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烏帽子 [歴史]

鎌倉時代、平安時代の男性は、必ず烏帽子をかぶる。これが織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の時代になると烏帽子をかぶらなくなる。もうじかにチョンマゲでもろだしである。自分はビジュアル的に烏帽子をかぶっていたほうが、カッコいいな、と昔から思っていました。


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白拍子も女性が男装しますので、烏帽子をかぶります。


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烏帽子はそもそも貴族の文化ですね。源頼朝の鎌倉時代の武士もその貴族文化から脱することができず、烏帽子をかぶる文化でありました。


自分はいつもこの時代のこの烏帽子をかぶった貴族や武士の歴史ドラマを見るたびに思うのは、それぞれの役者さんの頭のサイズに合わせて、ぴったしカンカンのサイズだということです。


そしてきちんとビシッと頭に固定されている。あれ、どうやって固定しているのかな?昔の貴族や武士はどのように頭に烏帽子を固定させていたのかな?


そして寝るときとか、烏帽子を脱ぐことってあるのかな?という疑問を常日頃から持っていたのです。


そこで、ちょっと自分的にこの烏帽子について、少し調べてみよう、詳しく知ってみたいと思うようになりました。



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烏帽子は、公家や侍(仕える下級貴族)たちの日常のかぶり物として徐々に庶民にも広まっていき、武士たちも着用するようになりました。


小結(こゆい)という烏帽子の内側の紐(ひも)を髻(もとどり)の根元に結びつけて固定します。


→ここです。ここです。これが烏帽子と頭を固定させるテクニックです。髻(もとどり)については、あとで説明しますね。



平安時代には羅(うすもの)つまり薄い布でできていたため軽く小結だけでも十分に固定できました。特に侍(下級貴族)たちは折烏帽子にしてかぶっていたため侍烏帽子とも称されていました。武士(武装農民)たちも侍(下級貴族)に習い折烏帽子を用いていったと思われます。


そもそも長髪は大陸の影響を大きく受ける貴族の特徴であり、武士(武装農民)は元々は農作業や狩猟、領地争いにおける戦争で邪魔になるため古代から短髪だったという説もありますが、平安時代ころには武士(武装農民)たちもしだいに長髪になっていたと思われます。


●髻(もとどり)は髷(まげ)とは違う


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飛鳥時代以降大陸から伝わり、髻は冠や烏帽子また兜などをかぶるために頭頂部で髪(肩を越すぐらいまで伸びた髪)をまとめて結って立てている部分で、このような貴族の髪型を烏帽子髪もしくは烏帽子下と言いました。


武士(武装農民)たちも髻をして烏帽子をかぶるようになりましたが、室町時代以降には月代(さかやき)を剃って頭頂部で曲げて結うようになり髷(まげ)と言われるようになり、烏帽子そのものをかぶらなくなりました。


→髻(もとどり)というのは図のように、長髪を上のように束ねることを言うんですね。確かに江戸時代の髷(まげ)とは違いますね。


そして烏帽子の内側の紐(ひも)と、この髻(もとどり)の根元を結び付けて固定させていたんですね。


でも、これは大昔の髻(もとどり)の髪形にしていた貴族や、武士だからそのように固定できましたけど、大河ドラマでの現代の役者さんたちは、普通の短髪の髪形なんですから、どうやって烏帽子を頭に固定させているんでしょうね?(笑)ビシッと固定されていて、ちょっとやそっと動いても、ズレませんよね。


●髪型は人に見せられない


髪型は実際に文献や図面資料に見られることはほとんどありません。冠や烏帽子を人前で外すことはいわば人前で下着(パンツ)を脱ぐぐらい恥だったからです。ただし自宅や親しい人との寛いだ場では冠や烏帽子を外すこともあったとされます。


とはいえ前述したように恥を感じるのは貴族にとっての風習であり、貴族に習って着けていた武士(武装農民)らは室町時代以降はしだいに日常的にかぶらなくなっていきます。織田信長などをテーマにした戦国時代のドラマや映画などでは烏帽子姿の武士が少ないイメージで、しだいに月代をしている武士たちも見られるようになります。


