SSブログ

発散型と締め型 [国内クラシックコンサート・レビュー]

ヤノフスキのローエングリンは凄かった。完璧なまでに叩きのめされ、圧倒されたといってよかった。正直なところ、ここまで凄いとは思っていなかった。


まさに体育会系、肉食系真っ只中のハードボイルドなワーグナーであった。自分がここ数年くすぶっていたストレスを一気にぶっ飛ばしてくれたような爽快感だ。


棒ひとつ、タクトひとつでこんなに変わるものなのか。同じN響なのに、まるで別人のような、見違えるように、オーケストレーションが素晴しくなり、その鳴りの良さ、ワーグナー音楽には必須の分厚いうねるような弦の厚み、まったく見違えるようなサウンドだった。


クラシックの世界では、オーケストラは、指揮者によって、その奏でる音楽は全然違ってくるということはよく言われていることで、誰もが知っていることだ。


これは常識なこと、とそのまま流していたところがあって、深く考察したことはあまりなかった。やはり実際のオーケストラの奏者でないと、その指揮者による音楽作りの違い、指揮者の良し悪しって体感できないものなのじゃないかな、と思っていたからだ。


聴衆の立場で、あ~だ、こ~だと能書きを垂れていても、底の浅い論法にしかならないと自分は思っていたのだ。


でも、ここまで違うところを見せつけられたら、はて?なにが違ったのだろう、そのからくり、要因などを自分なりに考えてみたくなった。


自分が置かれている立場で、自分なりに考えるのは自由である。正しい、正しくない、とかも関係ない。


277578431_5239972232691921_2238825650778134185_n.jpg


自分は、長い間、企業人なので、会社にいると、ひとつ達観した思いが頭に浮かんでくる。それは、会社にいる人間の脳の構造は、「発散型」の人と、「締め型」の人とのふたつのタイプに分かれるということだ。


発散型は、つねに新しいことにチャレンジし、思いっきり考えて、考え抜いてチャレンジしていくタイプの人。技術者、エンジニアに多い。逆に締め型というのは、全体のフレームを捉える力、大局観、構成力の備わった人である。管理職に多い。


これは別に個人がそれを意識しているのではなく、その置かれた立場で必要になるだけの話である。全体のことを考えるのは、なかなか大変なことだ。あまりそのようなことに捉われずに、のびのび自由に発想する。過去の慣わしなどに捉われず、自由に考えるだけ、考える。そうすると新しい発見や可能性も見えてくる。若いということはそういうことだ。


「発散型」の思考の特徴は、ストレスがない、ということである。なにかの足かせや制限がなく、枠を意識せず、自由にのびのび考えるので、ストレスがない。ある意味気持ちよさみたいなものがある。


それに対して、「締め型」というのは、つねにそれがもたらす結果の是否についてジャッジしないといけない立場で、採算が取れているのか、取れていないのか、対費用効果などをつねに考察していかないといけない。いくら自由にのびのび考えていても、結果が伴わってなかったら、会社は倒産してしまうからだ。結果ありきである。よってつねにその結果を検証するステップを入れる。これは管理職はもとより、一番の頂点は会社の経営者でもある。


脳の使い方として、なにか、こうぎゅっと締めるという感じで、発散型のまったく逆である。脳をぎゅっと締める感じだと、これは正直気持ち良くない。ストレスを感じるものである。


なんかこうぎゅっと締まった感覚を持つのは、やはり大局観をもってものごとを見ていかないといけないこと、ものごとを構成していく構成力の才能が必要だから感じる感覚なのだと思うのである。


会社にいる人間は、大別して、この「発散型」と「締め型」の2タイプに大別できるのではないか、と自分は思うのだ。


自分はこの歳になって、絶対このふたつのタイプに大別されるよなぁ~と思うようになり、このふたつのタイプがいるからこそ、会社って廻っているんじゃないかな、とも思うようになった。


たとえば締め型のタイプしかいない場合、脳の使い方がつねに締め型の人は、新しい発想をどんどんチャレンジしていくということが苦手のような気がする。新しい可能性が開くことが少ないように思ってしまう。会社に締め型の人しかいなくなっても、それはまたそれで困るものなのである。


自分はどうか、というと、若いとき、前職時代の技術者時代は、完璧な発散型であったが、いまの会社になって管理業務になったおかげで、いまは締め型のタイプなのではないかな、と思います。


