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SKI NOW [スポーツ]

北海道出身にとって、スキーは地ガキ(地元のガキという意味)にとって絶対得意でないといけないスポーツであった。北海道で生まれ育った人間にとってスキーができないのは、かなり恥ずかしいことだと幼少の頃から思っていたところがあった。ピアノと同じで、自分は幼少時代から英才教育を受けていたのだ。


ピアノは母親の押しであったが、スキーは父親の押しであった。


自分は子供の頃、本当にイヤでイヤで堪らなかったのであるが、子供の頃スキースクールに入っていた。オヤジの強制である。


子供の頃は、北海道の中央にある芦別(富良野に近いです。)というところに住んでいたので、芦別には2つのスキー場があった。


駅の真裏にある三角山スキー場と、芦別レジャーランドの近くにある国設スキー場である。


三角山スキー場は、地の利こそ駅の真裏なので、メジャーなのだが、なにせ上級者向けのすごい難しいスキー場であった。自分はその後、全国の有名なスキー場をくまなく体験していくが、それをもってしても三角山スキー場ほど難しいスキー場はないのではないか、と思う。


おそらく全国で3本の指に入る、いやトップといっていいほど難しいスキー場だった。(自分のスキー人生を振り返ってつくづくそう思う。)


なにが難しいか、というと、とにかく急斜面でコブだらけの斜面ばかりだからだ。初心者向けの斜面が少ないスキー場だった。50年以上前の大昔だし、田舎だから山の開拓も親切じゃなかったのだろう。現代のスキー場のほうがよっぽど初心者にとって親切である。スキー場をつくるとき、斜面やコースが初心者にやさしいか、充分検討したうえで、山を切り開くと思うのだが、あの田舎では、そんな検討もあまりしなかったに違いない。


もう50年以上も前のことだけど、いまでもその難解な斜面コースははっきり脳裏に刻み込まれている。


芦別三角山スキー場は、もう大昔(自分が芦別に住んでいたときに)に廃業になってしまったのだが、ネットでググってみると、なんとその写真、ポスターがあった。(笑)


懐かしすぎる!(笑)よくあったな。


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自分は、子供の頃、この三角山スキー場で徹底的に鍛えられた。自分のスキーライフ、スキー人生は、この三角山スキー場ですべて基礎が築かれたと言って過言ではない。


自分は、この三角山スキー場のスキースクールに、毎週日曜日通っていたのだ。


スキーには、大きく基礎スキーと競技スキーの2種類が存在すると思う。


基礎スキーというのは一般庶民向けで、滑降するフォーム、姿勢の美しさを追求するスキーの基本のようなものだ。それに対して競技スキーというのは、いわゆる斜面にポールを立てて、そこをかいくぐりながら、滑りタイムを争ういわゆる競技スポーツのことである。


自分はもちろん基礎スキーである。


基礎スキーには公益財団法人スキー連盟、通称SAJというスキー検定がある。記憶では、3級から始まって、2級、1級とある。その上が準指導員、指導員の資格ではなかったか。


下は3級の試験に落ちた人は、自動的に4級を与えられたと記憶している。


一般市民で、基礎スキーを極めるのはこのSAJスキー検定の資格を有することであった。


基礎スキーの滑降には、いろいろある。ボーゲンとかはもう検定のスコープ外。問題外である。(笑)まずは、パラレルターンではないだろうか。両足のスキーを平行にくっつけながら、左右のターンを繰り返す滑降である。そして上級者向けになるとウエデルンというのがある。これはパラレルターンの間隔を超短く、小刻みに曲がりながら滑降することを言う。


3級にはパラレルターンの前のステップとしてシュテムターンというボーゲンとパラレルターンをミックスした滑降もあります。


そして直滑降。1級になるとスキージャンプがあります。


自分は、三角山スキー場で、鍛えられながらSAJ3級に合格した。SAJ検定に合格すると、バッジがもらえるのだ。小さなバッジで、スキー帽につける。3級、2級、1級でそれぞれバッジの色が違うのだ。


左の金のバッジがSAJ1級、右の水色のバッジがSAJ2級です。


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子供心に憧れました。


ところが、2級が難しかった。三角山スキー場の斜面はあまりに難しすぎるので、検定も難しかった。なかなか合格できなかった。オヤジの提案で、富良野スキー場の検定試験を受けることにした。


