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昭和アイドル博士 [クラシック雑感]

自分はテレビ(地上波、BS)は、独特の見方をしていて、音声は消してオーディオで音楽を流しながら、画面だけを見ているという見方をしている。


最近のテレビは、必ず字幕が付くので、その字幕を見るだけで十分話している内容を楽しめるのである。


テレビのない生活は意外や自分はダメかもしれない。テレビはくだらない、という最近の意見はよくわかるけど、私生活ではなにかとテレビ番組の映像があったほうがさみしくない。


聴いているのは、オーディオで音楽だけど、視覚で見ているのはテレビ番組というのが自分の生活スタイルである。


音声までテレビにしてしまうと、これまた苦痛なんですね。(笑)自分が毎週見ている番組だけ、映像も音声もテレビにします。


それ以外は、テレビは映像だけ、音声はオーディオで音楽という生活です。


そんな中で、偶然なのだが、テレビ朝日のサンドウィッチマンと芦田愛奈の博士ちゃんという番組を見た。この番組はなんか毎週見てしまうのだが(もちろん映像だけ)、なかなか面白い。


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あることに専門知識を持った子供たちが、その博識ぶりを披露して、いわゆる博士ちゃんなのだが、それをレギュラー陣のサンドウィッチマンと芦田愛奈さんが感心する、という番組。


子供なのに、本当にすごい詳しいのだ。その詳しいジャンルは、いろんな子たちそれぞれでいろいろで、子供ってやっぱり子供時代は夢中になることって様々なんだな、と思ってしまう。


すごい微笑ましい番組。けっこうこの番組見ていて楽しいです。


そんな中で、先週は昭和アイドル博士ちゃんを特集していた。


我々の昭和時代のアイドルを、いまの令和の子供たちが大好き、熱狂的に調べて博士のように熱く語るという企画。西城秀樹、野口五郎、郷ひろみの御三家、近藤真彦、田原俊彦、野村義男の新御三家、松田聖子、中森明菜など、我々昭和時代ならリアルタイムだったアイドルを、いまの幼い小さな令和の子供たちが大好きで、いろいろなグッズ、CDを集めて、博士のように熱く語っているのだ。


もともとはお母さんの影響が大きかったようだ。お母さんが好きだったアイドルをそのまま受け継いでいるみたいな。。。お母さんの持っていたカセットテープをそのまま譲り受けて聴いているみたいな。。


自分はその熱く語っている子供たちを見て、なんか無性に微笑ましいというか、可愛らしく感じた。昭和時代のアイドルのショーは、それこそド派手もいいようなすごい金のかかったステージで、いまの時代ではありえない凄さである。


その博士ちゃんは、そんな西城秀樹が大好き、なんでも知っているという。それがなんとも可愛いのである。


そう思う理由に、自分のリアルタイム時代の昭和のアイドルを好きでいてくれることに無性に同調意識というか好感を持つのではないかと考えた。


それで、その子たちにとって、そういう全然自分の知らない時代のアイドルやステージパフォーマンスっていまの時代には体験できないことで、自分にとってすごい神秘的に感じるのではないか。


自分の知らない時代は、そして過去の記録でしか体験できない世界は、いまよりもずっと神秘的に感じしてしまう。そういう一種の人間の性みたいなものがあるのではないか、と思うのである。


これは人間の一種の特徴なのではないか。


自分はクラシック音楽ですごくそのことを感じる。


クラシックの世界では、過去の巨匠、あのときの、あの日の名演奏、というようにとても過去の伝説の名巨匠、名演奏家、そしてその名演奏に敬意を払う世界である。


その時代のSP,LPなどの音源は、それこそプレミア価格の貴重品である。


これはこれでひとつの価値観の別世界といっていい。


自分も夢中になった時期があった。クラシックのコレクションでは、そういう時期のものを蒐集したくなるそういう夢中になる時期があるものなのだ。


自分の場合、もうすぐ予算の関係上、そういう蒐集はしなくなりましたが。(というかできなくなったし、気力が追いついていかなくなった。)


やっぱり自分の生まれる前、知る前の時期の名巨匠、名オーケストラ、名演奏は、すごく神秘的に感じるものなんですね。自分がリアルタイムに知らないからこそ、余計に神秘的に感じてしまう。


最近、そういう衝動に対して、自分はこのように言い聞かせるようにしている。


1940年代~1950年代のたとえばフルトヴェングラーにしても、トスカニーニにしても、あの時代にリアルタイムに生きていた人たちにとっては、それが至極あたりまえの事象であって、当時の感動はあったとしても、それはあくまであたりまえの事象に過ぎず、あれから何十年後に現代の我々が感じる神秘的な世界、価値観とはまったく別物だったのであろう。


そしていまのジョナサン・ノットなど普段あたりまえのように接している指揮者たちも、いまから50年後、100年後経過した場合は、やはりその将来に生まれる人たちにとっては、すごい神秘的に感じるのではないだろうか、ということである。


なんかそんな輪廻人生のような気がしてならない。


それこそ1930~1950年代のクラシック音楽に非常に興味をもつとき、自分はふっとそんな冷めたことを考えたりすることもある。あの当時にリアルタイムに生きていた人にとっては、それは普通のことだったんだろうな~という感じで。


でもクラシックのこういう時代ものの歴史の過去の名演奏音源の蒐集は、やはりなんともいえない魅力があるし、ある意味独特のブランディングと言っていいし、あの頃の時代の知識を知ることと、それはそれはすごく面白くて興奮する。


もちろん1930~1950年代などいまのように録音技術、映像技術など発達していなかったから、いくら当時の人とは言え、それを体験できた人と言うのは、あくまで実演に接した人だけということなのだろう。そういう意味で単純な比較はできないかもしれない。


なんなんでしょうね。この感覚。


本当にクラシックならではの一種独特のブランドではないかと思います。


自分は、サンドウィッチマンと芦田愛奈さんの博士ちゃんで、昭和アイドルの博士ちゃんたちが登場したときは、我々昭和時代をリアルタイムに生きてきた人間にとっては、至極あたりまえのアイドル歌手だったけれど、令和の子供たちにとっては、その歌手たちが、自分たちがリアルタイムに知らないからこそ、それが余計に神秘的に感じてしまうんだろうな、と思ったのでした。


無性にクラシックの世界のことを思い起こした瞬間でありました。





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