→烏帽子を人前で脱ぐこと、髪型を人前でさらすことは、下着、パンツを脱ぐくらい恥ずかしいことだったんですね。(笑)鎌倉殿の13人で、大泉頼朝と小栗義時が、露天風呂に入るシーンのときに2人とも烏帽子をかぶっていたので、お風呂入るのに、それってありなのかな?と不思議に思いましたが、全然史実に沿った正しい時代考証だったという訳です。


烏帽子はもちろん寝るときも外さないです。烏帽子をかぶったまま寝るみたいです。



●「てっぺん」の語源は髻と烏帽子を出すための兜の孔


平安時代までは兜をかぶるときに髻と烏帽子を兜の天辺の孔から出して固定しました。


冠や烏帽子だけでなく、兜も頭頂部で結わなければかぶることができないので、必然的にかなり高い位置で結っているのが分かると思いますが、天辺の孔が語源となり最も高いところを「てっぺん」と言うようになったとされています。


鎌倉時代以降は兜の天辺の孔から髻と烏帽子を出さなくなり(戦いのなかで掴まれてしまったり孔を弓矢で狙われるため)、髻を結わずに烏帽子をかぶるようになります。また室町時代から戦国時代にかけてしだいに烏帽子そのものがかぶられなくなっていきます。



→つねに烏帽子をかぶることが慣わしとはいえ、戦の兜をかぶるときは、どうやっていたんだろう?というのは、やはり疑問ですね。上記のように、まっだんだん烏帽子をかぶらなくなっていった、というのが歴史の史実なんですね。


情報引用元:

平安時代の烏帽子についてのあれこれ



でも昔の人にとって、烏帽子を脱ぐということは、パンツを脱ぐことと同じくらい恥ずかしいことだった、というのは驚きました。だからお風呂に入るときも寝るときも烏帽子をつけたままだったようです。


自分の長年の疑問がひとつ解けたような気がします。




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大河ドラマ館 [歴史]

大河ドラマ館というのは、毎年開催されるものなんですね。その年の大河ドラマのゆかりの地にちなんだ場所を選んで開催されます。もちろん一か所ということもなく、ゆかりの地にちなんで複数場所で開催されることもあるようです。


自分はいままで大河ドラマ館は行ったことがないです。今年初めて行ってみようと思いました。


鎌倉殿の13人は、鎌倉幕府の草創期から武家政権の確固たる地位を築いた承久の乱までが描かれますので、今年は鶴岡八幡宮の境内にある鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムで開催されます。


最初の頃の北条家が伊豆にあったときの物語にあわせて、伊豆の国大河ドラマ館が先にオープンしていました。それに続き、ドラマもいよいよ鎌倉入りということで、鎌倉にもオープンということです。


この日は、快晴。鶴岡八幡宮はとても人の出が多かったです。


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ここが舞殿ですね。静御前が頼朝、政子の前で、静の舞を演じた場所です。頼朝・政子の前で静御前が舞を奉仕したときは、鶴岡八幡宮若宮の回廊に舞台を設置して舞がおこなわれたそうですが、大火で燃えてしまい、後年その跡地に、この舞殿が建てられたのだそうです。


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鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムはここです。鶴岡八幡宮に入って、少し歩いたところ、舞殿まではいかなく、その横から入る感じです。境内の横のほうに鎮座しています。


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ル・コルビュジエに師事した建築家・坂倉準三が設計し、2016年3月に惜しまれながら閉館した「旧神奈川県立近代美術館 鎌倉」。この建物を再利用した文化施設が、この「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」なのです。


このときの改修は丹青研究所が改修設計を担当。基本方針は1951年の建設から15年後、新館が建設された1966年当時の姿に戻すことだったといいます。


とても近代的で美しい建物です。


大河ドラマ館閲覧は、コロナで混雑防止のためチケットが時間割制になっています。当日券を窓口で買ってもいいし、あらかじめネットで購入して、QRコードをプリントアウト、あるいはスマホ端末で掲示して、係員が同じくスマホでスキャンするという感じです。


