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カルロス・クライバーの魔弾の射手 [クラシック指揮者]

天才指揮者 カルロス・クライバー。


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非常に気難しい人で、あちこちのオーケストラでトラブルを起こしているとの噂が絶えなかった。また、キャンセルの話題にも事欠くことがなかった。


でも、コンサートに登場する度に会場は拍手の嵐に包まれた。


オペラだって、ほとんどが「ばらの騎士」と「こうもり」。「ばらの騎士」が、また、もの凄い演奏。本当に、当日コンサートに来てくれれば、人々を感動の渦に巻き込む人物であった。しかし、嫌な時は決して指揮をしない人物でもあった。


滅多にコンサートを行わず、生ける伝説などと呼ばれていた人。


常任指揮者や音楽監督などの要職には就こうとしなかった。名声が高まったのは60年代後半から。レパートリーが狭く、コンサートの数が少なく、キャンセル魔で、録音恐怖症で、インタビュー嫌いで、それでも、いったん指揮台に立てば華麗なタクトで観客も評論家も虜にしてしまう。彼こそ真の意味でのカリスマであった。


ちなみに、自分の活動スタイルについて、クライバーは独特のユーモアを交え、「腹が減った時だけ、指揮をやる」と語っていた。



カルロスはレパートリーを少なく限定し、リハーサルの時間を同時代のチェリビダッケに匹敵するほど多くとり、自分の意に沿わないとわかった仕事は次々とキャンセルするという仕事のスタイルを採り続けた。


キャンセルにより代替指揮者が立つリスクがあるにもかかわらず、常にチケットは売り切れた。



映像に残る彼のリハーサル風景は、楽員に対し彼の音楽解釈を比喩的な表現を用いて事細かく説明するものである。(この点に関して父エーリヒも同様だったという)


またリハーサルの前には必ず作曲家の自筆譜を調べ、他の演奏家による録音を入手して演奏解釈をチェックし、また父エーリヒが使用した総譜を研究するなど入念に準備を行った。


しかし細かいリハーサルに対し、本番は独特の流麗優美な指揮姿で、観客を、そしてオーケストラの楽員や同僚の音楽家までも魅了した。それらは幸い多くの映像に残されており、オペラ映像では舞台上で歌が続く最中にピットの指揮姿だけを1分以上映し続けるという、常識ではありえない編集が行われているものもある。


その指揮から溢れ出る音楽は、めくるめくスピード感、リズム感、色彩の鮮やかさ、詩情の美しさで群を抜いており、世間からしばしば「天才指揮者」と称せられた。


その指揮姿は流麗で蝶のように舞う、と言われた。



1980年代後半から指揮の回数が2,3年に数回のペースとなってゆく。(指揮したオーケストラは主にバイエルン国立歌劇場管弦楽団、ウィーン・フィル、ベルリン・フィルなど)


カルロスがどこかのオーケストラを指揮するというだけで大ニュースになり、首尾良く演奏会のチケットを入手しても当日、本当に彼が指揮台に立つまでは確かに聴くことができるか保証の限りではなかったが、多くのファンが彼の演奏会を待ち望んでいた。



カルロスは、自分の理想をとことん追求する人なので、彼の基準線の中でどうしても引けない一線というのがあって、そこでオーケストラとの考え方やそりが合わない場合、それが開演直前でも容赦なくキャンセルしてしまう人だった。


彼が内心どのように考えているか、他人が慮ることはとても難しかったとのことだったので、彼がいつ突然急にやめた、キャンセルするということは、誰も予想することが出来なくて、関係者としては常に恐怖に怯えているような状態だった。それは関係者のみならず、コンサートに来る観客も、彼が本番当日に本当にステージやピットに現れるかどうか、そのときにならないとわからないという不安を常に持ちながらであったそうであるから、突然中止になった場合にどれだけの損害を被るのか配慮できない、そういう意味で、常識のない社会性が欠如した人間だったともいえる。厳しいことを言うが。


