鎌倉五山と京都五山 [寺院・仏閣]
鎌倉に根付いた仏教文化は、やっぱりひと味違う。京の華やかな貴族文化とは相対する、その対極にあるような印象で、いかにも東国武士団の素朴で地味、そしてある意味武骨ともいえる男らしい文化である。
うわぁ、ジミ~!と最初は思ったが、これぞまさしく鎌倉の仏教文化なのだろう。いろいろ見て回っていくうちに、その魅力の虜となっていく自分がいた。
なんか妙に心が落ち着く。自分はこういう世界が大好きである。やっぱり日本人なんだな~と思います。
学生時代は、日本史がすごく好きで好きで堪らなかった。理系の人間にとって、社会科というのは学業の負担でしかないと当時は思われていて、共通一次(いまでいう共通テスト)試験では、地理、倫理(いわゆるチリリン)を受験するのが定石と言われていた。
でも自分は日本史が好きで好きで堪らなかったので、社会科の受験科目として日本史を選んだのである。日本史は本当に覚えることが多くて大変なのかもしれないが、好きこそものの上手なれ、という言葉があるように、自分にとってはまったく負担にはならなかった。
自分の日本史好きは幼少の頃からなのである。
日本の寺院仏閣には、古より”五山”といって、5つの寺院を挙げて特別に扱う歴史がある。今回、鎌倉五山というのがどうしても避けて通れなかったので、自分もいろいろ調べてみた。
そうすると、日本の歴史の中で、五山というのは、鎌倉五山だけではないことがわかった。
「五山」とは、中国の制度にならったもので、禅宗寺院の格式を表したもの。鎌倉時代に北条氏によって導入された。
鎌倉では、南宋で修行を積んだ栄西によって持ち込まれた「臨済宗」が発展し、北条時頼や北条時宗などによって大寺院が建立された。
五山の制度がいつ取り入れられたのかは定かではないが、1299年(正安元年)に九代執権北条貞時は浄智寺を五山に列するよう命じている。
また、どの寺院が五山に列せられていたのかも定かではないが、鎌倉の禅宗四大寺である建長寺、円覚寺、壽福寺、浄智寺と京都の建仁寺が五山に列せられていたと考えられる。
北条氏による鎌倉五山
壽福寺
1200年(正治2年)創建
建仁寺(京都)
1202年(建仁2年)創建
建長寺
1253年(建長5年)創建
円覚寺
1282年(弘安5年)創建
浄智寺
1281年(弘安4年)頃創建
鎌倉幕府滅亡後の五山として、
後醍醐天皇が決定した五山というのがある。
後醍醐天皇による建武の新政下では、1334年(建武元年)、京都を中心に五山が定められた。
一位:南禅寺
二位:建長寺
三位:円覚寺
四位:東福寺
五位:建仁寺
足利尊氏が決定した五山
室町幕府を開いた足利尊氏は、1341年(暦応4年)、五山を武家中心のものに改めた。
一位:建長寺・南禅寺
二位:円覚寺・天龍寺
三位:壽福寺
四位:建仁寺
五位:東福寺
足利義満が決定した五山
1386年(至徳3年)、室町幕府三代将軍足利義満は、南禅寺を五山之上に置き、鎌倉五山と京都五山を決定した。この決定が最終的なものとなる。
鎌倉五山と京都五山。
鎌倉と京都の寺院が五山として名を馳せてきたんですね。
もともと五山という発想が、鎌倉時代の北条氏によって導入されたものだということだから、つねに東と西でその名誉を分け合ってきたのだと思います。
鎌倉五山の中でも、なぜか京都の建仁寺が選ばれている。
禅の文化が生んだ「五山文学」
禅宗寺院の隆盛は、「五山文学」を生んだ。五山文学とは、禅僧による法語や詩、日記などのこと。
建長寺に残されている蘭渓道隆の「法語規則」は国宝。詩文では、義堂周信の「空華集」や絶海中津の「蕉堅藁」が知られている。禅僧は外交文書の起草においてもなくてはならない存在となっていた。
禅の文化が生んだ「美術」
鎌倉時代から室町時代にかけては、禅僧の「頂相」(ちんぞう)が盛んに制作されるようになる。「頂相」とは、禅僧の肖像画、または、彫刻のことで、師が弟子に法を伝えた証として制作された。
建長寺に残されている「蘭渓道隆像」(肖像画)は国宝。
円覚寺の「仏光国師坐像」、瑞泉寺の「夢窓国師坐像」、建長寺塔頭正統院の「高峰顕日坐像」などの頂相彫刻は、国の重要文化財に指定されている。
頂相の他にも、建長寺や円覚寺の「仏涅槃図」、「五百羅漢図」などの多くの仏画が描かれ、水墨画のルーツになったともいわれている。
情報引用元:
数字で表された鎌倉の名所:鎌倉五山
鎌倉五山は、北条氏によって任命されたお寺。今年の大河ドラマの主役の北条義時の後の世代になるが、ぜひ大河ドラマに纏わる巡礼として、この鎌倉五山をまわってみたいと思ったのである。
2022-01-26 18:12
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