自分は、12:00~12:30のチケットを購入したので、先に着いてしまい、時間調整のためミュージアムに併設されているカフェでお茶をしました。


とても素敵なカフェです。


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後ろに展示されているこの大銀杏の樹木は鶴岡八幡宮の石段の左にあり、2010年3月の早春の嵐で倒木になってしまったもの。長らく鶴岡八幡宮を見守ってきたかつての姿を偲び展示しているそうです。


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いよいよメイン・エントランスに向かいます。


ここが当日券売り場。


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メイン・エントランスはここから入ります。初日の開場日では、ここでテープカットされていましたね。


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鎌倉殿の13人の世界のはじまりです。出迎えてくれました。


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脚本家の三谷幸喜さん。このドラマの成功は三谷脚本にかかっていますね。いまの時代、現代にあうドラマのテンポ感の良さ。そして1話1話に、必ず芯となる史実のテーマを盛り込んで、劇場型の盛り上がりの展開となるように1話完結型を志しているように思います。捨ての回というのがないですね。平坦な進め方はしないです。必ず1話1話にドラマを作っています。


また前振り、タネの仕込みなど非常に巧妙で、毎回面白くてさすがだな、と思います。激多忙でしょうが、体調に気を付けて1年間頑張ってほしいです。



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音楽のエバン・コールと語りの長澤まさみさん。主題歌かっこいいです。ぜひサントラ買いたいと思います。長澤さんの語りは、物語中もいいですが、じつは冒頭のテーマ曲の巻末に、その回の状況背景を語るシーンがいいですね。毎回違いますね。ここだけでも毎回出演ということになりますね。



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小栗旬・北条義時。期待しています!1年間の長丁場だけど、コロナにはじゅうぶん気をつけて 頑張ってほしい!オレの心深くに43年間居続ける松平健・北条義時をみごと上書き、塗り替えてほしい! ぜったいできる!と思う。北条義時はドラマ前半では好青年なのだけれど、後半になっていくにつれて、政子との連携プレーでどちらかというと冷徹な男に変貌していってしまう。いや言い換えればそうならざるを得ない状況に追い込まれていく感じなのだが。最後、承久の乱で、武家政権を盤石な確固たる地位として築いたのは間違いなく北条義時。自分はこのドラマの場合は、承久の乱が最大の魅せ場、一番頂点の瞬間だと確信しています。


松平健・北条義時がそうだった。好青年から悪役へ、そこら辺の変わり身を三谷さんがどう描いて、小栗旬氏がどう演じていくのか、本当に楽しみです。これは自分の勘なのですが、三谷脚本では悪役も好かれ役のように描かれるので、もっと明るい感じ、正義の味方のような感じなのかな、と予想しています。


北条義時と言えば、小栗旬と自分の頭に埋め込まれ、これからの時代は、そのイメージがずっと続くのは、もう時間の問題でしょう。それだけ期待しています。



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大泉洋・源頼朝。最初キャスト発表の時。え~~~、本当に大丈夫?大泉氏の普段のキャラを知っているので、とても心配だった。歴史上の人物で、自分にとってもっとも重要な源頼朝。頼朝のイメージを壊さないようにしてほしいな~と心配していたが、まったくの取り越し苦労だったようだ。もう上出来。いい感じである。


存在感、貫禄も出てきた。いつものキャラだけではなく、こんな役も無事にこなしてしまうほど大泉氏は非常に器用な役者さんなんだな、と改めて見直してしまいました。もう9回まで進んだが、源頼朝=大泉洋というイメージが定着してきた。逆を言うと、いままで演じられてきたイメージとは正反対の、逆にいままでの頼朝像にはない、情けないところ、弱いところも十分描き出されていて、これは大泉氏しかできない、という幅広さもある。ぜひ自分を見返してほしいと思います。