いま富良野スキー場は北海道を代表する超有名なスキー場であるが、当時は富良野北の峰スキー場と呼んでいた。富良野北の峰スキー場は、大スキー場なので、斜面が初心者に優しくできている。SAJ2級検定もやりやすかった。


自分は見事、この富良野北の峰スキー場にてSAJ2級を合格した。オヤジも大層喜んでくれた。


スキーに関しては、そういう英才教育を受けていたから、子供なのにやたらとスキーがうまかった。小学校や中学校で体育の時間のときに、スキーをやったりするのだが、自分は他の子供たちと比べて、ダントツにスキーがうまかった。先生やみんなからいつも尊敬の眼差しであった。


でもSAJ1級のカベは高かったな。別に受けようとも思わなかったし、2級に合格した時点で、なんかさらに上を目指す気力もわかなかった。スキーはうまいやつは本当にうまい。とても自分はかなわないや、と思うところもあった。


べつに準指導員、指導員になるつもりはまったくなかったし、スキーはもうそれで充分と思っていたところもあった。


こうやって自分は北海道で、スキーの才能を英才教育によって鍛えられたのである。


自分の人生で、スキーのことに夢中になったのは、それからずいぶん時間の経った十数年後であった。


それは大学を卒業して、就職で東京に上京した1987年である。


この年に、原田知世さんの「私をスキーに連れてって」が空前の大ヒットとなり、日本全国中に空前のスキーブームが訪れるのだ。


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懐かしすぎる~!(笑)映画の中では、ユーミンこと松任谷由美さんが歌う曲であふれた。


「サーフ天国、スキー天国」、「恋人がサンタクロース」「ロッヂで待つクリスマス」「A HAPPY NEW YEAR」「BLIZZARD」。


とくに特筆すべき点として「恋人がサンタクロース」は、本作の代名詞的楽曲として広く一般に浸透した。主題歌を凌駕した本作品の象徴とも言うべき挿入歌であり、クリスマスの定番曲として現在も数多くのアーティストによってカヴァーされ続けてきた。


もうユーミンと言えば、スキーというくらい絶対的な象徴イメージになってしまい、もう日本全国大変なスキーブームになったのだ。


自分もまさか雪のない東京でスキーに夢中になろうとは夢に思わなかった訳だが、それを決定づけたのが、「SKI NOW」というスキー専門番組であった。


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会社寮の部屋の中で深夜にSKI NOWを見て、そこで滑っている上原由さんのスキーを観て、一気にファンになってしまったのだ。


SKI NOWって番組知ってますか?(笑)


「SKINOW」(スキーナウ)は、日本テレビ→テレビ東京で1982年から1997年3月29日まで放送されていたスキー専門番組。どちらもサロモンの一社提供番組である。


その当時、大変なスキーブームがおきていた時代背景もあり、スキーヤーの熱烈な支持を集めた番組である。海外ロケを踏まえた本格的なスキー専門番組でもある。 番組開始初期は、サロモンの一社提供で開始し、海外ロケ企画も多く、販売価格の安い深夜帯枠でも番組制作費は相当なものだったが、サロモンとしては自社の利益というより、スキー業界全体の盛り上がりを目指し、テレビ番組開始に至ったと言われているパイオニア的存在なのだ。


これは本当にすごい番組であった。製作費べらぼうですよ。人気スキーヤーたちが、深雪の中をシュプールを描きながら1人滑ってくるのだ。当時はドローンとかなかった時代だから、ヘリで撮影していたんじゃないかな。カメラの角度が空中の高いところから、斜面を見下ろすような感じだったから。


もちろんアラスカとか、海外のロケもふんだんにやっていて、海外の山の深雪の中をこれまた漕いで滑ってくるのだ。これが観ていてめちゃめちゃ格好いいのだ。


スキーに心得のある者にとって、なんとも魅力的な番組であった。


自分は1990年頃から見始めたかもしれない。(よく覚えていない。)


その番組の中で1人の若い女子スキーヤーのファンになってしまった。


それが上原由さんである。

懐かしすぎる。(笑)


いまはどうされているのだろうか・・・。


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芸能人ではないし、ネットもなかった時代だから、露出も少なくスキー雑誌やこういうSKI NOWのようなスキー専門番組でないとお目にかかれないので、それがさらに拍車をかけてファンになってしまった。


とにかくいまでも忘れられないのが、そのSKI NOWで、上原由さんともう1人の男性スキーヤーの2人で上手な演出でお互い交互に交差しながら弧を描きながら斜面を降りてくるシーンがあって、BGMと相まってすごく打ちのめされたのだ。


新潟県の妙高高原スキー場での撮影である。


なんと!素晴らしいのだろう!