最近、自分が思うことは、会社人間として、発散型と締め型の両方の才能がある人、フレキシブルに両方使えるような人間になるのが1番理想だな~と思うことである。


でも人間ってそんな器用なものではなく、発散型と締め型の両方を使い分けるというのは、かなり無理な話ではないか、と思うのである。本能的に無理。その人の性格によって、必ずどちらか一方だと思います。


277565126_5239974736025004_7474568137662227912_n.jpg


なぜ、ヤノフスキが振るとN響は見違えるようなサウンドになったのか。


それは、ヤノフスキ自身が偉大なる締め型の脳の使い方をする人で、その大局観、構成力に長けた人だからである。自分がどういう音楽を作りたいのか、それがワーグナーのオペラであるならば、それぞれの楽劇について、どういう音楽像を持っているか、そういう明快なビジョンを自分の中に持っている人だからではないかと思うのだ。


棒に迷いがないのである。


ローエングリンであれば、どういう音楽像にしていきたいか、という明確なイメージが自分の中にあって、本番当日までにそこに焦点が合うように、N響を持っていくのだと思う。


N響の団員メンバーは、いわゆる発散型の思考の人たちである。自分のベストを尽くして考えに考え抜いてベストな演奏をする。


それをヤノフスキが大きなフレーム枠で見ていて、大局観と構成力でひとつの大きな作品に仕上げていく。そういう自分のイメージしている音楽像に合うように矯正していく、そういう締め型の脳の使い方の優れている人なのだろう、と思うのである。


ある意味、指揮者ってみんなそのような才能が必要なわけで、とりたてて、目新しいことでもないけれど、オーケストラから素晴らしいサウンド、音楽を誘える、誘えないの差は、その締め型の脳の使い方に差があるのではないか、と新しい説を唱えてみたい。(笑)


指揮者による差ってなんなのか、素晴らしい指揮者ほど、自分の中にその楽曲に対する明確なビジョン、音楽像、イメージ像をきちんと持っていて、棒に迷いがないのだ。


どういう音楽を奏でたいのか、どういうサウンドを出したいのか、明確なビジョンが自分の中にあるから、楽団員に対しても、説得力があって、どうどうと説明できるのだ。それは楽譜をどこまで深く読み込み、自分の解釈とするか、にも起因しますね。


楽団員たちも、そういう姿勢を見せられたら、そしてそれが揺るぎのない堂々とした態度で、そして実際の音としても正解の世界であるならば、大きな信頼感を寄せ、この人についていこうと思うはずだ。


指揮者とオーケストラの間の絶大なる信頼感ってそこなんじゃないかな、と思ったりする。あくまで聴衆の立場で言ってますが。(笑)


ヤノフスキの造る音楽は、非常に引き締まった音造りをする人で、テンポもものすごい快速テンポで速い。速すぎる、という評価も多いくらいだ。とにかく硬質なサウンド造りで、きびきびしていて、聴いていてとても気持ちよく快感なのである。


2014年~2017年に至る東京・春・音楽祭でのワーグナー・リング4部作での共演。そして度重なるN響定期公演での共演で、ヤノフスキとN響の間には、もう絶大なる信頼関係が築かれているのだと想像する。


ヤノフスキがどのような音作りをしたいのか、N響のメンバーはもうよくわかっているのである。そんなお互いあ・うんの呼吸で、マエストロが指揮台に立てば、もう必然とそのようなサウンドにN響自身がそうなってしまうのではないだろうか。


今回のローエングリンは、83歳のマエストロ・ヤノフスキのワーグナー観を十分見せつけられたような満足感があり、まさに体育会系、肉食系真っ只中の重厚なワーグナーであった。


もうこうなれば、今後の将来の東京・春・音楽祭のワーグナーシリーズのマエストロは、ずっとヤノフスキにしてほしい、と思ったりもするが、それはやはりバランスというのも考慮が必要で無理なんだろうな。


そう思わせるくらい素晴らしい公演であった。


最後に歌手陣について簡単に感想を述べさせてもらいたい。


277355203_5239972966025181_5683707622832520136_n.jpg


今年は歌手陣もすごく充実していた。もうびっくりである。水準、レベルがかなり高かったと思う。特に自分的に素晴らしいと絶賛だったのが、エルザ役のヨハンニ・フォン・オオストラム。