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小池栄子・北条政子。北条政子は生涯に渡って、尼将軍、気性が激しい、悪女というイメージで捉われることが多くいままでの大河ドラマでもそうだった。だけれど、三谷脚本では、そういう従来のイメージを変えるんではないか、という期待をしている。なんか小池さんのいままでの演じ方を見ているとそんな気がする。その当時の政子の置かれた立場をよ~く配慮した上での人間味あふれる政子を演じてくれるのでは、と。小池さんにはそんな政子がぴったりですね。


頼朝の時代は、あくまで妻としての立場だけれど、頼朝の死後、政子は一気に主役に上がっていく。政権の表舞台に現れてくる。小池政子は一気に主役になります。そしてもちろんこのドラマの最大のイヴェント、承久の乱ではあの政子の天下の名演説。これをどのように小池さんが演じるのか。小池さんにとって最大の魅せ場であることは間違いないでしょう。期待しています。



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菅田将暉・源義経。この人は、まさに衝撃の登場でしたね~。(笑)まさにサイコパスの世界。これで三谷さんの本ドラマでの義経の描き方がわかりましたね。野性味あふれて、戦の天才、サイコパス、でも純真そのもの。間違いなく政治的な振舞、考え方が超苦手。この1番最後の理由から、頼朝と決別していきますね。源義経といえば、やはりどうしても判官びいきで美化、悲劇のヒーローのように描かれていくことが多いですから、そういう路線とは距離を置いたあきらかに違う義経像が見れますね。


菅田さんはまさにはまり役ですね。もう笑っちゃうほどぴったしカンカンのはまり役です。いい配役キャストだったな~と感心します。義経は、やはり華がある存在なので、源平合戦、そしてその後の悲劇に至るまで目が離せません。自分は、義経はものすごく楽しみにしている1人です。



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北条時政・坂東 彌十郎。この方は自分にとって最大のヒット。じつに素晴らしい役者さんだと思いました。じつにいい味出しているなと。ドラマのオアシス的存在ですね。癒し・和みをもたらしてくれますね。ドラマの最大の注目人ではないでしょうか。ネットでは時政パパの愛称で、みんなから愛され好かれている。


草燃えるでは、北条時政は金田龍之介さんが演じられていたのですが、あれこそが北条時政という感じで、自分の中には永遠に刷り込まれていたので、その時政のイメージを一新しましたね。愛すべき、憎めない、でもやるときはやる、頼りになる時政パパという新しいイメージ像を作り上げてくれました。


ドラマ後半に、時政は、義時から追放されることになるのですが、どんな感じになるのか、楽しみです。坂東 彌十郎さんは、趣味でスイスの山歩きが大好きで、いままで33回スイスに足を運んだ趣味人でもある。応援していきたいですね。



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大倉御所。源頼朝は鎌倉の大倉に御所を開いたと言われています。いわゆる大倉御所。鎌倉での政治の要となったところです。この大倉御所のジオラマも展示されていました。ジオラマは写真撮影禁止です。撮影禁止といわれているものを撮ってはいけません。(笑)自分は、展示の中で、これが1番興味深かったです。


へー頼朝の鎌倉幕府って、こんな建物、部屋造りだったんだな~と驚きました。頼朝の居室、政子の寝室などすごい興味深いです。どんな歴史資料をもとに造られているのか、興味がありますね。いわゆる根拠です。


同時に思ったことが、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国時代は、戦からの防御として、濠のある天守閣のあるお城を築くじゃないですか。敵がちょっとやそっとでは攻めてこれないように。


でもこの鎌倉時代の大倉御所は、そんな対敵侵入、対敵攻撃のような仕掛けがないんですね。豪華だけど、丸腰のような屋敷でした。やっぱり時代が違うんだな~と思いました。


まっ鎌倉の土地の構造自体、三方を山に囲まれて、片方は海、敵から攻撃を受けにくい要塞のような土地ではありましたが。。。



サイネージで登場人物を紹介します。


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ドラマで使用される舞台衣装が展示されています。


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体感コーナーといって、手でスワイプするだけで、いろいろな説明が現れるそんな仕掛けがあるような展示物でした。さすがNHKですね。