いっぺんに虜になってしまい、大ファンになってしまった。そして子供の頃に英才教育を受けそれ以来、長い間眠ったままになっていた自分のスキーに対する情熱がふたたび蘇った瞬間でもあった。


いま世間ではスキーが大ブームでもあるし、これはいっちょやったる?


いまでこそ、クラシックのコンサートホールが大好きで、国内、海外、いろいろなホールを体験することが、自分の勲章にもなっているわけだが、当時の自分にとって、全国の有名なスキー場を体験することは、そんな自分に勲章を与えるそんな感じがして、無性にそそられたのだ。


よっしゃ、やったるか!という感じで、それと同時に、まさか東京に来てまでスキーをやるとは思ってもいなかった訳だ。(笑)


上原由さんは、神保町のCome'questo?というイタリア系(?)のスポーツ・カジュアル衣服のブティックみたいなお店で働いていた。


もう神保町にはそのお店はないと思うが、ネットでググってみてもない。ただ、Come'questo?という同じ名前で同じロゴで北海道の小樽にお店があるのを発見した。スポーツ・カジュアル衣服のお店でまったく同じである。たぶん同じであろう。


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神保町にあったときと、なにか違うのかな?なんで小樽なんだろう?上原さんはそこで働いているのかな?


いろいろな想いがよぎる。


神保町のCome'questo?は自分は何回か訪れた。そこですごい派手なVividなピンクのスウェットの上を買ったり、他に小物のグッズとかも買ったと思う。ちゃんとCome'questo?のロゴが入っている。


その派手なピンクのスウェットは、当時の前職の会社にふつうに勤務時間に着ていきましたよ。(笑)ドレスコードもあったもんじゃない。(笑)


お店では上原さんは働いていたが、当時は恥ずかしがり屋さんだったので、声をかけることもできず、ただ遠くから見ていただけでした。


SKI NOWで上原由というスキーヤーを発見して、ふたたびスキーに対する情熱が湧いてきた自分は、そのつぎに知ることになるのがスキー技術選である。正式名称は、全日本スキー技術選手権大会である。


これはいまも続けられている競技イベントであるが、その当時は長野県の白馬八方尾根で開催されることが常であった。スキー技術選とは、なにを競う競技なのかというと、いわゆる基礎スキーというジャンルの最上位クラスの競技会である。


スキー滑降のフォームの美しさ、姿勢、滑降のダイナミックさ、演技点などいろいろな要素が審査点に加えられる。単純で絶対値的なタイムを競う競技スキーとは違って、ある意味審査員の審査眼ひとつに頼ってしまうところもあり、そこはグレーではあるのだが、でもその当時はそんなところまで考えることもなし。


自分はそんな競技があるなんて思ってもいなく、基礎スキー出身者としてはすごく気になる競技会であった。


上原由さんもそのスキー技術選に毎年参加していたのだ。


スキー技術選を知るようになると、他にもいろいろなスターのスキーヤー達の存在を知るようになる。


当時自分がスキー技術選に夢中になっていたときに、男子スキーヤー部門で全盛期にあったのが、渡辺一樹選手であった。懐かしすぎる。(笑)いまどうされているのだろう?(2012年に技術選を引退されいるようだ。)


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渡辺一樹さんは、小柄なんだけどすごい安定した美しいフォームで、当時、男子スキーヤーの中では絶対的なトップに君臨していた。技術選の優勝者年表リストを見ると、1988~1992年の5年間ですね。自分が東京でスキーに熱中していたのは、結局この5年間だったということになる。この5年のうち、渡辺一樹さんは4回の技術選優勝者である。


もう圧倒的に強くて美しかった。渡辺一樹さんは、普段は栂池高原スキー場で専任インストラクターとして働いていた。


その渡辺一樹さんのライバルというか双璧だったのが、佐藤譲さんだ。


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佐藤譲さんは競技スキー出身者で、当時の基礎スキーの技術選の世界に競技スキー出身者が入っていくのは、かなり挑戦的で異端児扱いされていた記憶がある。すごいスキー界で話題になっていた。


