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飯守泰次郎さん [クラシック指揮者]

飯守泰次郎さんがご逝去なされた。もうあまりに急すぎて驚いたと同時にいまだに実感がわかない。闘病中という訳でもなくて、前日の夕食は普通に召しあがっていつも通り就寝につかれたそうで、あまりに突然すぎる。急性心不全だそうだ。


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人間の生なんて、ほんとうにあっけない。

昨日までなんともなく平常だった方が、翌日突然他界されてしまう。

ほんとうにあっけなさすぎる。


なんともなくいつもどおり毎日投稿を続けて、あるとき突然ポックリ逝ってしまう。

たぶんオレの場合、そうだ。


でも、闘病によって、自分自身終生を覚悟したり、いろいろ苦しい思いをしたり、また親族に迷惑をかけるよりは、突然逝ってしまう方が、ある意味幸せな逝き方なのかもしれない。


自分は音楽業界にいるわけではないので、飯守さんと仕事上の付き合いがあった訳でもなく、いわゆる密な関係の想い出は語れないけど、いちファン、いち聴衆として、やはりお見送りの言葉を贈るべきだと思った。


いち聴衆としていろいろお世話になったし、やはりこのまま黙認して素通りはできない。


自分にとって、飯守さんは、やはりワーグナーである。日本クラシック音楽業界において、ワーグナーの看板を背負って、いわゆる代名詞的な存在と言ったら飯守泰次郎さんしかいない。1人でずっと背負ってきたと言っていい。


バイロイト音楽祭で研磨を磨かれ、ご自身もワーグナーを自分の終生のライフ、看板としていくことを覚悟しての指揮者人生だったに違いない。


自分は思うのだけれど、いまの時代、どんどん若い世代に引き継いでいく時期において、いまの新しい人は、非常に頭脳明晰で器用でなんでもスムーズにできてしまう。みんなうまいのだ。


でも、人間力、存在感、業界を背負っていくというオーラ、こういうものがなかなか難しいような気がする。クラシック界は、いまは昔と違って巨匠がいない時代。


圧倒的なカリスマで、業界で存在感を放って、グイグイ引っ張っていき、誰もが納得いくというのは、いまの時代では難しいのかもしれない。


ワーグナーといえば、日本では飯守泰次郎、というように。


こういう看板がいなくなると、その後はどうなってしまうのだろう?

いつもそういうことを思ってしまう。


代わりがいないのだ。


たとえば小澤征爾さんにもしものことがあったとしても、その代わりはいない。

もう一時代が終わった、というしかない。


同じ役割の人をもう一回育てていく、というのはこれからの新時代では、たぶん無理なんじゃないかな、と思うのだ。


これもひとつの時代の終焉というべきか。。




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(c)東京都交響楽団


飯守さんの指揮の実演は、何回もいろいろお世話になっているが、じつはいちばん感動して、大きなショックを受けたのは、意外や本命のコンサートというよりは、ミューザ川崎での東響の名曲コンサートでのワーグナーの名フレーズ集みたいな企画だった。自分はこの当時は、3年間、東響の名曲コンサートの年会員だったので、いわゆる名曲コンサートは、本命のコンサートより、もっとお気軽なのだ。どちらかというと、クラシックの初心者向けの企画で、ポピュラーな人気のある曲を取り上げて演奏する、という軽いコンセプトである。


ここで自分はあまり期待もせず、今日はどんな名曲が聴けるのだろう、とワクワクしながら、臨んだのが、ワーグナーの名曲、名フレーズ集だったのだ。


飯守泰次郎さんが指揮。


ワーグナーのいろいろな楽曲のあのモチーフを、連続的に繋げていき、1曲としてサービスする、というコンセプト。これが思わず、のけぞるほど、カッコよくてすごい興奮してしまった。


いやぁ、やっぱりワーグナーってカッコいいんだな~とあらためて惚れ直した次第。

特に神々の黄昏のモチーフが格好良すぎて、カッコう良すぎて。。


これをなにごともなくさらっと指揮して、東響から引き出してしまう飯守さんは、やっぱりすごいな~。ワーグナー指揮者だけあるな~と感服してしまったのだ。


このときのコンサートがあまりにカッコよくて、いまだに鮮明に脳裏に刻まれています。


ワーグナーって、自分的には、いかに陶酔できるか、酔えるか、というところにポイントがあって、ワーグナーのライトモチーフにはそういう魅力がいっぱい詰まっている。いつまでも頭の中にモチーフがループして鳴り続けているような、そんな魔力がある。