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ここは、お客さんが男性なら烏帽子をつけて、記念撮影できる、そんな記念ショットのできる場所でした。あなたも鎌倉幕府の御家人という感じでしょうか。


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大スクリーンで、お客さんが足元に描かれている丸枠に入ってもらって13人揃ったら、同時に手を上げたら、なんかこの大スクリーン上で面白いことが起こるんですね。スミマセン、自分はこれをそのまま素通りしてみただけなので、そして13人まだ揃っていなかったので、何が起こるのか、よくわかりません。これは行ってからのお楽しみですね。


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4Kシアター。ドラマが4Kでスクリーンに放映されていました。常に満員の人気コーナーでした。大迫力で高精細でしたね~。自分も家に4K TVが欲しくなりました。


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展示空間はこんな感じです。


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以仁王や後白河法皇の院宣です。


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頼朝が使っていた数珠、そして政子の化粧道具です。


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時代考証・坂井孝一先生が紐解く”鎌倉時代の知られざる本質”本ドラマの坂井孝一先生は、時代考証。大河ドラマにとって、史実とどう摺り寄せていくか、時代考証はとても大事、要ですね。三谷さんが脚本を書いたら、それをまず時代考証の先生方に添削してもらうんだそうです。そして修正を盛り込んだ形で、再度三谷さんが書き直して、本番の脚本となるそうです。



人物相関図も大きくパネル化されていました。


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大河ドラマゆかりの地をマップ化したものも大きくパネル化されていました。これはいいですね!パンフレットみたいな携帯用として欲しかったです。自分は今年は、大河ドラマにゆかりのある土地をいろいろ行脚したいと思っているので。


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1Fには、お土産コーナーがありました。鎌倉、鎌倉殿の13人に因んだいろいろなお土産が所狭しと並んでいました。


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義時の野望というおみやげもありました。(笑)


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初めての大河ドラマ館。楽しかったです。これでますます大河ドラマを楽しく見れそうです。来年の1月まで、開催されているようですので、ぜひ足を運ばれてはいかがでしょうか。素晴らしく感動すると思います。





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北鎌倉 建長寺にて坐禅会・写経会 [雑感]

かねてより禅寺で開かれる坐禅会に参加してみたく北鎌倉建長寺を訪れた。


坐禅会は、坐禅について素人の人でも大歓迎。一般人ならば誰でも参加できるそんなお気軽に坐禅を体験できる催しだ。北鎌倉では円覚寺も坐禅会で有名なのだが、円覚寺なら北鎌倉駅を降りてすぐそばなのでいいかな、とも思ったが、建長寺のすぐそばにある点心庵さんのけんちん汁をもう一回食べてみたくて建長寺にしたのだった。


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建長寺は、梶原景時ゆかりの地ということで、鎌倉殿の13人の旗が立っていた。なぜ梶原景時ゆかりの地なのか調べてみた。


梶原景時は鎌倉時代初期の武将。打倒平家を掲げ挙兵した源頼朝が大敗を喫した「石橋山の戦い」で、平家側でありながら、洞窟の中で潜んでいた頼朝を見逃して命を救った縁から、鎌倉幕府では御家人として重用された。