その佐藤譲さんが、渡辺一樹さんを抑え、優勝したのが、1990年大会だ。上の写真の緑のスキースーツがそのときの写真である。


あの高速ウエデルンで、スキー場内の観衆を一気に沸かせ、優勝をもぎとった。鮮明に覚えているし、忘れられないです。


この5年間はつねに優勝を渡辺一樹さんと佐藤譲さんで競っていたというか、そういうライバルとして君臨していた2人の時代であった。


女子スキーヤーも上原由さん以外にもいろいろなスキーヤーの存在を知るようになる。山崎操さんとかね。美人で有名なスキーヤーでした。いまはどうされているのか。。。


男子スキーヤーでは、他に海和俊宏さん、斉木隆さんとか、我満嘉治さんとか。懐かしすぎる。(笑)


どういうスキーフォームだったか、完璧に覚えていますよ。みんなそれぞれ個性があります。指紋、声紋と同じでスキーフォームも1人1人で全部異なります。


自分も白馬八方尾根までリアルに技術選を観に行ったこともあります。それは上原由さんの実際の競技を見るためにです。斜面の下のほうで、上から滑ってくるのを観ていました。そのとき、なんかあっけないな~と思い、結局リアル技術選を体験したのはこの1回のみでした。


もちろん見ているだけではない。自分もやるのである。


まずスキーウエア、ブーツ、スキー板を買わないといけない。


当時、日本中スキーは大ブーム。その聖地のようになっていたのが、神田神保町である。いまでは神保町というと古本屋やカレーの街としかくらいにしか思わないだろうけど、当時の神保町は、まさにスキー用品店のメッカだったのである。



ウィンタースポーツの王様といえば、かつてはスキーであった時代。その全盛期、多くの若者が足を運んだのが、神田神保町のスキー用品店街であった。


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「かつての古本屋街からスポーツ用品店街へと変身したかのように、表通りにスキー用品店が並ぶ。 その一軒、ヴィクトリアJOYスキー用具館は、16日昼過ぎから店内が客でごった返した。 「ひやかし」は少なく、ほとんどが現金を手にした買い入れ組。 スキー板では9万円前後、靴も7.8万円と輸入ものの高級品に人気が集中した。 高級品志向に乗って、若者たちのポケットから一万円札が無造作につかみ出される」


1984年の朝日新聞の記事である。


スキーはまさにバブル真っ盛りの1980年代の1大ムーブメントだったのである。


自分は、もう足繁くこの神保町のスキー用品店街を梯子してまわったものだ。



スキー人口は1980年代を通じて増加し続け、そのピークは1993(平成5)年の1770万人であった。なんと日本国民の約9人にひとりはスキーをしていたのである。前述のようにスキー用品店が人でごったがえし、現金が飛び交う事態が生まれるのも当然である。


しかし、スキー用品ビジネスはかなりハードでもあった。スキー商戦のピークは12月頃で、夏にバーゲンを行って前年の在庫を処分。新製品は8~9月から並び始めるため、新製品が正価で売れる時期は極めて短いのである。



そんななか、スキーウエアのファッション性も重視されるようになる。当時はド派手な蛍光色のスキーウエアが「標準」だった。


自分は毎年、この神保町のスキー用品店街を見て回るうちにあるスキー業界の規則性みたいなものがわかってきたような気がした。


それはスキーファッションは、1年1年であっという間に変わるということである。去年買ったスキーウエアが、今年はあっという間に時代遅れになってしまうということだ。


時代の流行に乗ろうとしたら、毎年新調しないといけないのだ。自分はなんかやってられないな、と思った。



当時はバブルの時代だったから、そんな毎年新調のサイクルや、1年ごとにスキーファッション更新は至極あたりまえのことだった。業界はノリノリだったのだ。


スキー業界は、人気スタースキーヤー達にスキー板を使ってもらう、スキーウエアを着てもらうことで、それをプロモーション宣伝とする、それがあたりまえの図式であった。もちろんそれに便乗して売れるのである。


自分は板はサロモンを買った。当時上原由さんはサロモンに所属していて、サロモンの広告塔でもあった。またSKI NOWもサロモンの提供番組であった。サロモン全盛期だったといっていい。


スキー板は、やはりそのメーカーによって固さ、滑降の曲がりやすさ、など板の特徴があって(靴の履きやすいのそんな感じ、滑りやすさみたいなもの)、自分はサロモンだけではなく、OGASAKAも買っていたような気がする。OGASAKAは固くて曲がりやすいのだ。


そしてスキーウエア、ブーツもしっかり買い込んだ。膨大な金が吹っ飛んだ。


そして、いざ全国の有名スキー場に見参である。


いまから30年以上昔のことであるが、自分がいま思い出せるのは、



白馬八方尾根

苗場

ガーラ湯沢

蔵王

野沢温泉

妙高高原

志賀高原 焼額山


ここいらに何回も出没した。


白馬八方尾根


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苗場


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妙高高原


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全国津々浦々のこれらのスキー場に交通の足はどうやっ行っていたのか?