いまではそのようなことはとても考えられないが、それがカルロスなら仕方がないと許された当時の時代背景との差というのもあるだろう。


ウィーンフィルのニューイヤーコンサートは、1989年と1992年の2回登場したが、最初の1989年はウィーンフィルと意見が合わず、あやうくニューイヤーコンサートすらキャンセルすることになりそうだった、ということだったから驚くばかりである。


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自分はカルロス・クライバーを、世間一般の絶対的な評価「天才指揮者」として、なんでもかんでもやみくもに聖人化してしまうことを昔から、正直気に入らなかった。


世に存在するカルロス・クライバーの伝記本やドキュメンタリーは、みんなカルロスのことを聖人として扱う。


上記のような指揮者人生、じつに個性的な指揮者スタイル。


確かに稀にみるカリスマな存在であったことは間違いない。


でも、それを安易になんでも「天才」と聖人化してしまうのはどうなのか。本当にクライバーは天才なのか。


現場での結果(録音作品、コンサート回数)を出せていないのに、なにをもって天才と呼んでいるのか、自分には理解できなかった。


カルロス・クライバーは、音楽に対する向き合い方が 正対じゃない。どこか斜めなのだ。 カラヤン・バーンスタインや小澤征爾さんたちは、 もっとストレートに音楽に向き合っているように思う。


どこかそのような印象をずっと持っていた。


まず最初に誤解のないように言っておきたいことだが、自分はカルロス・クライバーの大ファンである。でなければ、こんなに書籍、映像素材、音源を全部揃えている、ということはしないだろう。ひとたび、指揮台に立ったとき、その流麗で流れるような美しさ、蝶が舞うようなその美しい指揮振りで、世界をいっきに高みに持って行ってくれるその凄みもよく知っていた。


でも、これらを全部何回も鑑賞した経験をもち、ファンならだれもが知っている通り一辺倒のカルロスについての情報について知っているからこそ、自分には、気難し屋で、キャンセル魔で、演奏・指揮回数やレパートリーも少ない彼が、天才指揮者、カリスマと呼ばれて聖人化されていることに、どうも合点がいかなかった。


もっと彼の本質を暴いてみたい。巷のクライバーに対する評価、ものさしを一旦全部取り去り、無の状態で、自分でもう一回クライバーの音源、映像作品、書籍をすべてを徹底的に研究し、自分オリジナルの見解としてみたい。


そしてカルロスをけっして聖人化しない、ということをモットーとし、そういう固定概念にとらわれず、もっと彼のその本当の真なる実力を分析したい、と思ったのだ。



カルロス・クライバーの演奏が LPとして日本に入ってきた最初は ウェーバーの歌劇「魔弾の射手」(DG)であろう。


じつは、このクライバーのウェーバーの魔弾の射手は、自分はあまりよく知らなかった。今回のこの日記を書くうえで、自分の持ち合わせに不足している作品として、これがあり、改めて購入ということで、聴いてみたのだが、これがじつに優秀録音で驚いてしまった。


それ以来すっかり自分の虜となってしまった作品なのだが、これは後で詳細に記述したいと思う。


LPレコードで カルロス・クライバーが私たちに強い印象を与えたのは 次にリリースされたベートーヴェンの「運命」交響曲だ。 LP一枚で 「運命」一曲のみという破格の短時間収録LPだった。 「運命・未完成」というカップリングが、ベストセラーになったほどだから 「運命」は LP片面に入る曲というイメージが強かった。 そこに あえて1曲のみでレギュラー盤で出してきた。


1974年録音の「運命」は、非常に個性的で面白い演奏だった。 その面白さは、ウィーン・フィルの伝統的な演奏方法による「運命」をベースに 非伝統的な思いつきともいえるようなアイデアを ちりばめたところにあると思う。


基本的には ウィーン・フィルの伝統の行き方をベースにして クライバー・スパイスをふりかけたといった印象だ。 


オーケストラもクライバーの思いつきを面白がって 乗って演奏しているようで 結果的に 新鮮な魅力を持つ「運命」となり、鬼才クライバーというイメージを 日本の音楽ファンに植えつけた。 