彼の讒言(ざんげん)によって源義経をはじめ多くの御家人が失脚したが、頼朝の死後は後ろ盾を失い、66人もの御家人から弾劾を受けて鎌倉から追放される。


頼朝の死からわずか1年後の1200(正治2)年、駿河国で合戦となり討ち死にした(梶原景時の変)。


建長寺の創建は梶原景時の死から53年後。第5代執権北条時頼の時代、1253(建長5)年である。


言い伝えによると創建から間もない頃(翌年ともいわれる)の7月15日、三門(山門)での施餓鬼会が終わった直後、一騎の武者が駆け付けたという。


施餓鬼会とは日本では奈良時代から行われている仏教行事で、多くはお盆の時期に行われる。餓鬼道に堕ちた衆生に浄水や食べ物を供えて追善供養するというもの。


施餓鬼会が終わっている事を知ると武者は残念そうに立ち去ったが、それを見た大覚禅師(蘭渓道隆)が武者を呼び戻しもう一度施餓鬼会を執り行った。


武者は大変喜び、自分が梶原景時の亡霊である事を告げると姿を消した。以来建長寺では毎年7月15日、一度も欠かす事なく梶原景時のために施餓鬼会を行っているという。


かつては午前に通常の施餓鬼会、午後に梶原景時のための施餓鬼会と分けて行っていたようだが、今は通常の施餓鬼会と続けて行うそうで「三門梶原施餓鬼会」と呼ばれている。


・・・なのだそうである。


鎌倉殿の13人では、中村獅童さんが演じられ、さすが歌舞伎役者ともいえる陰影、深みのある梶原景時を演じられている。これからが楽しみです。


そんな建長寺に、坐禅会に参加しようと思ったのだが、拝観料を納める窓口のところで、坐禅会は予約制であることを知って愕然となる。(笑)


写経ならできます。


まさか写経をやることになるとは思ってもいなかったが、ものは試しなれ、写経もぜひ体験しようということになった。


坐禅会も、写経会も建長寺の中の方丈というところでおこなわれる。建長寺の場合は、とくに方丈のことを龍王殿という。


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方丈は、どこの禅寺でも必ず存在する建物・部屋なのだが、方丈というのは、本来住持が居住する場所のことをいう。現在は建長寺の場合は、方丈は法要・坐禅・研修の場所として使われている。この建物も、総門と同じく京都・般舟 三昧院より昭和15年に移築された。建物は、享保17年(1732年)の建立で、元は皇室のお位牌を安置するためのものだったそうだ。



写経の場合、方丈に入ったすぐ目の前に、知客寮というお部屋があって、そこが写経室になっていた。


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自分は、写経は、もっと和室的というか、お寺的というか、修行僧のように正座して墨、文鎮で黙々とやるイメージを持っていたので、まず、椅子とテーブルというのが、少し驚いた。と同時に、いまや正座ができない自分にとっては、助かった~という感じである。思っていたほどお寺的ではないけれど、和風のとても綺麗な部屋だと思いました。


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写経はとくに時間が決まっている訳でもなく、朝10時以降、閉門になるまでは自由に自分で部屋に入って自分で自由にやるという感じである。


自分が行ったときは、誰もいなく自分1人であった。



ここに筆、文鎮、和紙などの道具一式が揃っている。写経が終わった後、その清書をここに置いていってもいいし、自分で持ち帰ってもいい。


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写経の仕方をよく読む。


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さっそく写経を始める。なぞるのは「般若心経」。


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般若心経とは。お釈迦様の悟りの境地である「空」の教えを説いたお経で、煩悩・執着といった欲から離れ正しく生きるお経である。写経する事で、大いなる「空」の教えである「こだわらない」「とらわれない」「かたよらない」という功徳が得られる。般若心経は600巻におよぶ大般若波羅蜜多経を262字に凝縮したお経である。


写経というのは、和紙には、薄字で、この262字の般若心経のお経が下地で書いてあって、それを自分でなぞっていく作業のことをいう。


筆はぺんてる筆ペンでした。文鎮も必要です。


自分にとって、写経はちょっと大変なのではないか、と思っていた。なんか考えるだけでも、あ~~~もういいっ!という感じで発狂してしまうのではないか、と感じていたのだ。(笑)


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写経はなかなか難しいです。最初のうちは、緊張感もあってきちんとなぞることができたけれど、段々半ばあたりから終盤にかけて精神力の持続が難しくて、うまくなぞれなくなってくるのだ。


書道って子供の頃以来であまりにひさしぶり。なぞるとはいえ、なんか自分は書道うまいな、という感覚になる。自分は子供の頃から字がうまいです。子供の頃は書道はかなり上手でした。賞をもらったことも何回もあります。書道のお稽古ごとに通っていました。ペン字もうまいです。でもパソコンになってからは、字を直筆で書くことはほとんどなくなりましたね。