それは東京から各地方の有名スキー場に直通のバスがあったのである。新宿駅の南口を発着点として、深夜に出発して、夜中に運航して、翌日の早朝に目的のスキー場に到着するというものである。そして翌日の夕方に同じくそのバスに乗って東京に帰ってくるのである。


当時は大変なスキーブームだったので、そういうバスビジネスがとてもあたりまで、ふつうに運航していたのである。


でも夜中はバスの中で過ごすので、もちろん眠れるわけもなし。一生懸命バスの座席の中で眠ろうとするのだけれど、結局眠りの浅いそんな寝不足の状態であった。


それでも毎週のように全国の有名スキー場に通い続けたのは、やっぱり若かったね~~~。当時は、川崎の新百合ヶ丘に会社寮があったので、小田急線で新宿まで直通1本。それにしても重いスキーを運びながらよくやったものだといまは懐かしく思います。いまはとてもじゃないけど無理です。


上で挙げたスキー場の中で、一番回数を通ったのが、新潟県の妙高高原スキー場。ここはSKI NOWで自分をスキーの世界に舞い戻らせてくれたきっかけになったスキー場。斜面が緩くて初心者向けの優しいスキー場であった。



苗場は、やはり人気だったね~~~。当時のスキー場の王様的存在で絶対的な知名度があった。目の前が苗場プリンスホテルだ。自分も全国のスキー場を体験するなら、やっぱり苗場は体験しておかないとだめだな、と思いました。やはりすごい人気ぶりでした。スキー場内ではもちろんユーミンの曲がずっと流れていました。



野沢温泉スキー場もよかったですね。当時はこのスキー場で競技スキー大会をやっていましたね。野沢温泉ではもちろん温泉三昧。そして野沢菜漬けをつまみながら、日本酒熱燗でくぃ~っと一杯。最高でございましたな~~~。(笑)


ガーラ湯沢は、この時期にスキーブームに則って、新しくできたスキー場であった。駅から直通でそのままスキー場のゲレンデに出られる、というのが売りであった。


なかなか初心者に優しいいいゲレンデだったと思う。


結局、自分が東京に来て以来、スキーに熱中していたのは、1988年~1992年あたりの5年だろうか。それ以来ピタッとスキーはやめてしまいました。それ以来30年のブランクがあります。


もうスキーをやろうという元気もないし、高齢だから、転んで骨折ったりしたら困るし、まず重いモノかついでスキー場まで行こうという気力がわきませんね。


あの頃は本当に若気の至りでした。


上原由さん、いまはどのように過ごされているのか、まったくネットにも情報がなく不明。海和俊宏さんのスキースクールで講師として教えていた、という情報もあったりしたようです。



プロのサービスマンに今どきのハードワックス仕上げを学びます。「私にもできるかも!」


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というのも見つけました。


あと、YouTubeでスキーファッション2021~2022年を評価する、というものも発見しました。


お元気そうでなりよりでした。


いまのウィンター・スポーツは、もうスキーというよりは、スノボーなんでしょうかね・・・?東京に住んでいると、自分の周りでは、ここ30年以上は、冬のスポーツなど、まったくそのような話題も聞くこともなく、冬季五輪でスノボーを拝見するくらいしか接することがないのですが、スキー大全盛期に青春期を過ごした自分にとってはなんともさびしいかぎりです。いやいや1998年の長野五輪がありましたね。あれは日本中大フィーバーでした。ジャンプの新日の丸飛行隊、スピードスケート、フィギュアスケート。。。本当にあんなに興奮したことはなかったです。


あの長野五輪で、ゴローさんは、小澤征爾さん指揮で、世界中を第九で結ぶという企画の現場の実行担当者なのでした。


もういまやスキーをもう一回やろうという気は毛頭ないですが、あのゲレンデの気持ちよさは懐かしく思い出します。


自分の心に声により、ふっとスキーのことを語りたくなりました。







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