ただ 上述のような彼の個性的なアイデアは、ある種感覚的なもので 楽譜を読み込んだり分析して 論理的に得られたものではない。 そのようにカルロス・クライバーの場合は、大きな曲を構成するベーシックな方法論が脆弱なのではないかと思われる。 


そのことが 彼のレパートリーの狭さや限界に関係している。 


1970年代のカルロスの場合は、名門オーケストラの持ち味を活かして それに自分なりの個性・風味を付加することで満足し、演奏を楽しんでいたように思われるが1980年ごろからカルロス自身が それでは満足できなくなり もっと自分の色がすみずみまで浸透した、悪く言えばどぎつい表現を求める方向に 変っていったのではないだろうか。   



一方カルロス・クライバーの演奏が 当時の音楽ファン、耳の幼い音楽ファンを惹きつけたのには、別の要素もある。 


曲のどこかにポイントを定めて エネルギーをそこに向かって蓄積し、高め、 一気に「爆発する」。 


そうしたわかりやすさがある。 


ピアニストでいえば、アルゲリッチの1970年代の演奏様式に似たものを感じる。 1970年代は、一般的には「爆発しない」タイプの演奏様式が 特にレコード録音では、主流だったと思う。


ある種脱力系というか起伏がなだらかで精緻な演奏がモダンだとされた。



当時のスター演奏家を眺めてみても もはやバーンスタインも ベートーヴェンやブラームスといったクラシック交響曲では、 爆発しないし、ベームは オーケストラの持ち味によりかかった晩年のスタイルになっているし カラヤンは、爆発というよりも響きの豊潤さを重視した、流麗で古典的な演奏スタイルだ。 それに続くアバドや小澤征爾さんといった中堅もある種優等生的精密な演奏スタイルだった。 


そこにあらわれた「爆発する」カルロス・クライバーの沸騰するような温度の高い演奏が 若い音楽ファンの欲求不満を解消してくれたのだ。 


おそらく日本の音楽ファンにとって カルロス・クライバーの人気が決定的になったのは、 LP最末期のORFEOレーベルのベートーベン 交響曲第4番だったであろう。 この第1楽章の序奏の最後で お約束のように爆発し 奔流のようにアレグロ主部に突入する勢いは凄まじい。 前述したように 1970年代のDG録音「運命」や「第7番」に比べると 表現が ずっとどぎつくなっている。 


曲全体を俯瞰してみると かなり異形な演奏だと思うが ある部分を取り上げると とても個性的で魅力がある。 この第1楽章の序奏の最後の部分などは その後しばらく他のどんな演奏を聴いても物足りなく思ったほどだ。 


そうした異形さ、言葉を変えればロマンティックな表現は フルトヴェングラーに通じるものがあるのも確かだろう。  


自分個人的には クライバーの正規盤全録音で DGのウィーン・フィルとのベートーヴェン交響曲第7番が演奏・録音ともに 最も好きだ。 曲の魅力、オーケストラの魅力、カルロス・クライバーの魅力がとても良い塩梅にブレンドされていると思う。


このある一点に向かって爆発する、というクライバーの曲をドライブする手法は、その曲中だけの話には収まらないと思う。


自分が思うに、カルロスは常任指揮者のように常にコンスタントに指揮、演奏会をおこなっていく定型パターンを好まず、これはある意味気まぐれな彼の性格によるところなのかもしれないが、インターバルを保つことを基本に、そのある一点に向かって全体の気を盛り上げていって、そしてエネルギーを集中させていき、その本番で爆発するといった演出方法を彼自身が内面的に意識していたのではないか、と思うことだ。


よく言われることは、アーティストは、自分のコンサート日程を告知したら、あとはそれでお終い。本番でお会いしましょう、というだけではなく、その本番までにいろいろなプロモーションをすることでお客さんのそのモチベーション、気を高めていく、そしてその本番で一気に頂点に達する、そういうプロセスを計算することも、じつはアーティスト本人の大事な責任なんだよ、ということを吉田秀和さんだったかな、黒田恭一さんだったか、言っていた記憶がある。