そんな子供の頃の書道をやっている感覚が蘇ってきました。なぞっているので、できあがった書体はもちろん手本のようにうまい。だから自分はすごい上手な書道の書体を残しているような感覚に陥ります。



ぺんてる筆ペンのインクがなくなり、新しいぺんてる筆ペンにして、最後まで一気に行きましたが、中盤から後半にかけては、もうヨレヨレでなぞっていても上手になぞれなくなり、字も汚くなってしまいます。やはり写経は精神集中が必要ですね。


結局完成はこんな感じでした。


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でも思ったほど発狂せずに、大丈夫でした。ジャンパーを脱いでセーター1枚でやっていたので、段々寒くなり終わるころは、もう寒気でガクガクでした。


最後に写経志納金ということで、ここに千円を納めます。それで終了です。


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写経って難しいとは思うけど、思っていたほど大変ではないです。誰でも容易く入れるものだと思います。


文字を書いている間は精神が集中しているため、怒りや妬みなどの邪念が払われ、心が安定します。心に乱れがあると文字にも表れるので、自分の心の状態に気づくことができる。ストレスから解放され、リラックスできると思います。


お金もかからないし、とてもいいのではないでしょうか。


さて坐禅会のほうは、あらためてネット予約をして2週間後に再挑戦。


建長寺とこれば、すぐ目の前にある点心庵さんで、伝承 建長汁(けんちん汁)をいただきます。現代のけんちん汁の発祥ですね。点心庵さんはその建長寺代々に伝わるけんちん汁の歴史を守っているお店です。


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もともとは自由が丘での定期通院の帰りに寄ったのですが、定期坐禅会の開始時間が15:30から。間にかなり時間が空きます。建長寺をふたたびいろいろ見て回った後、どうしても時間を持て余します。快晴でしたが、外はすごい風が強く寒かったです。


どこで時間をつぶそうか、朝からどうするかな~と悩んではいたものの、とにかく行ってみて考えようということで来てしまったわけです。


そこで、待っているのはとてもいい場所を見つけました。


建長寺の中にひとやすみの休憩所があるのです。拝観受付のすぐ隣です。助かりました。


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ほんとうに何気ないひとやすみ場ですが、外で寒い思いをするよりは全然ましです。


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このテレビには、建長寺の開基・開山のこと、そして創業以来の歴史がエンドレス再生という形で再生されていました。自分は建長寺のことをよく勉強できたような気がします。


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建長寺が発祥の地、建長寺に代々伝わるけんちん汁。建長寺で僧が調理しているんですね。大鍋でダイナミックです。


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建長寺グッズも売っています。


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ここで時間をつぶし、時間になりましたので、方丈に向かいます。


ここが方丈。龍王殿です。法要・坐禅・研修の場所として使われています。坐禅会はここでおこなわれます。


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ここにいったん入ったら、もうこれです!


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参加メンバーは、ざっと俯瞰してみたところ、かなり若い女性が多いような気がしました。やっぱり禅の世界、坐禅の世界は女性に人気なのですね。合計20人くらいの参加者でした。コロナということでディスタンスを稼いで、こんな距離でみんなポジショニングをします。どこに座るかは、お坊さんが指示してくれます。あなたはこちらに座ってください、という感じで。1人1人にです。


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座布団は、特徴があります。これは建長寺の坐禅の座布団が他のお寺と違うのかもしれませんが、建長寺の坐禅用の座布団は、長いのです。


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それには理由があります。


お坊さんが教えてくれました。この長い座布団をまず半分に折って、その上の部分をさらに半分に折るのです。そしてその高い山の部分に座るのです。


そうするとお尻の部分が高くなるので、坐禅で足を組むときに、足を組みやすいというか身体的に楽な感じになるのです。


まさに坐禅専用の座布団という感じですね。これは建長寺だけなのかもしれませんが。。。


さて、いよいよ坐禅の始まりです。


お坊さんが前で、説明をしてくれます。まず坐禅、初めての体験の人?と聞いて、初心者向けに坐禅とはこういう風にやるんですよ、という説明をご自分で実技をしながら説明してくれます。足の組み方(ふつうのあぐらとはちょっと違うんですね。)、両手での輪の作り方、姿勢の保ち方、呼吸法などなど。