やはりオーケストラには、ハードボイルドに演奏してほしいんですよね。オケをガンガン鳴らして、どんどん引っ張っていって、ここぞ、というときに昇天してしまう、そういう陶酔感をいかに引き出せるかがポイントだと思っている。ワーグナーは5時間とか長大なオペラだけど、だからこそ、だからこそ、初めからずっと演奏してきて、終焉を迎えるまでのドラマがすごく感動するのだと思う。5時間聴き続けてきたからこそ、よくぞここまでやってきた・・・そういう感覚があって、だからこそエンディングはもう涙がでるほど陶酔してしまう。ワーグナーってそうなんだと思う。


ドラマがあるのである。


ワーグナーの楽曲を指揮するときに、オーケストラからこういうエネルギーを引き出せる指揮者、というのは、簡単なことじゃないと思うんですよ。どんな指揮者でもできることではない。やっぱりワーグナーを本職でやってきているマエストロではないと、難しいのではないかと思います。


飯守泰次郎さんは、それができる日本で数少ない指揮者だと思っていました。




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(c)東京都交響楽団


いま振り返ってみるに、飯守さんはオペラ指揮者だったと思う。

オーケストラコンサートというよりは、もう圧倒的にオペラ。オペラ指揮者だったと思う。


2013年のときに新国立劇場でタンホイザーを上演したときに、自分は観に行ったのだが、そのときに指揮者が飯守さん。新国立劇場のオペラらしい、あまりメジャーな歌手を起用しないで、フレッシュな顔ぶれで、非常に質の高いタンホイザーを聴かせてくれた。自分鑑賞した新国オペラの中で3本の指に入る名演だったと思います。


2014/2015年シーズンから4年間、新国立劇場の芸術監督を就任されて、ワーグナー演目をいろいろたくさん上演してくれた。もう自分は、うれしくて、うれしくて。結構通っていた記憶がある。これも飯守さんが監督だから、こういうわがままも許されるんだな、とほくそ笑みながら。(笑)


雑誌のインタビューで、芸術監督の立場として、予算取り、採算をとる、歌手たちの日程を抑える・・・いろいろビジネス的な視点からインタビューをされていたのが、印象的で、我々ファンは、あくまで感動したい、陶酔したい、そこを目標にオペラを観に行くのだけど、主催者側は、やはりマネーの観点から考えていることが克明にわかって、ちょっとショックだった。


クラシック界はあまりそういう裏の世界は詳らかにせず、表の芸術的な感動をアピールするものですが、そういう裏の苦労、厳しい点をおおっぴらに語っているのは正直ショックでした。あまりそういう点ばかりを強調ばかりしていると、ファンにとって嫌味なってしまうので、なにげなくさらりと、しかもそれを語って嫌味にならないのは、飯守さんぐらいの大御所だから許される、ということはあったと思います。


思えば、飯守さんのワーグナー以外のオーケストラコンサートも、もっと聴いておくべきだった。ブルックナー、ブラームス、ベートーヴェンなどおもにドイツ音楽。これをもっと聴いておくべきだった。


ご逝去なさってから、悔やむというのは、遅すぎる。世の中ってそんなものだ。


仙台フィルを本拠地、仙台で聴きたいという目的のため、当時仙台フィルの音楽監督であった飯守さんの指揮がやっぱりいい、ということで、即決した。年末のベートーヴェンの第九であった。素晴らしい演奏で、一生の想い出で、自分に仙台の地に深く縁を作ってくれた。忘れられないご恩である。



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(c)仙台フィルと第九をうたう合唱団twitter



あまりに突然で、いまだに実感がわかなくて、ショックというより、どうする?という感じなのだが、これからジワジワと喪失感が滲み出てくるであろう。


素晴らしい感動とワーグナー愛、どうもありがとうございました。

安らかにお眠りください。













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