カルロスは、その当時から彼自身の中でそのような自己演出を自分の内面で意識していたところがあるのではないか。自分にはそう思えてならない。


だからキャンセル魔で気難しく、自分の理想通りにいかなければ、容赦なくキャンセルする、滅多にコンサートを行わず、生ける伝説などと呼ばれていることを自らが意識していて、そんなインターバルがある中で、カルロスが指揮をする、ということだけで大変な話題になり、そのコンサートにファンの意識が一気に集中していき、気が高まっていき、その当日に一気に爆発する、という。。。 


カルロス・クライバーは曲の演奏の仕方だけではなく、自分のコンサートへの気の持っていきかた自体にもそのような「ある一点への爆発」、というような手法をとっているのではないか、と推測してみたくもなる。


でも、自分がカルロス・クライバーについて、解析を試みれば、試みるほど、そして世間と違って辛口で論じようと思えば思うほど、自分にはなんか後味の悪さというようなものを感じてしまう。


恣意的に彼のイメージを貶めるのは、それははたしてなんのメリットがあるのか。カルロス・クライバーに対して、まさに心底その魅力に取りつかれてきた往年の大ファンの方々に対して、そんな美しい想い出を単に茶々を入れて、ぶち壊しているだけではないのか。


クライバー自身、すでに故人でもあり、その故人のイメージは、やはり世界中の大勢のクライバー・ファンの美しい記憶の中のままで永遠に生き続けていくべきなのであろうと思う。


カルロス・クライバーを実演で体験したことのない自分が、そんな資格はないと思い直したのだ。


カルロス・クライバーは、やはりもともと指揮者として、やみくもに頑張っていこうという気持ちもさらさらなく、本当に「腹が減ったとき、冷蔵庫が空になったときだけ、指揮をする。」という淡白なものだったのであろう。


そしてコンサートも滅多にやらなくなり、クライバーが振るというだけで、それだけで大変な話題となり、本当にギリギリ直前までどうなるかわからないという波乱含み。


そして運よくそのコンサートを振ってくれるときは、まさにその流麗な美しい指揮振りで、オーケストラや観衆を一気に世界の頂点の高みまで必ず連れて行ってくれる人。


このこと自体のことで、彼のことをカリスマ、天才指揮者として呼んで全然いいのであろう。クライバーがカリスマで神秘的だったのも、そこがファンにとって魅力的で、すべてここに集約されるということだったのであろう。


そのことになんら不満はないし、それ以上のこともなく、それがすべてなのだと思う。


であるので、カルロス・クライバーの真実の日記は企画中止とさせてもらうことにした。


自分はカルロス・クライバーの数少ないレパートリーを聴いてきた中で、やはりベートーヴェンの交響曲第4番,第7番が一番お気に入りで聴いてきたのであるが、最近とみに思うは、クライバーってやはりオペラの人なんだろうなと思うことだ。


クライバーといえば、ばらの騎士、そしてこうもり、ラ・トラヴィアータ(椿姫)。これにトリスタンとイゾルデが入ることもあるだろう。


彼のオペラ録音を聴くと、軒並みなんともいえないようなドラマ性、劇場型の展開に、こちらの心を煽られるというか、翻弄されてしまう。


そして軒並み優秀録音ばかりだ。自分にとって「ばらの騎士」、そして「こうもり」、「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」は、このオペラの予習をするときは、必ずクライバーのディスクがリファレンスになる。


それだけ自分にとって絶対的なポジションのディスクである。


今回あらためてカルロス・クライバーのことを考えてみようと思い、彼の場合レパートリーが少ないので、音源自体も極端に少なく、彼の音源を全部揃えることはさほど難しいことではなかった。


その中で自分が持ち合わせていなかった音源に、ウェーバーの魔弾の射手がある。




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「魔弾の射手」全曲 カルロス・クライバー&シュターツカペレ・ドレスデン、