目は閉じちゃダメです。寝てしまうから。そしてこれが自分は一番難しいと感じたのですが、坐禅をしている間は、心を無にすること。無我の境地、なにも考えないこと。


建長寺の坐禅は、2回やります。それぞれの回のことを、木へんに柱と書いて、”しゅ”とよぶそうです。(すみません、ここは記憶が曖昧です。)1回目のことを1しゅ。(漢字変換できない)2回目のことを2しゅ。


坐禅を始めるときは、まずお坊さんがお経を叶えた後に、火の用心のかちんという木槌を打って、あとち~んという鐘を鳴らします。


そうしたら、各々坐禅開始です。


警策(きょうさく)(お坊さんが棒みたいなものでバシッバシッとやるやつです。)はやります。ただ、プロフェショナルな坐禅ではなく初心者向けなので、お坊さんからやることはありません。


希望者のみやります。警策を受けたい人は、お坊さんが目の前を歩いたとき、合掌をして一礼します。そうしたらお坊さんと改めて、合掌しながらお互い一礼します。


そのあと、前かがみになります。するとお坊さんは警策で、右、左の背中をバシッバシッとやってくれるのです。


自分はせっかく坐禅を体験しに来たんだから、警策を受けないなどもったいない。ぜひ喜んで自ら志願して体験しようと思いました。


これは痛かった~~~。(笑)かなり来ます。打たれた瞬間、身が引き締まりますね。片方につき、バシッバシッと2回づつ。合計4回です。


1回目の坐禅で1回、2回目の坐禅で1回。合計2回バシッバシッとやってもらいました。


やっぱり坐禅と言えば警策なんですね。みんなかなり志望者がいました。1回の坐禅につき、10人以上はバシッバシッとやってもらっていたんじゃないでしょうか。


1回の坐禅は、大体10分~20分くらい。坐禅が始まると、周りの空気が一瞬にして無になりますね。完璧な無音の世界です。ひたすら静寂な無な世界が広がります。


自分は心を無にすること、なにも考えないという境地がすごく難しかったです。目は開けたまま、前の前にある仏殿を見ながら、ひたすらなにかいろいろ思いが錯綜していたような気がします。そのたびにいかん、いかん、無にならなきゃと思い直していた感じです。


方丈、龍王殿はご覧のように、外の空気がそのまま部屋の中にダイレクトに流れ込んでくるので、寒かった~です。やはり坐禅を組む、警策を受ける上では、ジャンパーを着たままでは失礼にあたると思い、ジャンパーを脱いでセーター1枚だったので、もう凍える感じで寒かったです。


2回の坐禅は寒さ、と無の境地になる難しさとの闘いだったような気がします。


じつは最近、歳を取ってきたせいか、昔みたいに心強くあることがなくて、どうもクヨクヨとしてしまうことが多くなりました。


若いときは、ガムシャラに前へ進んでいくという感じだったのに、歳を取ってくると、いろいろ悩むんですね。


でも坐禅を組むと、そんなクヨクヨした気持ちが一掃されて、終わった後はすごく清々しくなります。


これは坐禅の効果だと思います。精神の健康にとてもいいですね。


これは習慣化してもいいかな、と思いました。坐禅は精神の健康を保つにはとてもいいものだと思いました。


建長寺の定期坐禅会は、参加無料です。建長寺は、北鎌倉駅からかなり歩きますが、歩行リハビリにはいいし、定期的に通ってみますかね。


各禅寺で行われている坐禅会は、中にはオンライン坐禅会というのもあるらしいです。オンラインで参加しても、あの無の空間、無の境地を味わえるんですかね。


禅の世界、坐禅の世界は、なかなか素晴らしいものだと思いました。





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