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烏帽子 [歴史]

鎌倉時代、平安時代の男性は、必ず烏帽子をかぶる。これが織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の時代になると烏帽子をかぶらなくなる。もうじかにチョンマゲでもろだしである。自分はビジュアル的に烏帽子をかぶっていたほうが、カッコいいな、と昔から思っていました。


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白拍子も女性が男装しますので、烏帽子をかぶります。


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烏帽子はそもそも貴族の文化ですね。源頼朝の鎌倉時代の武士もその貴族文化から脱することができず、烏帽子をかぶる文化でありました。


自分はいつもこの時代のこの烏帽子をかぶった貴族や武士の歴史ドラマを見るたびに思うのは、それぞれの役者さんの頭のサイズに合わせて、ぴったしカンカンのサイズだということです。


そしてきちんとビシッと頭に固定されている。あれ、どうやって固定しているのかな?昔の貴族や武士はどのように頭に烏帽子を固定させていたのかな?


そして寝るときとか、烏帽子を脱ぐことってあるのかな?という疑問を常日頃から持っていたのです。


そこで、ちょっと自分的にこの烏帽子について、少し調べてみよう、詳しく知ってみたいと思うようになりました。



烏帽子.jpg


烏帽子は、公家や侍(仕える下級貴族)たちの日常のかぶり物として徐々に庶民にも広まっていき、武士たちも着用するようになりました。


小結(こゆい)という烏帽子の内側の紐(ひも)を髻(もとどり)の根元に結びつけて固定します。


→ここです。ここです。これが烏帽子と頭を固定させるテクニックです。髻(もとどり)については、あとで説明しますね。



平安時代には羅(うすもの)つまり薄い布でできていたため軽く小結だけでも十分に固定できました。特に侍(下級貴族)たちは折烏帽子にしてかぶっていたため侍烏帽子とも称されていました。武士(武装農民)たちも侍(下級貴族)に習い折烏帽子を用いていったと思われます。


そもそも長髪は大陸の影響を大きく受ける貴族の特徴であり、武士(武装農民)は元々は農作業や狩猟、領地争いにおける戦争で邪魔になるため古代から短髪だったという説もありますが、平安時代ころには武士(武装農民)たちもしだいに長髪になっていたと思われます。


●髻(もとどり)は髷(まげ)とは違う


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飛鳥時代以降大陸から伝わり、髻は冠や烏帽子また兜などをかぶるために頭頂部で髪(肩を越すぐらいまで伸びた髪)をまとめて結って立てている部分で、このような貴族の髪型を烏帽子髪もしくは烏帽子下と言いました。


武士(武装農民)たちも髻をして烏帽子をかぶるようになりましたが、室町時代以降には月代(さかやき)を剃って頭頂部で曲げて結うようになり髷(まげ)と言われるようになり、烏帽子そのものをかぶらなくなりました。


→髻(もとどり)というのは図のように、長髪を上のように束ねることを言うんですね。確かに江戸時代の髷(まげ)とは違いますね。


そして烏帽子の内側の紐(ひも)と、この髻(もとどり)の根元を結び付けて固定させていたんですね。


でも、これは大昔の髻(もとどり)の髪形にしていた貴族や、武士だからそのように固定できましたけど、大河ドラマでの現代の役者さんたちは、普通の短髪の髪形なんですから、どうやって烏帽子を頭に固定させているんでしょうね?(笑)ビシッと固定されていて、ちょっとやそっと動いても、ズレませんよね。


●髪型は人に見せられない


髪型は実際に文献や図面資料に見られることはほとんどありません。冠や烏帽子を人前で外すことはいわば人前で下着(パンツ)を脱ぐぐらい恥だったからです。ただし自宅や親しい人との寛いだ場では冠や烏帽子を外すこともあったとされます。


とはいえ前述したように恥を感じるのは貴族にとっての風習であり、貴族に習って着けていた武士(武装農民)らは室町時代以降はしだいに日常的にかぶらなくなっていきます。織田信長などをテーマにした戦国時代のドラマや映画などでは烏帽子姿の武士が少ないイメージで、しだいに月代をしている武士たちも見られるようになります。


→烏帽子を人前で脱ぐこと、髪型を人前でさらすことは、下着、パンツを脱ぐくらい恥ずかしいことだったんですね。(笑)鎌倉殿の13人で、大泉頼朝と小栗義時が、露天風呂に入るシーンのときに2人とも烏帽子をかぶっていたので、お風呂入るのに、それってありなのかな?と不思議に思いましたが、全然史実に沿った正しい時代考証だったという訳です。


烏帽子はもちろん寝るときも外さないです。烏帽子をかぶったまま寝るみたいです。



●「てっぺん」の語源は髻と烏帽子を出すための兜の孔


平安時代までは兜をかぶるときに髻と烏帽子を兜の天辺の孔から出して固定しました。


冠や烏帽子だけでなく、兜も頭頂部で結わなければかぶることができないので、必然的にかなり高い位置で結っているのが分かると思いますが、天辺の孔が語源となり最も高いところを「てっぺん」と言うようになったとされています。


鎌倉時代以降は兜の天辺の孔から髻と烏帽子を出さなくなり(戦いのなかで掴まれてしまったり孔を弓矢で狙われるため)、髻を結わずに烏帽子をかぶるようになります。また室町時代から戦国時代にかけてしだいに烏帽子そのものがかぶられなくなっていきます。



→つねに烏帽子をかぶることが慣わしとはいえ、戦の兜をかぶるときは、どうやっていたんだろう?というのは、やはり疑問ですね。上記のように、まっだんだん烏帽子をかぶらなくなっていった、というのが歴史の史実なんですね。


情報引用元:

平安時代の烏帽子についてのあれこれ



でも昔の人にとって、烏帽子を脱ぐということは、パンツを脱ぐことと同じくらい恥ずかしいことだった、というのは驚きました。だからお風呂に入るときも寝るときも烏帽子をつけたままだったようです。


自分の長年の疑問がひとつ解けたような気がします。




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