シュライヤー、テオ・アダム、他(1973 ステレオ)(2CD+ブルーレイ・オーディオ)




カルロス・クライバーの記念すべきドイツ・グラモフォンデビュー・アルバムである。シュターツカペレ・ドレスデンとの作品である。



自分はこのオペラ、実演でも映像素材でもじっさい観たことがないのだが、クライバーのこの音源を聴いて、一発で虜になってしまったのである。


まず驚いたのは、その録音のよさ。


当時のステレオ録音の最高峰ともいえる素晴らしさで、情報量の多さ、音の厚み、倍音豊かな弦合奏の潤い感ある響き、エッジの効いた鋭利感、そして合唱(ライプツィヒ放送合唱団)のスケール感の大きい美しさ、エンジニアリング的にも、非常に洗練された音声処理をされていて、なにをとっても申し分なかった。


聴いていてすごく気持ちが良かった。

いい録音だなぁ~と感心してしまった。


そしてなによりもエンジニアリングだけでは解決できないホール空間、ホールの響きの素性が抜群に素晴らしいと感じた。じつに抜け感が良くて、濃厚で芳醇な響きで、立体感もあって、クラシック録音はやはりホール空間がすべてだな、と確信した次第である。


クレジットを見ると、ドレスデンの聖ルカ教会であった。

どうりで。。。である。


優秀録音の録音場所として、屈指を誇る超有名な教会である。あらためて、聖ルカ教会の音響の良さに脱帽した、という感じである。


また、魔弾の射手のわかりやすい明解な主題の旋律。非常に初心者向けでわかりやすい、とてもいい音楽だ。


いったんこの主題を耳にしてしまうと、ワーグナーの毒性と同じ、頭の中を永遠にループし続けるようなそんな中毒性がある。


不思議なことに、賞味2時間くらいのオペラであるが、1度聴き終わると、もう1回聴きたくなる、それを2~3回繰り返すという中毒性があるのだ。


1回聴いただけでは、ものたりない、というか、必ず通しで3回は繰り返して聴いている。そんな中毒性がある。


カルロス・クライバーのオペラと言えば、いまや自分にとっては、ばらの騎士、こうもり、ラ・トラヴィアータ(椿姫)よりも、このウェーバーの魔弾の射手である、と言っても過言でないほどの惚れこみようだ。


カルロス・クライバーの真実の日記を書くことをやめて、このクライバーのウェーバーの魔弾の射手の録音の絶賛日記を書くことに路線変更しようということである。


これを自分の落とし処としたいのである。



独唱ソリストも、素晴らしい陣営なのだが、自分はやはりエディット・マティスが堪らない。


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自分が偏愛するマティスは、1960~1990年代に活躍したソプラノで、ドイツ圏のソプラノとしてはトップクラスの美貌、それもどちらかといえば愛嬌のあるルックスが大きな魅力。「とにかくキュートで可愛い!」というのが当時のマティスの大きなインパクト。


ずばりマティスの声質、歌い方は、声に硬質な芯があって、明暗をはっきりさせた、まさに「楷書風」の歌い方なのだ。


そして、とても品格がある。声の響き方に、孤高の気品の高さが漂う感じ。


そして、なによりも明るい響きがある。

彼女の声はリリック・ソプラノなのだ。


そして思うことは、非常に古風な歌い方だということ。現代のオペラ歌手の歌い方で、このような歌い方をする人はいない。昔の時代の歌手の雰囲気がある。


最初マティスが参加しているとは知らないで聴いていたが、声を聴いた瞬間、マティスだ!と思い、その凛とした歌い方に、改めて惚れ直してしまった。


彼女が歌っているところだけでも、もうとても幸せな気分である。


とにかく、お恥ずかしいことについ最近知った、カルロス・クライバーのデビューアルバム。ウェーバーの「魔弾の射手」全曲。


これがじつに素晴らしい録音で、自分の超お気に入りの音源となっていることを、ここに高らかに宣言して、ずっと自分の懸案・課題だったカルロス・クライバーの日記をここに終えたいと思う。




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