確かにプロフィールではすごい経歴なので、すごい歌手なのだろうとは思ったが、ここまで素晴らしいとは夢にも思わなかった。まず容姿がとても素敵で、声もじつに素晴らしい。エルザというお姫様の役にピッタリなのである。清楚な感じがして、自分はひさしぶりに体験するドキドキ感。こんなにときめいた歌手はひさしぶりである。


声も、じつにいい声をしていて、声量もあるし、声の質感も明るい柔らかい美声である。絶唱でも絶対にクリップしない喉の広さがある。


かなり素晴らしいソプラノ歌手ではないだろうか。自分はひとめぼれで、ゾッコンという感じになってしまった。


まったく知らない歌手なので、本当に想定外で驚いてしまった。自分はずっとエルザばかり注視していたかもしれない。(笑)


ちょっともう一度どういう歌手なのか、そして出演作のオペラ映像作品などをサーベイしてみて、いろいろ観てハマってみたい歌手である。


ブラボーである。



ローエングリン役のヴィンセント・ヴォルフシュタイナーも素晴らしかった。白鳥の王子様というには、ちょっと体格的に貫禄ありすぎるが(笑)、声はその体格にあったパンチのある圧のあるじつにいい声で、声量も素晴らしく、フォークトとはまた違った魅力があって、素晴らしいローエングリンだったと思う。


オルトルートは、本来であれば、ロシア人歌手のエレーナ・ツィトコーワであったが、おそらく昨今のロシア~ウクライナ紛争で来日が叶わなくなってしまった。11年前のサイトウ・キネン・フェスティバル松本の青ひげ公の城でユディットを演じていた歌手で、11年ぶりの再会でとても楽しみにしていたのだけれど、本当に残念でした。


ところがどっこいである。ピンチヒッターのアンナ・マリア・キウリが、これまた素晴らしい歌手であった。まさに声量のお化けともいえるくらいの素晴らしい声で、オルトルートのあのドロドロした悪のイメージをものの見事に演じていた。第2幕のオルトルートの大活躍するアリアでは、まさに圧倒されました。ブラボーである。


ワーグナー歌手というのは、本当に層が厚いなと思いました。主催者側としては、もしものときに、サブは常に考えておくべきであるが、本当に素晴らしくてよかった。


テルラムントのエギルス・シリンスと、ハインリヒ王のタレク・ナズミの2人もじつに安定した低音の魅力。ある意味一番安定していた歌手だったかも。やはり男声の低音はいい!


大槻孝志さんらのブラバントの貴族、斉藤園子さんらの小姓も素晴らしい。しっかりと目、耳に焼き付けておりました。ブラボーです。


最後に東京オペラシンガーズ。もうこれは最高でしたね。もう毎回のことですが。彼らはなんでこんなに素晴らしいのだろう。合唱のあの人間の声の和声の美しさ、声の厚みの美しさは、筆舌に尽くしがたい美しさでした。第2幕のエルザの大聖堂への行列は、え~ちゃんと泣きました。(笑)ハンカチとティッシュは大活躍しましたよ。



とにかく、ヤノフスキ&N響のぐいぐいと推進力あるオーケストレーション、歌手、合唱とまさに大スペクトラルの異次元の空間であった。ここ数年間の中では最高のできだと思いました。


277675855_5239974732691671_2800727961789185620_n.jpg


東京・春・音楽祭2022 

東京春祭ワーグナー・シリーズ vol.13

《ローエングリン》(演奏会形式/字幕付)

東京春祭 ワーグナー・シリーズ


2022年3月30日 (水) 17:00開演(16:00開場)

東京文化会館 大ホール


出演


指揮:マレク・ヤノフスキ

ローエングリン(テノール):ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー

エルザ(ソプラノ):ヨハンニ・フォン・オオストラム※1

テルラムント(バス・バリトン):エギルス・シリンス

オルトルート(メゾ・ソプラノ):アンナ・マリア・キウリ※2

ハインリヒ王(バス):タレク・ナズミ

王の伝令(バリトン):リヴュー・ホレンダー

ブラバントの貴族:大槻孝志、髙梨英次郎、後藤春馬、狩野賢一

小姓:斉藤園子、藤井玲南、郷家暁子、小林紗季子

管弦楽:NHK交響楽団

合唱:東京オペラシンガーズ

合唱指揮:エベルハルト・フリードリヒ、西口彰浩

音楽コーチ:トーマス・ラウスマン

字幕:広瀬大介





nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。