でもクラシックの交響曲はとても長いので、ある一部分のフレーズが好き、というだけでは、なかなかハードルが高いものがある。やはり曲全体としての構成感、骨格感が、まるっと自分の中で理解できるようになった時点で、はじめて、この交響曲好き、ということになるのではないかと思うのだ。


クラシックって敷居高いよね~~~。(笑)


なかなか一般市民の市民権を得られにくいのは、そういう障壁があるからだと思う。1時間もある交響曲の全体像を自分のものにする、っていうのは相当鍛錬されていないとダメですよね。本当にクラシックが好きな人でないと、なかなかその境地まで達観できないように思う。


クラシックの理解脳、交響曲の理解脳には、人間の頭として、時間軸方向に長い尺でのキャパが必要だと思うのである。その壮大なストーリーをまるごと完全把握するための・・・である。時間軸に長い尺で、ものごとを鑑賞できる余裕のある人でないと理解されないのではないか。


あるいはそういう鍛錬が必要な音楽なのだと思うのだ。


マーラーの3番は、自分にとって、長い間この構成感、骨格感の把握に悩んだ曲だった。古典派、ロマン派の作曲家の曲と比較しても、マーラーの交響曲は、どこか収束しない、発散気味の型としてはめ込みにくい音楽であることは間違いないであろう。それだけ斬新である、ということのひとつの証でもある。


それで、これもまたクラシックの交響曲にある、”あるある”なのだが、突然ある日、神が降臨したかのように、突然その曲のことが理解できるようになる日が突然やってくるものなのだ。


いままで霧で視界ゼロだった曲への理解度が、す~っと突然霧が晴れたかのように、全体像が見えてしまう。なんと美しい曲なんだ!とそのときに改めて実感する。その大河のような壮大なストーリー性に愕然とし立ちすくむ。


自分のクラシック人生では、この体験の繰り返しだったような気がする。長い交響曲を初めて1回目に聴いて、すぐに大好きになる、というのはあまりないかもしれない。


上のような紆余曲折あって、初めてその境地に達する、という経験が圧倒的だ。だからクラシックって、長いキャリアが必要なのかもしれないし、それなりに鍛錬された耳が必要なのかもしれない。


自分はマーラー交響曲第3番のことを言及するたびに、このことを実感するし、この自分の私観、私説は正しいといつも確信している。


そのたびに説明してきたことだ。





マーラー交響曲第3番は、グスタフ・マーラーが1895年から1896年にかけて作曲した交響曲。全6楽章からなり、第4楽章にアルト独唱、第5楽章にアルト独唱と児童合唱、女声合唱を導入している。


演奏時間は約100分。


マーラーの交響曲としても、また通常の演奏会で採り上げられる交響曲としても、最長の曲として、かつては「世界最長の交響曲」としてギネスブックに掲載されていた、という。



マーラーは、ザルツブルクの東方50kmにあるアッター湖畔のシュタインバッハで夏の休暇を過ごすようになる。シュタインバッハには、この地に作曲小屋を建て、6月から8月の間、小屋にこもって作曲するようになった。


有名なマーラーの作曲小屋である。


マーラー3番は、このシュタインバッハーの作曲小屋で作曲された。



マーラーの3番を理解できるようになったトリガーは、第4楽章のアルト独唱、そして第5楽章の児童合唱団と女声合唱からだと記憶している。突然転調でもしたかのように、美しい調べが舞い降りてくる。世界が一変するようだ。


自分はこの一気に世界が変わる第4楽章、第5楽章で、3番に目覚めたと言っていい。


なんと!美しいんだ!


人間の声の魅力、そして合唱の美しさ。

筆舌に尽くしがたい。


冒頭の静寂の中で美しく地面をすれすれに這うように奏で始められるアルトの声。世界が一変する。


クラシックの交響曲の中に初めて、人間の声、合唱を取り入れたのはベートーヴェンだけれど、マーラーはその恩恵を自分の11曲の作品の中でフルに活用している。


人間の声が入ることで、いままでの流れが激変しますね。一気に世界観が変わる。


そして人間の声には説得力がある。こちらに迫り、訴えかけてくる切実さと迫力がある。圧倒される。


きわめてゆるやかに、神秘的に 一貫してpppで。


アルト独唱がニーチェの「ツァラトゥストラはこう語った」第4部、第19章「酔歌」の第12節「ツァラトゥストラの輪唱」から採られた歌詞を歌う。


そして第5楽章。児童合唱が鐘の音を模した「ビム・バム」を繰り返し、いっきに長調の世界へ。この「ビム・バム」が美しいんだよね~。自分が3番に目覚めたその一瞬というのは、この「ビム・バム」だったと断言していい。


それだけこの長い曲の中で、とても美しい。長大な曲の中で天使が舞い降りた瞬間、清涼剤とも言えるくらいの美しさだ。


自分は、この「ビム・バム」が、3番の中で1番好き。児童合唱と女声合唱の競演は、自分にとってこの曲の1番の注目ポイントだ。


きしくも、苦手だった3番を好きにさせてくれたそのきっかけが、第4楽章、第5楽章による人間の声だったというのも、今回の東京春祭 合唱シリーズでマーラー交響曲第3番が取り上げられたという奇遇も重なって自分は運命を感じるのである。


これは絶対聴きにいかなければダメだろう、という。。。


そして最終楽章の第6楽章。


ゆるやかに、安らぎに満ちて、感情を込めて。


弦楽合奏による美しい主要主題が奏される。まさに最終楽章をしめるゆったりと大河を流れるような美しさ。


まさに壮大、荘厳である。


この最終楽章の主題を聴くと、もう自分は涙がとまらないです。もうどう言葉で表現したらいいのか、見つからないくらい、美しすぎて感動的な哀愁をおびた旋律。


物語の終結を暗示するやや陰影感も彷徨う、でもそこには希望もある。


この主題の旋律を聴くと、いままでの長かった先の5楽章の物語・ストーリーが、いまここに完結する、というドラマ終結の感動、美しさを感じますね。


このために長い5楽章をいままで聴いてきたのではないか、と思うくらい。それだけ圧倒される。感動的なフィナーレである。


自分のマーラー交響曲第3番との闘いは、この終盤の第4楽章~第6楽章で一気にその美しさに魅了され、その良さを再認識し、それをベースにしてもう一度、第1楽章~第3楽章を聴き、あとから感動のフィナーレが来るぞ、来るぞと楽しみながら聴くということで、初めから通しで、曲全体の構成感、型を自分のものに出来た、というのが事の全容だと思う。



東京・春・音楽祭2022 合唱の芸術シリーズ マーラー交響曲第3番



来年の上野の春に燦然と輝く金字塔の名演奏になることは間違いなさそうである。









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